自分は明らかに論文執筆に悩んでいるという感じがする。フランス語にも悩まされている。フランス哲学の研究者で、論文執筆とフランス語学習に悩まされているというのはどうなんだ、という感じもする。
悩まないことも色々ある。ラカンやほかのテクストを読んで、その核をうまく掴んだり、理解したりすることは得意だ。読んでちゃんと理解するのは得意。議論するのも得意。議論しているときには色々と論点が浮かぶのに、なぜ査読用の論文執筆になるとこうも悩むんだろうか。議論のときにはそこまでの厳密さを必要としないからだろうか。
なんとか議論のときの躍動感を論文にも落とし込めれば、とは思うが、別物なのかもしれない。
先行研究に何か不満を感じていないといけないのかもしれない。不満…。不満がないわけではない。でも正直、それぞれにやっていればいいんじゃない、という無関心はある。ラカン研究がほかの哲学研究と違って、あまり対話的に展開されていないという不満はある。例えば片山保文氏なんかは90年代からシリーズ的な論文を毎年投稿しているけれども、大半は紀要で、しかも自分でラカンのテクストを読んで書いているだけである。誰々の研究は〜〜と言っている、みたいな内容はない。そんなんでよく研究者としてやって来れたな、という気もするが、実際、そうなる気持ちもわかる。
お互いが参照し合っていないので、解釈の派閥みたいなものも共有されていないし、各々が独立に読みました、という状況になっている。参照するとしても、ジジェクとかミレールとか、一部の有名どころだけ。
自分もそうなりそうでいながらも、それだと査読論文が通らなくて研究者としてやっていけないので、そこに対する問題意識を(半ば無理やり)作り出した、という感じがする。
仮に先行研究の整理ということをやったとして、どうなるのか?それは参照されるのか?先行研究を調べて、おおよその傾向ごとに分類して、自分の立場を打ち出す。
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