2024/12/22

今日はラカン協会の年次大会があった。『エクリ』セミナーにはオンラインで何度か参加していたが、対面参加するのは多分初?かなと思う。精神分析系のイベントにはちょくちょく足を運んでいたのだが、そもそも僕が文学部の所属ということもあり、全然ラカン関係の知り合いがいないので、かなりアウェイな存在であり続けていた。やっぱり登壇者の話を聞いていると質問したいことが思い浮かんでくるので発言してみるのだが、自分が的外れなことを言っているのではないかとか、部外者の人間がよくない振る舞いをしでかしていないかなど、いつも不安はあった。今日は前々から一方的に知っていた人とも改めて面識を作ることができて、よかったと思う。

もともと東大の3年次に編入した当初は解釈学をやろうと思っていて、ディルタイ、ハイデガー、ガダマーなどに興味があった。そこからヘーゲルに関心が移行し、ヘーゲル『精神現象学』における「ことば」というテーマで卒論を書こうなどと考えていたこともあった。その時からすでにコミュニケーションの可能性と不可能性、「理解」ということなどに関心があったわけだ。だが、ヘーゲルの哲学はそのダイナミズムというか、ある一方の極がもう一方の極にジャンプしてしまうような動きというものに魅力を感じていたものの、実際のテクストを読むのはあまり楽しいと感じられず、ちゃんとやっていけるだろうかという不安は感じていた。

3年生の秋から原和之先生の「精神分析学」の授業を、どういう動機だったか忘れたが受講して、そこではじめて「ラカン」の存在を知った(たしかその頃はまだオンラインだった)。入学後にベルクソンのゼミに参加すべくフランス語の勉強には入門していたが、それまではずっとドイツ語しかやっていなかったし、ラカンという人物のことは全く知らなかった。しかし、ラカンの言語理論に関する原先生の話を聞いていると、言葉を話すことが持つ緊張感のようなものを、このラカンという人物は的確に表現し得ているのではないかという感じを受けた。(なぜか、その頃のことを思い出すとリンチの『ロスト・ハイウェイ』の光景が思い浮かぶ。)

さらにラカンは(コジェーヴを介した)ヘーゲルに影響を受けていることもその授業で知り、ヘーゲルの勉強も活かしつつ「言語」に関する面白い研究ができそうだということで、ラカンに興味を持つことになった。それから春休みだったか、向井雅明の『ラカン入門』をかなりじっくり読んだ。何度も前の話に遡って整合性を確認したり、実際に紙でメビウスの輪を作ってそれを切ってみたりした。それで4年生の春にはラカンをやりたいということになって、夏前の卒論中間報告ではラカンの言語理論を扱うということを発表した。

それまでは順当にヘーゲルをやる学生だと思われていたので、いきなりラカンをやると言い出したことに先生たちは驚いていた。驚いていたし、「よりによってラカンか…」という雰囲気もあった。それをやることを禁じはしませんが、いわゆる秘教的な「ラカン語」にはならないように書いてくださいね、とは注意された。

当初は、ソシュールとフロイトの前提を書いたのち、ローマ講演、セミネール3巻、文字の審級を全部扱ってシニフィアンについて書こうと構想していたが、結局そこまで扱えるわけもなく、ソシュール、フロイト、「文字の審級」で収まることになった。

セミネールで一番最初に読んだのは3巻。上下巻が安かったから買ったらカビていて臭かった。アルコールで拭いたり、天日干しにしたりしてみたが、今でも少しカビている。高田馬場の喫茶店「ロマン」に何度か行って、読んだのを覚えている。前半はなんとなくわかったが、後半のシュレーバーの話が深まってくると全然わからなくなり、あとは意地で読み通した。その後セミネール1巻と2巻に関しては、今ではかなりわかるようになったが、最初に読んだ3巻はいまだにあまり理解できていない。つまりパラノイア論。これを集中的に扱う時期を作る必要があると思う。

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