2024/11/30

赤入れ後に諸々修正作業。もう少しなのだが、よし終わったというところまでなかなか行かない。明日はもう12月。安心できるところまで進めたい。ただ、論文自体の洗練度は上がってきていると思う。

今日は夕方以降に友人のやっているポップアップのカフェに顔を出そうと思ったのだが、D’angeloを流しながら作業したりゴロゴロしたりしていると段々と気持ち良くなってきてしまい、結局家にいることにした。お昼に餃子の材料を買っていたので、水餃子にして食べた。焼餃子も好きなのだが、水餃子も美味しいしさっぱりする。作るのもそんなに大変でないし、これは良い。まだタネがいっぱい残っているので、明日も皮に包んで水餃子をたくさん食べるつもりである。

さっき友達と電話していて、寂しい時とか孤独を感じる時にどうするのか、依存状態に陥らないためにどうするのかを話した。それで僕が話したのは次のようなこと。

まず、依存先の分散みたいな話があるけれども、たしかにじっとしているのが一番つらいので、何かアプローチできる選択肢が多い方がいい。僕だったら、音楽を聴いたり詩を読んだり、散歩したり、ギターを弾いたり、録音したりといったことを対処法としてこれまでに身につけてきた。だが、これらは生身の人間が関わらない手段であって、生身の人間に関わるという手段もある。つまり対処法として、人間が関わる方法と人間が関わらない方法がある。人間が関わる方法は効能が大きいが、例えばあんまりベタベタ行きすぎるとトラブルになったり敬遠されたりして、余計つらくなるなどの不安定さがある。対して人間が関わらない方法は、いくらでも活用することができる代わりに、生身の人間ほどの効能は期待できない面がある。結局、そこはマネジメントの努力なのだ。

と、このように話したのだが、後から思い返すと、生身の人間が関わらない方法なんてあるのだろうか、と思う。もちろん、レコードや再生機は生身の人間ではない。しかし、何か効能があるというのは、それはつまり生身の人間と直面しているのと同じ精神的な働きがあるからなのではないだろうか。音楽を聴いて感動したり、散歩しながら鴨の戯れにふと微笑したりできるのは、なにか人間的な影響を自分が受けたからなのではないか。身の回りのさまざまな物質、物体に対して、そこに何らか人間的なオーラを感じながらそれと関わるということだってあるはずではないか。

そう考えると、安定した物質と不安定な人間という単純な二項対立では考えられないような気もしてくる。

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