日仏哲学会に入会申請を行なって、3月の研究発表に応募するための要旨を書く。秋ごろにラカンとレヴィ=ストロースに関する論文を色々集めて読んでいたのが結局修論に入らなかったので、それを使おうと思う。発表時間が確か25分とかで全然短いので、議論に深入りするというよりは、先行研究の布置を整理するというような、まあつまらないかもしれないけど専門的な内容にするつもり。仏語圏の研究を紹介する。
セミネール4巻を引き続き読み進める。ハンス症例の再読は邦訳下巻。上巻では最初の方で、当時(1956年)刊行された「今日の精神分析Psychanalyse d’aujourd’hui」に対する痛烈な批判を行なっている。「対象」概念について、象徴界、想像界、現実界のトリアーデにそった区分を行う。
修論で自我やパロールについてはかなり詰めて考えたのもあって、読んでちゃんと理解できる感じがする。ラカンはこの年から本格的にセクシュアリティのことを考え始める。同時に、「対象a」につながる議論が開始される。
「性」というのはフロイトにとっての主要概念だった。フロイトはこの精神の働きを「リビドー」という概念を使って説明しようとする。リビドーの備給や脱備給。フロイトのメタ心理学については主にセミネール第2巻でラカンが読み込んでいる部分でもある。一見するとこれは、人間の心を機械のように見立てている。ラカンが「リビドー」概念について繰り返し強調するのは、これが「エネルギー論的」概念であるということ。そしてセミネール4巻では、こうしたエネルギー論的に物事を見るということが、一つ一つの要素を象徴的なものとして見、計算し、操作するということなのだと言われる。
僕の読みでは、リビドーという考え方は、未開社会の人々が考えるような「呪力」みたいなものと大体同じ。漫画でいう「気」とか「オーラ」とか「チャクラ」でも良い。要するに人間は、世界を解釈するときにエネルギー論的に物事を見るのだ、ということ。それは物理学における「エネルギー」でも、あるいは情報理論における「情報量」でも同じことである。ともかく、さまざまな異質な要素が、等質なものとして、ある共通の尺度で測定可能な諸要素として扱われるということなのだ。それが、物事を象徴界というシステムにおいて捉え、計算するということ。
ラカンは水力発電所を例に語っている。発電されるエネルギーは、川にあったのだろうか。いわゆる「位置エネルギー」として、発電部分から見た川の水の高さにあったのだろうか。ラカンは、そこにエネルギーがあることは、水力発電所の装置が実際に稼働しない限りわからないのだ、と強調する。それが、「現実界(現実的なもの)」をラカンがドイツ語の「Wirklichkeit」に相当するものだと言った時の、「効果Wirkung」という語義に対応しているという。
おそらく、フロイトは、同じことを自然ではなく、人間というシステム対して行なっている、とラカンは考えているのだと思う。実際に「リビドー」の器質的基礎があるか否かというのは関係がない。それは人間が外世界との相互的な働きかけの中で、それがあるものとして見出され、考量可能になるようなものである。ラカンはさらに、「水力発電所」という装置の際立ったところは、それが単に作動の中で力を変換するだけでなく、エネルギーを「蓄える」ということができるということだという。そして同じ機能を人間精神の中で有しているのが「エス」である。
エスは人間精神における発電所であり、リビドーを「蓄える」ことができる審級であり、リビドーの源泉である。
リビドーということを考える時、人によってリビドーの総量に違いはあるのだろうか、としばしば考える。きわめて生産的な人間と、一見するとそうではない人間がいる。そのようにこの目に映るのは事実。だが、それは一体どういうことなんだろうか。生産的な人間は、何を生産しているのか。器質的・物理的なところに根拠を求めようとすれば、身体が含むいわゆる自然科学的な意味での「エネルギー」量は、生産的な「天才」と非生産的な「凡人」とで変わりはないはずである。大体同じ質量を持っている。
では「情報量」か。生み出す情報量に違いがある。それは言えるかもしれないが、情報量とはそもそも何なのか、情報量というのはほとんどリビドーと同じ概念だと思う。ただ興味深いのは、それが数学的・物理学的に、自然現象におけるエネルギーとの間で計算可能だということ。ラカンはセミネール2巻の時期に、サイバネティクスへの傾倒に伴ってよく「情報量」の話をしていた。
結局、リビドーの寡多というのはわからない。それは動作する以前の水力発電所にどれだけの電気が蓄えられているかが分からないのと同じこと。動作することで、そこにリビドーが蓄えられていたということがわかる。
コメントを残す