2024/11/19

「象徴、そしてその宗教的機能」の読解もほぼ終わり、レーナルト章は大体終わった。あとは昔書いたマリノフスキーの章を読み直して全体を調整するのと、ラカンの章を加筆すること。現在5万4千字ほどで、分量としては少なくともあと6千字くらい書くことになる。ラカンのセミネールから何か書くことがあるとすれば、充溢したパロールと空虚なパロールの議論、それからシェーマLについて。最終的に論文の向かう先として、人類学から受け取った言語論をラカンが精神分析の文脈で理論化し、その成果がシェーマLへと結実した、という流れにしようと思う。あの図は最初にラカン自身が示す時に、これは単なる図式化にすぎないからあまり信頼しすぎるなみたいなことを言っているのだが、それでもやっぱりよくできた形式化だと思う。

もうラストスパートに入る。基本は広げない。引用の形式とか、表現の修正とか、節の繋ぎ方とか、仕上げ作業も並行して行う。

「象徴、そしてその宗教的機能」におけるレーナルト

 ラカンはこの講演の初めに、その題目が「精神分析における象徴的効果l’efficacité symbolique dans la psychanalyse」[1]になる予定だったが変更した、と断りをいれている。というのも、この講演が十字架の聖ヨハネに関する、すなわち神秘主義や宗教性に関するミルチャ・エリアーデとの討論会になることを知ったからである。しかし、その後に展開するラカンの議論は依然として、象徴の機能の考察をその中心に置いている。

 ラカンは「象徴にはおそらく本質的に関係の価値une valeur de relationがある」と述べる。あるいは象徴の「関係的な機能function relationnelle」とは何であるか。それが問題である。

 象徴の関係的な機能についてラカンがまず言及するのは「割れたテッセラla tessère brisée」である。テッセラとは一般的に、古代ローマで入場券や配給券として利用された金属札として知られている。が、ここではそれが二つに割れており、再び結合させられることが要請されるようなものである。これは、「象徴symbole」の語源としてよく知られる古代ギリシアの「シュンボロン(割符)」に近いものと考えることができよう。つまり、象徴は何よりもまず、人と人との間に紐帯を創設する関係締結的機能を有する。

ここで問題になっているのは、まさに言葉が、主観間の関係を創設し、基礎付けるということだ。そして、その関係は、二つの主体をそのままの形で結びつけるものではない。むしろ、彼らを新しい次元にアクセスさせる関係の中で主体として構成するのである。(pp. 57-8)

 ラカンがさらに細かく指摘することとしては、象徴が二人の主体の間に関係を創設するとき、その二人の主体は以前とは異なる新しい関係の中で関係を持つということである。

 そうして議論は、第1節でも扱った「言語」と「行為」の関係へと移ってゆく。すなわち、ヨハネ福音書の「はじめに言葉があった」である。レーナルトへの言及はここでなされる。

これは私たちも知っている。しかし、しばらくの間、私たちは世界に導入するこの種の騒動が『行動』であると考え始めている。すべての現代人はこの問題で心を悩ませているのだ。『初めに言葉Verbeがあった』、しかしそれでも、『初めに行動があった』のではないか!その間で心が揺れている。しかし、そんなに悩む必要はない。なぜなら、人間にとって究極の行動とは、まさにパロールであるからだ。/もちろん、私たちが形而上学的真理の秩序の中で自分を見つける手助けとして、時代を超えて常にさまざまなきらびやかな人道主義があり、そこには『善良な野蛮人』や『ウロン族』が登場する。したがって、レーナルト氏がとても遠く、カナク人のところまで行き、彼らが行動とパロールを同一視していること、特別な形をした小さな漁具を作ることが、彼にとってはパロールであることを私たちに思い起こさせるのも不思議ではない。(p. 60-1)

 すでに見たように、ラカンはゲーテ『ファウスト』の「はじめに業ありき」を再回転させて、やはりはじめにあったのは言葉verbeであると考える。そしてこの「言葉verbe」とは要素の集合としての「ランガージュ」のことである。最初に「ランガージュ」があり、それに次いで、行為としての「パロール」が発せられるのであった。そして上の引用からは、レーナルトの『ド・カモ』におけるカナク人たちが、まさに行為=パロールの水準に生活しているとされている。

 ラカンは言葉を話すことの原初的なあり方を一つの行為と見做し、レーナルトが紹介するカナク人社会をその典型と考えた。だが、この後に続くテクストは、言語と行為の関係をラカンがより詳細に理論化し、そのことによって精神分析という行為が如何なる営みであるかを位置付けている。それは、言葉と行為の関係に「知savoir」という第三項を導入することによってである。

〔カナク人がパロールと行為を同一視していることに対して、〕どういうことだろうか?彼が知っていることが、彼が行うことと明確に区別されていないのは確かだが、行為と言葉が同じ物であることを理解するために、そこまでいく必要があるのだろうか?——なぜなら、私たちが何かをするたびに事情は同じであり、我々の知は我々の行為と同じだからだ。/ただし、何をしているのかを知ることと、それを知るために立ち止まることは別のことである。その瞬間、めまいvertigeがおそい、知と行為の区別が生まれる。[MIN 60-1]

 カナク人たちのようにパロールと行為を区別しないというのは、「知ることsavoir」と「行うことfaire」が区別されていないということである。ここでの「知ること」とは、つまり自分が何をしているのかということと解せる。すると、「山」に対して合言葉の「川」という返答を行うことと、そのような返答が相手との同盟関係を確認し合うことであることを知ることが、区別されていないことになる。しかし、そのような未分化な次元から、「知と行為の区別」へと至る過程がある。上の引用で用いられる「めまいvertige」というキーワードに着目して、「象徴界、想像界および現実界」の記述をみてみよう。

人間の主体は、この種のめまい(vertige)に特別にさらされており、その結果、それを遠ざける必要性、何か超越的なものを作り上げる必要性が生じます[NDP ]

フロイトの理論が進展したことで、我々は不安angoisseが常に喪失、すなわち自我の変化に関係していること、二者関係が消えかかっており、被分析者がある種のめまいvertigeなしには受け入れられない何か新しいものが続くべきだということを知っています。不安の本質と領域はここにあります。第三者が介入し、ナルシシスティックな関係に入り込むと、対象者にとって超越的な人物、つまり支配のイメージとして機能する人物が仲介役として登場し、被分析者の欲望や成就が象徴的に実現できる可能性が生まれます。その瞬間、法や罪悪感culpabilitéといった別の領域が現れます。[NDP 39]

 ここには二つの情動、すなわち「不安」と「罪悪感」があり、それぞれが二者関係と三者関係(第三者の介入)に対応している。そして、二者関係から三者関係への移行は、二者関係に必然的に取り憑く「めまいvertige」を除去するためであるという。したがって、知と行為の区別は、「めまい」の除去の結果として考えることができる。

 次に問題となるのは行為と区別されたところの「知」とは何についての知であるかということであるが、これも「めまい」との関係で考えることができる。ラカンはこうも言っている。「精神分析家が自分の行為に関連して自分自身を見出すこの種のめまい」[NDP ]。めまいを覚えるのが分析を受ける主体でなく精神分析家と言われているのは一旦おいておくとして、「知」とは自己自身についての知であるということがわかる。ラカンはアウグスティヌスの著作を読み返すように勧めた上で、そこから引き出される言葉paroleの機能を「主体による主体の認識la reconnaissance du sujet par le sujet」と簡潔に定義している。つまり、二人の主体の間に第三者が介入することによって、主体は自らを認識することができ、それによって「めまい」が取り除かれて罪悪感が現れる、ということになる。主体が認識する(=知る)自己とは、他者関係における自分の位置、例えば親族関係における自分の位置である。そのことを具体的に捉えるために、ラカンが「約束la parole donnée」と呼ぶものの議論を見よう。

 「与えられた言葉la parole donnée」は熟語で「約束」を意味する。ラカンは仮にそれをラテン語訳するとすれば、「信頼fides」が妥当であるという。「約束とは、例えば、女性というこの奇妙で創造の表面を漂う存在に対して、『君は私の妻だTu es ma femme』と言うことにほかなりません」[MIN ]。このようなパロールは「誓約の言葉paroles d’engagement」とも言い換えられており、相手と自分の関係を何らかの第三者に対して宣誓するような言語使用であると言える。「君は私の妻だ」と語ることによって、相手と自分が夫婦であることを「約束」し、相手が自分の妻であることを相手に託しつつ「信頼」し、また自分が相手の夫であることを「誓約」する。主体が自己認識するための言葉とは、このように相手との関係を規定しようとする言葉である。そしてその言葉が相手からの「諾」によって承認されたとき、二人の主体は「夫」、「妻」という(自我的な)親族関係を結ぶことになる。

 ただし、この関係締結が本来はあくまでも自我的なもの、仮設的なものにすぎず、つねに主体の本当の姿である「空白の場所」によって脅かされるものであることを忘れてはならない。「めまい」はそれゆえに生じる。そうして生じためまいを再び除去するためには、二人の主体は新たに互いの関係を再確認する必要に迫られるだろう。そうしてまた新たな関係のもとで「約束」が交わされる。つまり、関係締結は関係維持しながらも関係変更を迫られる状態であるということになる。そこから精神分析家の役割が理解される。精神分析家は、患者が自己自身を認識するために存在する。患者が「めまい」を感じながらも、それを想像的な閉回路の中に安住することで覆い隠しているものを取り去り、新しい関係の中に自己を見出す援助をする。

 このように、ラカンは言葉を話すことを関係締結の行為と見ただけでなく、そこに関係を維持するための言葉と、関係を変更し再締結するための言葉を区別する。そして、関係の変更と再締結は、仮面としての自我の背後にある主体が「空白」つまり「無」であることによって駆動される運動であった。


[1] 「象徴的効果」は後述するように、レヴィ=ストロースの用語および論文名である。

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