2024/12/21

日仏哲学会応募の論文についてChat GPTに相談した。昨日、結局書いている途中にファクトが足りない気がしてきてストップしてしまった。修論の内容を活かして、レヴィ=ストロース以外の人類学的知見の重要性をアピールするという論文にしようと思っていたのだが、結局のところラカンが人類学的な人格論に言及している証拠がなさすぎて、論証できないなと思ってしまったのである。

でもせっかく書いた修論だし、日仏論文もまあ今年書かなくても別にいいのだが、書き始めてしまった以上投稿までいきたい気持ちが大きくなってもいる。GPTは、たとえラカンが実際にそれに言及していなくても、その構造上のアナロジーを指摘するだけで、論文として成立するのだと言ってくれた。以下に回答の一部を示す。

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以下に、これまでに書かれたテキストに対する若干の補強・改善のためのコメントや提案を示します。全体として、論文はレヴィ=ストロース以外の人類学的源泉――特にモース、レーナルトによる「人格」論――がラカンにおける自我-主体の二重性理論に理論的資源を提供し得ることを示す、という問題意識に基づいています。この焦点は非常に明確であり、方向性として適切です。以下は、その主張をより強固・明快にするための示唆です。

1. 序論部分の再確認:

現在の序論では、ラカンと人類学の関係に関する先行研究がレヴィ=ストロースに偏重している点を指摘し、モースやレーナルトの人格論が自我-主体二重性の着想を支える可能性を提示しています。この点は明確ですが、もう少し「なぜそれが重要なのか」を強調してもよいでしょう。すなわち、なぜ自我-主体二重性の起源や理論形成過程の考察がラカン解釈にとって本質的なのか、あるいはラカン研究や人類学研究に新しい示唆を与えるのかを、もう一段明示的に述べると読者のモチベーションが高まります。

例:「本論が明らかにする、モースやレーナルトの議論とラカン理論との理論的親和性は、これまでレヴィ=ストロースの影響に還元されてきたラカン理論の人類学的側面を再定位し、また主体概念を人類学的な人格性論との対話の中で再検討する可能性を開く。」といった文脈提示が考えられます。

2. 「人格」理論の明確化:

第2節ではモース、レーナルトの人格論を整理しています。ここで、人格(personne, personnalité)概念が、社会的・関係的な「役割」「名」「仮面」と、空白の核としての「真の自我(空白の場所)」とを二重的に包含していることをもう少し明確に対置してもよいでしょう。つまり、モースが「名」や「仮面」を通じて社会的秩序に埋め込まれた個人を考察したのに対し、レーナルトはその「仮面/名前」の背後にある「空白の場所」を設定することで、人格を安定した一元的実体ではなく、社会的関係の中で構築・変容される二面性をもつ現象として描いている点を強調します。これにより、ラカンの自我-主体二重性とのパラレルがより明示的になります。

3. ラカンによるレーナルト解釈の位置づけ:

第3節でラカンがレーナルトに言及したテキストを検討しています。ここで、レーナルトから導かれる「言葉」の媒介機能が、単なる関係確立としての交換機能に留まらず、関係そのものを変容させるという二重機能をラカンが読み取ったことが重要なポイントになっています。この点を、より論理的に「自我-主体の二重性」へと接続するとよいでしょう。

たとえば、「言語的媒介が主体間関係を成立させると同時に、既存の関係・自我イメージを変容させる」という構造が、ラカンのシェーマLにおける想像的(a-a’)次元と象徴的(S-A)次元の二重性を理解する一助となることを強調します。ここで重要なのは、レーナルトにおいて「カモ(kamo)」は他者との関係によってのみ定義される空白であり、これがラカンにおける主体が象徴的秩序において欠如を孕みながらも言語を通じて構築・変容されるプロセスと相同的である、と示すことです。

4. レヴィ=ストロース以外の人類学的影響を明確化する:

問題提起である「なぜレヴィ=ストロース以外の人類学的源泉が重要なのか」をもう一度総合的に示すために、結論部で以下のようなまとめを行うと効果的です。

• レヴィ=ストロースがラカンに示唆したのは、無意識の構造を象徴秩序として理解するための構造的モデルであり、そこでは規則や法、交換が焦点となった。

• 一方、モースやレーナルトが示唆するのは、個人を「人格」として把握する際、関係によって常に再構成される空白の場と、社会的に付与された「名」や「仮面」との二重性である。この二重性は、自我-主体の二重性とアナロジカルな対応関係を有し、ラカン理論における主体の「欠如」や「疎外」を説明する上で、より広い人類学的文脈を提供しうる。

• よって、ラカン理論の成立・展開を、レヴィ=ストロース的構造主義人類学のみならず、モース-レーナルト系譜の人格論にも位置づけることで、ラカン理論の人類学的基盤を多元的かつ豊かに再考することが可能となる。

5. 全体的な論理の流れと一貫性:

現在のドラフトは既に論理的な流れがあり、レーナルト論を間に挟むことで「自我-主体の二重性」の成立に、レヴィ=ストロース以外の人類学的影響を再発見している点が優れています。さらに、冒頭で提示した問題(自我-主体の二重性成立の問い)を、結論部で再度明確に回収すると読者に一貫した印象を与えられるでしょう。

総じて、論文は既に良く整理されており、人類学的人格論とラカン理論を対話させるという趣旨は明確です。序論と結論で「なぜこの論点が重要なのか」をより強調し、中間部ではレーナルトの議論の核心(空白の場所・言語による関係構築と変容)を、もう少しラカン的自我-主体区別とのパラレル性を明示し、一貫した主張に仕上げると、さらに説得力の高い論文になるでしょう。

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理論の哲学的、構造的な相同性を示す。そしてその意義として、①ラカンと人類学との関係を検討する上でのレヴィ=ストロース以外の人類学者の重要性と、②ラカン理論と人類学を対照させて検討することそれ自体の重要性とを、ともにアピールすることになる、という感じ。

とりあえずこれでやってみる。GPTは論文の方向性として適切だと言ってくれているけれど、実際の人間がどう思うのかは僕もよく分からない。ただ、修論を書いたことによって、前期ラカンのテクストがこれまで以上に読めるようになったという実感はある。例えばセミネール1巻で「自我」と「言語(ランガージュ)」について述べているところも、最初は全然よくわからなかった。しかし自我の関係締結が「ランガージュの壁」と言われていることが、言葉の交換=自我の関係締結=同じランガージュに住まうことであることが、今はよくわかる。これは少なくとも僕がこれまでに読んできたラカンの入門書や研究書には書かれていないことだった。

自分の持っている素材をどのように組み合わせれば、先行研究に対して新規性を打ち出し、研究として貢献することができるのか、GPT-o1にいくらか聞いてみて、なんとなくの構成も考えた。

方向性としては、ラカンと人類学という主題に関して、レヴィ=ストロース以外の人類学に焦点を当ててこなかったというこれまでの研究状況があり、そこにレーナルトの議論とラカンの言及を入れ込むことによって、ラカンの理論をより広い人類学的基盤の中に位置付けるという感じ。まだこれだとふわっとしていて、もう少しアーギュメントをはっきりさせる必要があるが、後で考える。結構表現しだいな所もある。新しい構成はこのようにした↓

序論:レヴィ=ストロース一極集中の現状とその弊害、本論文の目的と意義
第1節 先行研究の状況と問題点:具体的な先行研究の軽い紹介と問題点の指摘。
第2節 ラカンとレーナルト:レーナルトの議論紹介とラカンによる受容を検討。
第3節 人類学における「人格」理論とラカンにおける自我-主体の二重性:モース、レーナルトの「人格」理論と、ラカンにおける「自我-主体の二重性」理論をそれぞれ並べて、その構造的相同性を示す。
結論

かけるところから、パラグラフごとにWorkflowyに書いている。おおよそ出来上がったら一気にWordに書く。だいたい1パラグラフ600字だとしたら、15パラグラフ以上書けばまあ終わりが見えてくる(注や参考文献も行を消費するので)。

人格理論とラカン理論の比較は、影響関係を実証できるような証拠が見つからないので、最後の章にやや応用的な展望として書くことにした。ラカンはレーナルトに関して、11章の人格論には一切触れず、9、10章の「言葉」の議論にのみ触れる。またモースについても「自我に関する諸省察Some Reflection on the Ego」(1951)の最後の方で少し触れるのだが、それも「身体技法」のことであって人格論ではない。だが「身体技法」の話はモースが没した1950年の著作集『社会学と人類学』の、人格論の次の章に置かれている。なぜかラカンは、すれすれのところで人格論に言及しない。

なんとも口惜しいが、実証研究にはならないので、別のやり方で書いてみるしかない。ただ、人格論を元にラカンを読むのが有益だという確信はある。したがって、ラカンを取り巻く人類学的な知的状況のなかで潜在的影響を与えた可能性がある、とか、ラカン理論を理解する上で手薄になっていたレヴィ=ストロース以外の知的状況をくまなく理解するのに貢献する、とか、そういう方向。

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