2024/11/17

レヴィ=ストロースの章を削除したのでこちらに残しておく。後に論文化する内容。↓

レヴィ=ストロース

 レヴィ=ストロースとラカンの間には直接的な交流があった。その記録は主に、ラカンに関する最も参照されている伝記の著者でもあるエリザベート・ルディネスコが記しているが、我が国ではその概要を原和之(2008)において簡便に確認することができる。それによれば、少なくともレヴィ=ストロースの発言を見る限り、「レヴィ=ストロースにとってラカンとの交際はあくまで私的な領域にとどまるもので、彼自身の思索には何ら影響を与えなかったと考えざるをえない」ということである。とはいえ、ラカンの方はといえばセミネールの初年度から繰り返しレヴィ=ストロースへの言及を行なっており、レヴィ=ストロースからラカンへの影響はかなり大きいものがあったと考えてまず良い。またレヴィ=ストロースは、ヤコブソンの構造言語学から受け取ったものについて、「構成要素はその位置によってのみ意味作用を持つのであって、内在的な意味は存在しない、という考え方。それからもう一つは二項対立で、それで全部です」と発言している。特に前者の、構成要素が全体のうちの位置によって意味作用を持つということは、これまでにわれわれが見てきたような意味の脈絡論の構造主義的説明といえる。本章では、特に50年代前半のラカンが参照した可能性の高いレヴィ=ストロースの文献とラカンの記述を対照させながら、ラカンの構造主義的な脈絡論および言語行為論を再構成する。

 本研究はレヴィ=ストロースとラカンの理論を比較するのではなく、上の前提に基づいて、ラカンがレヴィ=ストロースから受け取った発想が如何なるものであり、それをラカンが自らの理論の中にどう落とし込んでいったのかを追跡するものである。

諸先行研究の批判的検討

 ラカンとレヴィ=ストロースの関係、および理論的な比較検討に関しては、種々の先行研究が存在する。この節ではそれらを概観しよう。

 パルミエ(1970)

 Mehlman(1972)は、特にレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』に着目している。彼によれば、レヴィ=ストロースは『悲しき熱帯』で物語られているような他者理解の不可能性への葛藤と絶望(『悲しき熱帯』で描かれるレヴィ=ストロースの旅は1930年代に行われたものである)を経て、「構造分析」という新しい方向へ向かった。レヴィ=ストロースは「無意識」の概念を導入することによって、この他者理解の不可能性を克服しようとする。というのも、「無意識というものは、自分と他人との間の媒介項である」からである(モース『社会学と人類学 Ⅰ』、有地ら訳、p. 23)。メールマンは、30年代の苦しい旅を経たレヴィ=ストロースが「無意識」という考え方に出会うことで、他者理解の不可能性に対して一つの態度を見出したと考える。

 Mehlmanは、レヴィ=ストロースがシニフィアン/シニフィエという言葉で考えていたことを、ソシュールにおけるラング/パロールに対応するものであると論じる。そして同じ二項対立は、ラカンにおいては無意識/意識である。小田亮もこの点は同様に考える。またMehlmanは、「浮遊するシニフィアン」を、レヴィ=ストロースにおけるシニフィアンとシニフィエを繋ぎ止める働きを持っていると考えるほか、ソシュールにおけるシニフィアンに近いのはむしろこのレヴィ=ストロースにおける「浮遊するシニフィアン」であるとする。つまり、マナの力はソシュールにおける「記号の恣意性」を表現したものである。浮遊するシニフィアンは、シニフィアンがシニフィエから分離され、恣意性を持ったことの象徴であるとも言えるか。

 ボルク=ヤコブセン(1991)は、ラカンにおいて治療の目標は、もはや隠されていた情動を「除反応」することにあるのではないと考える。この点において、ラカンはレヴィ=ストロースの精神分析理解(「除反応」モデルの精神分析)から分岐する。また、ラカンとレヴィ=ストロースは、「他者のディスクール」の承認(「自らに課せられているこの種の『契約』を承認すること」、ボルク=ヤコブセン、p. 231)が問題であるということを共有していながらも、レヴィ=ストロースがその承認が可能であると考える(それが治療の目的)のに対し、ラカンはその承認は常に取り逃がされるものであると考える点で、異なっている。レヴィ=ストロースは自己と他者の媒介の希望を「無意識」に見出したが、ラカンは不可能性を手放していない。

 また、ボルク=ヤコブセンは患者に対して大文字の他者から「ひっくり返った形で」与えられる充実したパロールを与えるのは分析家であると考えているが、これはパルミエの考えとは異なる。パルミエは、意識と区別される人格であるところの「無意識」と分析家が同一視されることはあり得ない。「無意識に認めるべき地位について言えることは、ただ、『エスはしゃべる』ということだけである」(パルミエ、p. 219)。

 ボルク=ヤコブセンは、「象徴」をめぐる科学と呪術の主題に関して、レヴィ=ストロースとラカンの方向性の違いを指摘している。要約すれば、レヴィ=ストロースは魔術(呪術)を還元して、象徴の科学的捜査として説明したのであるが、ラカンは反対に、科学も呪術の一種に過ぎないという方向に進む。ボルク=ヤコブセンは、それがのちのラカンの奇妙な数学的形式化、「数学素」を作り出したと考えている。「それ故、結局は、ラカンの数学素に対して、その科学的でない性格を告発しようと望んでも、それは無益であろう(語呂合わせに関して、その不真面目な点を告発しても、それが何になるだろう) 。ラカンが一番自らの虚構を信じていなかったのであり、その企ては実際全く別のものであり、いずれにせよもっと巧妙であった。それは魔術の全体的な脱神秘化に基づいた科学の全体的な神秘化の企て——ある意味で、これは完全にシニカルなものであって、なぜなら、それは完全に意識的であるから——であった。」(ボルク=ヤコブセン、p. 250)。この点は、DescombesやScublaなどの、いわゆる「象徴的なものの自律性」に関するレヴィ=ストロースとラカンの違いにも対応する。実際、ボルク=ヤコブセンはDescombesを肯定的に引用している。

 Dunand(1996)はレヴィ=ストロースとラカンの違いについて、レヴィ=ストロースにおいては交換の働きによって個人は完全に社会組織の中で安定を獲得するのであるが、ラカンにおいては何らかの満足が失われ、その失われた満足があとで現れてくるのだと言われている。すなわち「欲望」について対立を作るとすれば、レヴィ=ストロースでは欲望が完全に満たされるのに対して、ラカンにおいて欲望が完全に満たされることはない。レヴィ=ストロースにはない、我が国ではラカンの否定神学モデルと言われるものが、両者の違いと言える。これはのちの「対象a」概念にも繋がっていくのであるが、この点は岡安(2021)の議論とも一致する[1]

 またレヴィ=ストロースにおいてランガージュは無時間的、パロールは時間的であり、神話というのはこの両者を結びつけるシステムであるとされていた。これに対し、ラカンにおける「パロール」はそれ以上の機能もつ。それは「意味の啓示=暴露rebelationであり、さらに言えば、存在の啓示=暴露である」(Dunand, p. 106)。「パロール」の機能に関して、ラカンはレヴィ=ストロース以上のものを看取している。それはパロールの二つの機能である「媒介」と「暴露」のうち、後者のものであろう。後者つまり「真理」との関係におけるパロールの機能は、ラカンがレヴィ=ストロースとは別のところ、フロイトやハイデガーから受け取ってきたものである。あるいはまた、それを投影する形でレーナルトを読んでいたとも言える。

 原和之(2008)は、レヴィ=ストロースが「コードの複数性」を主張する点でフロイトから離反し、そのことはむしろラカンとの距離を近づけることになった、と論じている。つまり、フロイトを批判するレヴィ=ストロースも、フロイトへ回帰するラカンも、結局は「コードの複数性」を認める点で一致しているとされる。また、『やきもち焼きの土器づくり』の読解を通してレヴィ=ストロースの言語行為論的な意味論を紹介している。

 長谷川朋太朗(2020)は、ラカンとレヴィ=ストロースの理論的対立点を、①ラカンはレヴィ=ストロースの認めない象徴的なものの自律性を主張している(長谷川はこの第一の点について分析した先行研究として、デコンブとScublaを挙げている)[2]、②象徴的なものについて語るときラカンは、レヴィ=ストロースの用いない想像的なものと現実的なものという概念に常に依拠する、という二点に求めている。そして、ラカンが「象徴的なもの」の概念に関してこのようにレヴィ=ストロースから袂を分かっていったのは、何よりも彼が精神分析家であり、フロイトの再読と精神分析の基礎づけという目的から出発したからだ、と長谷川は論じている。ただこの点、Zafiropoulos(2003)は、もともとデュルケミアンだったラカンはレヴィ=ストロースを介してこそフロイトへ回帰したのだ、と主張している(Zafiropoulos, pp. 19-20)。ラカンにおける「フロイト」への準拠が、レヴィ=ストロースから離れる方向に働いたのか、それとも密接化する方向に働いたのか、という点で長谷川とZafiropoulosは対立するように思われる[3]

構造

「象徴的効果」

 この論文は、南米インディアンにおける難産を助けるための呪文を分析し、その機能を考察したものである。シャーマンは難産中の妊婦のためにこの呪文を唱え、儀式を行い、そのことが治療になる。

治療は、したがって、はじめは感情的な言葉であたえられる状況を思考可能なものにし、肉体が耐えることを拒む苦痛を、精神にとっては受けいれうるものとすることにある。シャーマンの神話が客観的現実に照応しないということは、大したことではない。(p. 218)

 シャーマンの唱える呪文は出産のプロセスを神話的形象を用いて歌ったものである。そこでは守護霊や悪霊、超自然的怪物などが「原住民の宇宙観を基礎づける緊密な体系の一部をなしている」(p. 218)。患者における難産の苦痛はこの統一的体系から逸脱した要素であるが、「シャーマンは神話に訴えて、全てが相互に関連し合う全体の中へ、これを置き戻すであろう」(p. 218)といわれる。その際、神話の内容は客観的(あるいは科学的)現実に対応していなくても構わない。客観的現実と関係のない神話が、しかし実際に患者を治癒させるのである。こういった現象について見出さなければならないのは、例えば細菌と病気という「原因と結果の関係」(p. 218)ではなく、「象徴と象徴されるものとの関係、あるいは言語学者の言葉を用いれば、シニフィアンとシニフィエとの関係」である。「シャーマンは、その患者に言い表されず、またほかに言い表しようのない諸状態が、それによって直ちに表されることができるような言葉を与えるのである」(p. 218)。シャーマンは象徴を用いて、構造から逸脱した要素を新たな構造のもとに再統合する。

 象徴を用いるとはすなわち「言語表現への移行」(p. 218)である。したがって、レヴィ=ストロースは、シャーマンによる治療と精神分析家による治療はいずれにおいても「それまで無意識にとどまっていた葛藤と抵抗を意識に導こうとする」(AS 219)のだと考える。

両方の場合とも、葛藤と抵抗が解消されるのは、患者が次第に獲得していく現実的あるいは仮想的な認識connaissanceという事実からではなく、この認識がある特殊な経験を可能にし、その経験のあいだに諸葛藤が、それらを自由に展開し解決へと導くことを可能にするような順序およびレヴェルにおいて実現されるからである。この体験expérience vécueは、精神分析においては「消散abréaction」という名を受けている。(AS 219)

 シャーマンが唱える呪文は患者の苦しみが神話的形象において展開し、最後には解決へ導くような物語を語り出す(そこではシャーマン自身が難産を苦しむ物語の主人公である)。これが、精神分析においては患者の側が無意識の葛藤や抵抗を整理し、自らの個人神話を言語化するような「消散」に対応しているのである。

神話と出産の平行関係の調和を保証するのは、象徴的効果である。そして、神話と出産とは一対をなしており、患者と医師の二元性がそこにたえず見出てされる。精神分裂症の治療においては、医師が作業をおこない、患者がその神話をつくり出す。シャーマニズムの治療においては、医師が神話を提供し、患者は作業をなしとげるのである(p. 222)。

 「象徴的効果」とはしたがって、神話世界と現実世界を結びつけるものであり、象徴次元の操作が人間に対し実際的な影響を与えうることを保証するものである。

「ローマ講演の議事録」におけるレヴィ=ストロース

しかし、私たちの議論を最も厳密に基礎づけるのは、レヴィ=ストロースが示した証拠です。それは、親族の基本的な構造全体が、名目的な枠組みの複雑さを超えて、潜在的な組み合わせの意味を示しており、それが私たちの計算によってのみ明らかにされるにせよ、言語の進化において文献学philologieが証明する無意識の作用だけが、それに匹敵するものである。/言語が形態学的な集約の根本的なシステムに従って分布する文化圏と、親族の秩序の基礎となる同盟の法則によって区切られた地域の一致に関する考察は、一般化された交換の理論へと収束する。この理論においては、女性、財産、そして言葉が同質なものとして現れ、最終的には知られている象徴的秩序の自律性に到達する。この象徴のゼロ地点において、われわれの著者は、常に予感されてきたマナmanaの概念がもたらすものを形式化している。

 この引用は、上で読解したレーナルトへの言及の直後に続く一節である。カナク人社会の観察は、「言葉」が社会的行為であり、それを通じて主体を形成するものであることを教えた。だがラカンにとって、人類学が言語の機能をより厳密に基礎づけるに至るのはレヴィ=ストロースを待ってのことである。そこで導入されたのは「親族の基本構造」であり、数学的(組み合わせ論的)に分析可能な構造である。レーナルトもすでに『ド・カモ』において関係論的な人格論を展開しており、主体(カモ)を「空白の場所」と規定していた。パロールが遂行される関係網

 また、女性、財産、言葉という三種類の交換物がある。レヴィ=ストロースの交換理論は上のような組み合わせ論的構造論と結びついたものである。これら三種類の交換物が同質となるゼロ地点を一言で表せば、ラカンにおいてそれは「象徴」である。交換体系においては「象徴」が交換されている。

 なぜ象徴が交換されるのか、その動因を説明するのが「序文」における「マナ」の概念である。ただし、象徴システムの全体性としての「浮遊するシニフィアン」によって、そのシステムが「自律性」を獲得したとまで言ってよいのかに関しては、ラカンのとレヴィ=ストロースの間の微妙な差異を無視することができない。

 「象徴(システム)の自律性」を巡っては、ラカンとレヴィ=ストロースの間に対立を置くことがしばしば先行研究においてなされてきた。長谷川朋太朗は、ラカンとレヴィ=ストロースにおける「象徴的なもの」を比較し論じたDescombes、Scublaの研究を参照して、「ラカンはレヴィ=ストロースの認めない象徴的なものの自立性を主張している」とまとめている。その意味を我々は、ラカンのセミネール2巻の「象徴的宇宙」と題された回の内容から量ることができる。

 この日のセミネールの前日には、SFPが主催した「人間科学」に関する連続講演の、レヴィ=ストロースの講演があった(「親族対家族la parenté contre la famille」)。セミネールではラカンが議論を先導しながら、参加者たちでその内容を検討している。

 結論から言えば、象徴システムは普遍性を持っている。ここでの「普遍性」は、まずもって『親族の基本構造』の議論をふまえている。レヴィ=ストロースは『親族の基本構造』第1章で、文化と自然の境界、ないし自然から文化への移行点がどこにあるかを考えている。彼はそれまでの数々の心理学、動物行動学、社会学等等の先行研究を批判的に検討し、それらがいずれも文化(人間的なもの)と自然の境界を見出すことができなかったとする。

 そこでレヴィ=ストロースが考えるのが、婚姻関係である。類人猿には、たとえそれがどんなに高度に発達した種であっても、無差別な性行動が観察される。そこには内的・外的刺激に対する反応と軌道修正程度の学習があるだけであって、行動を支配する規則としての「規範」は存在しない。これに対して人間においては、程度や様式の差はあれ、いかなる地域の社会にも「インセスト禁忌」が存在する。レヴィ=ストロースは「インセスト禁忌」が人間社会のあるところに遍く存在することを「普遍的」と称し、人間における普遍的なこのインセスト禁忌こそが、自然から文化が誕生した契機と見なす。

 ラカンのセミネールの参加者たちは、レヴィ=ストロースの「普遍性」をめぐって討論を交わす。ラカンが「象徴」が持つ「普遍的」という性質を語るのはここである。

言い換えると、すべてが相互に連関しあっています。人間的次元という固有の領域において何が起きているのか、ということを考えるためには、次元がひとつの全体性を構成しているという考え方から出発すべきです。象徴的次元における全体性は宇宙un universと呼ばれます。象徴的次元はまずその遍在するuniverselという特性において与えられます。/この次元は少しずつ構成されるのではありません。一旦象徴が到来すると、そこにはひとつの象徴の宇宙があるのです。(S2「自我」上巻p. 45)

 人間的な固有の領域は「象徴」の領域にあり、象徴システムは一つの全体を構成している。ここまではレヴィ=ストロースの主張と違わない。ラカンがその先に進むのは、象徴的次元の「普遍性」を「宇宙univers」と読み換え、象徴システムを一つの「宇宙」と捉えることによってである。

 ラカンのこの規定が読み換えと言える理由は二つある。第一に、レヴィ=ストロースは「インセスト禁忌」がどの文化にも「普遍的に(遍く)」存在することを、ただ経験的にしか示していない。彼はいくつかの研究を引いて、インセスト禁忌が存在しないように見える社会にも、程度の違いがあるだけでやはり存在することを示しているにとどまる。これに対してラカンは象徴の性質として、はじめに「普遍性」を置き、それを経験的に根拠づけることをしない。第二に、一見すると経験的なレヴィ=ストロースの論述もまた、経験の持つ有限性から「普遍性」へと跳躍しているように見えるからである。レヴィ=ストロースの根拠づけは、そこからインセスト禁忌の「普遍性」を措定するには不十分である。ここにはレヴィ=ストロース自身が意図していなかったかもしれない彼の前提があると言える。

 ラカンのいう「普遍的universel(象徴的宇宙univers symbolique)」の中身にもう少し立ち入りたい。

 出席していたO・マノーニが、「偶然」について問題提起をしている。例えば、人間においては右利きが普遍性(のようなもの)を持っており、左利きは少数である。また、巻貝の殻の巻き方や方向には普遍的な形態が存在し、例外的に逆向きの個体がいる。彼の発言によれば、レヴィ=ストロースはその講演で「いつ頃からか自然と文化の間の対立がはっきりと見えなくなってしまった」と漏らしたらしい(p. 50)。これに対して同じく出席者のイポリットは、「それは普遍的偶然性でしょう」と返している。

 インセスト禁忌は普遍的に存在する。だが同時に、インセスト禁忌がこれこれの形態で存在するのは偶然的である。マノーニによれば、「右利きか左利きかということが社会的なものなのか生物学的なものなのか、未だかつて解明されていません」。レヴィ=ストロースもまた、この境界の曖昧さに関して同様の指摘を行なっていた。子供が暗闇を恐れるのは果たして、しばしば考えられているように生命の危機に対する自然的な反応なのか、あるいは社会的に構築された文化的な反応なのか。しかし、ごく初期の幼児は暗闇を恐れないという報告がある。レヴィ=ストロースはまた、「恒常性・規則性」の見られる領域が、人間とそれ以外の生き物では異なるともいう。生物において恒常性が見られるのは、本能的・遺伝的な領域である。動物たちは本能・遺伝に従って、刺激に対して恒常的・規則的な反応を返す。これに対して人間では、同じ刺激に対する反応は地域や時代や文化によって多様である。納豆を好んで食欲を掻き立てられる文化があれば、嘔吐反応を引き起こされる文化もある。反対に、人間において恒常性・規則性が見られるのは伝統や規範の領域である。そこではある刺激に対する行為の恒常的な規則性、すなわち規範が見られる。

 ラカンはマノーニの上記の発言に対して、あなたはレヴィ=ストロースの語った「偶然」を取り違えていると指摘する。ラカンによれば、レヴィ=ストロースが問題にした「偶然」は「必然」に対立するものである。そして、「普遍」と「必然」の区別が必要であるという。ここでラカンが「数学の必然」と呼ぶものはなんであるか。数学には必然性がある。よくわからない。そしてラカンは次のようにいう。

エディプス・コンプレックスは普遍的であると同時に偶然的です。なぜならこれは、とりわけ、そして純粋に偶然的なものだからです。(p. 52)

 レヴィ=ストロースが「インセスト禁忌」を普遍的に存在すると考えているように、ラカンはフロイトを引き継いで、これを「エディプス・コンプレックス」と読み替えている。

組み合わせ論的な変換操作

「神話の構造」

 1955年にJournal of American Folkloreに掲載された「神話の構造」は、まず人類学におけるそれまでの「心理学的問題」優位の姿勢に対する批判から書き始められている。タイラーやフレイザー、デュルケームといった人類学者・社会学者たちは人間心理の「感情」の側面に過剰に焦点を当て、また言語や論理といった知的なもの「以前」を捉えようとして失敗した。そのような理解のもとでレヴィ=ストロースは、知的なものの再評価を企図する。神話の内容が偶然そのように形成されるものなのだとすれば、「地球の端から端まで、どのようにしてかくも神話は似通っているのだろうか[4]」(『構造人類学』、p. 230)。

 この問いに対してレヴィ=ストロースは、ソシュール言語学の知見を用いて、「神話は一個の言語である」(p. 233)という公準を立てることによって答えようとする。神話が一個の言語であるとはどういうことか。レヴィ=ストロースによればそれは二点の重要要件から構成される。(a)「あらゆる言語的存在と同じく、神話は構成単位からなっている」。(b)「それらの構成単位は、言語構造に通常はいっている構成単位、すなわち音素、形態素、意義素の存在を前提とする」(p. 233)。神話は構成単位から成る体系であり、その構成単位は言語学的には音素や形態素、意義素と呼ばれるところのものである。もっとも、レヴィ=ストロースの用語を使えば神話における構成単位は「神話素」と呼ばれる。これら構成要素の間には種々の関係が存在し、その関係にこそ体系の本質は存する。「この大構成単位の各々は、関係としての本質をもっているのである」(p. 234)。神話の「意味」を取り出すときにも、前述した従来の人類学者やユングらのように個別の要素と人間の前言語的情動を結びつけるのではなく、それら構成要素の間の関係を分析することが求められることになる。

 レヴィ=ストロースが行う具体的分析を一つ紹介しておくことは有益だろう。例えばオイディプス神話はある一定の長さをもった物語であり、また語り手によっていくつかのストーリーのヴァリエーションが存在する。仮にその一つのヴァリアントを選んで、ストーリーの諸要素を平面的に展開してみると、下の図のようになる

 この平面は上から下、左から右へと横書きのテクストのように読んでいくことでオイディプス神話の物語の流れとなる。ただし、縦に区切りを入れると四つの欄に区分されている。それぞれの欄には、登場人物や事物が変化していたとしても、抽象的水準において同類と見做されるような諸要素が配分されている。つまり、いくつかの限られた要素が反復して出現し交替することで、一続きの物語が構成されているのである。

同じ欄にまとめられた関係はすべて、仮説により、共通の特徴を示していて、これをとり出すことが当面の課題である。すなわち、左の第一欄に集められた挿話はすべて、いわば、その親近さが度を越している血縁者たちに関わっている。〔中略〕第二欄は、同じ関係を、逆の符号を付されたものとしてあらわしていること、すなわち過小評価された、あるいは価値を切り下げられた親族関係をあらわしていることが明らかになる。第三欄は怪物とその退治に関している。第四欄に関しては、〔中略〕どれもみな、まっすぐ歩行することの困難を想わせる仮説的意味をもつということである。(p. 237)

 第一欄と第二欄には、親族関係における「過大評価」と「過小評価」という対立関係がある。怪物の退治に関する第三欄の共通特徴を「人間の土からの出生の否定」(p. 238)にあると解釈すると、次いで第四欄の共通特徴は「人間の土からの出生」にあると解釈できる。すなわち、第三欄と第四欄の関係は対立関係にあるのであり、それは第一欄が第二欄との間に対立関係を持っていることと並行的になる。

 さらに解釈を推し進めると、「人間が土から生まれる」とその反対である「男と女の結合から生まれる」、そしてさらに抽象化して「はじめの問題——人間は一者から生まれるか、それとも二者から生まれるか、というそれ」(p. 239)へと帰着する。すなわち、神話の一つ一つの具体的な要素間の関係が、最も抽象的かつ形而上学的な宇宙論における根本問題の二項対立を表現していたことが析出されるのである。

 以上は複数存在するオイディプス神話の一つのヴァリアントについての分析(の大まかな紹介)であるが、その他のヴァリアントにもそれぞれ上に示したような展開平面が存在すると考えると、「オイディプス神話」とはそれぞれの平面が何枚にも重ねられた総体を指し示す名称であったことがわかる。「こうして、それぞれ一つのヴァリアントにあてられた二次元の表が多数得られ、これらはそれぞれ並行の面として、三次元の全体をなすように並べられるだろう」(p. 241)。

浮遊するシニフィアン

「マルセル・モース著作集への序文」

 「序文」の最終部で展開される「浮遊するシニフィアンsignifiant flottant」の議論は、我が国ではすでに浅田彰が『構造と力』(初版1983)において「有名な」と形容し、簡潔な説明を与えている(pp. 190-2)。河野(2022)もまた「序文」の詳細な読解を行っている。本稿でその説明の全てを繰り返すことは控えるが、大雑把に要約すれば、この「浮遊するシニフィアン」は未開社会における「マナ」や「ハウ」といった概念であり、これらの概念の機能は「シニフィアンとシニフィエの間のずれを埋めること」(p. 36)である。つまり、あらゆるものを意味し、同時に何も意味しない純粋象徴であることによって、浮遊するシニフィアンはシニフィアンの過剰に対するシニフィアンを用いた対処法となる。シニフィアンの過剰という知的条件に対して呪術師が行うシニフィアン操作においては、この浮遊するシニフィアンがきわめて重要な役割を果たしているのだろうと考えることができる。

 浮遊するシニフィアンは人間の知的条件に対してどのような機能を果たすのか。浅田は「シニフィアンはシニフィエに対して常に過剰に存在し、二つの系列の対応を維持しようと思ったら、特別なシニフィアンがこの過剰分を集約的に引き受けねばならないということである」(p. 191)と説明している。たしかにこの説明は、浮遊するシニフィアンがシニフィアンとシニフィエの間のずれを埋める機能を持つことを表している。しかし、呪術師がいかにしてこの浮遊するシニフィアンを利用し、シニフィアンの過剰に対処するのかということについての詳細な説明とはなっていない。レヴィ=ストロースの記述を見てみよう。

この型の観念が働くのは、いわば代数記号symboles algebriquesのように、それ自身は意味sensをもたずそれだけにまたどんな意味でも構わずに受け入れることができるので、意味的に不特定な価値を表象するためである。そして、その唯一のunique機能は、シニフィアンとシニフィエのあいだのずれecartを埋めること、あるいは、より正確にいえば、シニフィアンとシニフィエとのあいだの不全の関係rapport d’inadequationが、あれこれの状況や場面あるいはこれらの観念のあらわれmanifestationの際に、それ以前の相補的関係relation complementaireを犠牲にして確立されているという事実を表示するsignalerことである。(p. 36)

つまりマナは、内容のない形式、もしくはより正確には純粋の象徴であって、それゆえにいかなる象徴的内容をも帯びることができるのではないだろうか。すべての宇宙論がつくりあげる象徴の体系の中で、これは単にゼロの象徴的価値を示すものでしかなかろう。つまり、すでにシニフィエを担っているものに対する追加的な象徴的内容の必要性を明示しながら、しかし、それがまだ処分可能な蓄えの一部をなしており、かつすでに音韻学者のいわゆるグループ語ではないという条件で、一つのなんらかの価値でありうるような記号。(p. 42)

 「音韻学者のいわゆるグループの諸項ではないという条件」とは、マナという要素が、それ以外の諸々のシニフィアンにグループを作らせ、なおかつそのグループには属さないことによって存在するということを意味している。それが「ゼロの象徴的価値を示す」ということの内実である。「有音のh」や「脱落性のe」のように音声表記する際には存在するが実際には発音されない部分に「ゼロ音素」が使用されることで、音素の不在が埋め合わされる。つまり音声表記と実際の発音の間にずれがあり、音声表記が過剰な状態にある。これがレヴィ=ストロースにおいてはシニフィエに対するシニフィアンの過剰という人間の知的条件に対応づけられ、マナはいわばシニフィエの不在に対立しこれを埋め合わせるために用いられる記号である。

 これも繰り返し指摘されてきたことであるが、ラカンは「ローマ講演」のなかで、レヴィ=ストロースの「浮遊するシニフィアン」と象徴機能すなわち言葉の力を支えるものとしての「父の名」と同一視している。この力はまた、ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の中で風刺された「負債」とも言い換えられる。

聖なるハウや偏在するマナも、この「負債」と同一のものであり、この侵すべからざる「負債」の保証があればこそ、女たちと財産とを運ぶ航海は、もとの出発点へと、他の女たちと他の財産を、循環周期を描いてあやまつことなく持ち帰り、それらの女たちと財産とは、ある種の同一的実体性を担うことになるのである。この実体性を、レヴィ=ストロースは、ゼロの象徴と呼び、大文字の話の力を一つの代数記号の形態へと還元したのであった。(E 279)

 「浮遊するシニフィアン」は、負債であり、ゼロ象徴であり、マナやハウであり、父の名であり、言葉の効力を支えるものであり、また交換体系を駆動するものである。すでに我々はマリノフスキーの章においてクラ交換と呪術の親近性を見てきたが、「呪術」を支えるものもまたこの「浮遊するシニフィアン」であると言える。それはレヴィ=ストロースにおいては「象徴的効果」を支えるものでもある。

「双分組織は実在するか」

 「浮遊するシニフィアン」のまた別の現れ方を確認しておこう。「双分組織は実在するか」(初出1956)では、アメリカとインドネシアにおける幾つかの事例をもとに、「双分組織」として報告されている構造が詳細に分析される。「双分組織」とは部族の集落や構成員が二つの部分に分けられ、その二つの部分の間に種々の外婚的関係や階層関係が存在することの包括的概念である。

村落の構造への半族区分の影響を吟味するとき、ラディンは、彼に情報を与えてくれた老人たちのあいだに奇妙な不一致があることに気づいた。彼らの大多数は円形の村落を描いて、二つの半族は北西から南東に走る理論上の直径によって区分されているとした(図6)。ところが何人かの者はこの村落分布図に烈しく反対し、別の図を描いてみせた。その図では半族の首長の小舎が中心にあって周辺部にはないのであった(図7)。ラディンによると、どうやら最初の配置図はつねに高い方の半族の情報提供者によって描かれ、二番目のものは低い方の半族の情報提供者によって描かれるものであるらしい。(p. 150)

 「双分」的構造には二つの意味があり、それぞれは「直径的構造」、「同心円的構造」と呼ぶ。「われわれにとって重要な点は、この双分制そのものが二重のものだというところにある」(p. 155)。直径的構造はシンプルに全体を二分する構造で、それぞれの半族の間にある義務や権利には相互性・対称性が認められる。これに対して同心円的構造によって二分される二つの半族の間には不平等・非均斉で階層的な関係がある。だが、それだけではない。双分組織には第三の契機として、これを「三元的構造」として解釈する余地がある。例えばボロロ族の八つの氏族は三つのクラス(上・中・下)に分けられているし(p. 159)、またウィンネバゴ族における「高いもの」と「低いもの」という一見明白な二元的対立は、実際には三つの極を持つ三元的対立を持っている。つまり、「高いものは一つの極——天——によって示されうるが、低いものは地と水の二つの極を要求するからである」(p. 169)。

 レヴィ=ストロースは双分組織が含有する「直径的構造」、「同心円的構造」、「三元的構造」を前にして、「同心円的構造」が「直径的構造」と「三元的構造」の媒介となっていると分析する。

そのときわれわれは問題の別の側面に接近することができる。それは直径的と同心円的という双分制の共存に関するものである。その答えはたちまち出される。すなわち、同心円的双分制というのは直径的双分制と三分制の媒介をするものであり、一形態から他形態への移行がおこなわれるのはその仲介によるということである。(p. 167)

 すなわち、本当は三分的構造を持っている組織が、「同族的な二項として扱う論理的なごまかしによって、二元的なものに偽装される」(p. 169)のを可能にするための構造として、同心円的構造が存在するということである。

 レヴィ=ストロースが「浮遊するシニフィアン」と同等の契機を見出すのはその後である。双分制と三分制との融合体である「双分組織」のうちボロロ族の社会構造図がある。三つのクラス(上・中・下)のグループが小円によって示され、それぞれに伸びる三分線は、これらのグループの間の結婚不可能性(すなわち、ボロロ族ではそれぞれのグループ内で内婚が行われている)を表現している。したがってこの構造図において三つのグループを統合する機能を果たすのは、それぞれの小円を貫通するようにして描かれる大きい円である。この大きい円の機能はなんであろうか。

 レヴィ=ストロースによれば、この大きい円は、ボロロ族の村落を区切る「南北の線」に対応している。

この南北の線はすべてのボロロ族の村落において、擬似外婚的な半族の線〔すなわち東西の線。だがあくまでも擬似外婚的であって、その実質は内婚である〕と垂直に、氏族を高、低、あるいは上流、下流と呼ばれる二つのグループに切る線である。この第二の分割の役割ははっきりしないと私はしばしば述べてきた。たしかにそうなのである。なぜなら、もしここでの分析が精確であるならば、南北の線はボロロ族の社会を存在せしめること以外のいかなる機能も持たないという——一見驚くべき——結論が導き出されるであろうからである。(p. 174)

 レヴィ=ストロースによれば、この南北の線は「それ自身は意味を持たないが、それがあることによって社会体系全体の存在を可能ならしめるもの」(p. 175)である。そして、「この仮説はたしかに実地に検証されねばならぬものであろう。けれども、研究を進めることによって、ゼロ・タイプとでも呼びうるような制度的形態に当面するに至ったのは、これがはじめてのことではない」として、「マルセル・モース著作集への序文」が参照指示されている[5](p. 174)。

 ラカンがレヴィ=ストロースの「双分組織は実在するか」を参照指示するのは、同年1956年に刊行された『La Psychanalyse』第2巻に掲載された「<盗まれた手紙>についてのセミネール」においてである[6]。そこでは次のように言われている。

いま、ひとつの記号が現れるたびにきまる三個一組になったいくつかの記号のグループの性質を、以上のような連続の通時態のうちに象徴的に表現して、それらを例えば次のように共時的に定義する。すなわち、変化しない対称(+++, −−−)を(1)の記号で示し、交互の対称(+−+, −+−)を(3)の記号で示し、また反対記号の先行、後続には関係のない二個の同一記号のグループという形で、奇数によって示される非対称(+−−, −++, ++−, −−+)に(2)の記号を与える。すると、これ他の記号によって生み出される新しい系列のなかに、次の網状図が要約するような連続の可能と不可能とが現れてくる。また、この網状図は、三つの組をふくらませた同心の相称系を表している——言い換えると、ここに表れてくるのは象徴的な組織の二元論にみられる根本的なあるいは目立った特徴に関して、人類学者たちによってつねに繰り返されている問題に関係を持っているはずの構造そのものであって、この点に注意を向けたいと思う。[E 47]

 最後に言われている「人類学者たちによってつねに繰り返されている問題に関係を持っているはずの構造」が「双分組織」のことである。ラカンは+と−の(一回一回は)偶然的な配列が作る非偶然的な構造を、「三つの組をふくらませた同心円的対称を表しているmanifeste la symétrie concentrique dont est grosse la triade」と解釈し、人類学における双分組織「そのもの」とまで見做している。


[1] では、レヴィ=ストロースがラカンとは違ってそこまで楽天的に象徴構造というものを考えていたかというと、そうでもないように思われる。「マルセル・モース著作集への序文」の中では、社会が完全に象徴界されることはなく、個人と社会との間には常にずれがあるとも記しているからである(cf. 序文、p. 15)。ただし、Dunandの主張によれば、シャーマンが行う治療はそれでも個人を社会的信念体系の中に再統合することであるのに対して、ラカンにおける(つまり精神分析における)治療はむしろ集団と個人との間に「ギャップを作ること」である。象徴化の不完全ということはラカンもレヴィ=ストロースも共有しているように思われるが、それに対する治療実践の意味合いが、両者では異なる。

[2] レヴィ=ストロースは「序文」の中で、異常な個人行動は「自律的な象徴性に支配される幻想を個人の平面において現実化する」と述べている(序文、p. 8-9)。レヴィ=ストロースが、複数のシステムが互いに矛盾しあっているがゆえに完全なシステムは存在しない、と語るときに、そうでありながらも完全なシステムの幻想を、異常な個人が示すということだろうか。また、ラカンはS2「象徴的宇宙」の中で、「象徴的領域の自律性」という言い方が、レヴィ=ストロースに対し偽装された超越を思わせるのではないかと指摘している。レヴィ=ストロースは実地に、超越を排除してシステムを見ようとする。だから完全なシステムはない。システムは自律的ではない(ただ、それはレヴィ=ストロースが『悲しき熱帯』の葛藤を完全には乗り越えていないことを意味するのか?)。しかしラカンはシステムの自立性を信じる。それは「聖なるもの」の取り戻しでもあるか(デコンブ)。

[3] Dunandはセミネール11巻の議論に言及して、レヴィ=ストロースにおける「無意識」が必ずしもフロイトの「無意識」であるとは限らないことを指摘している。レヴィ=ストロースの無意識が準拠しているのは未開人の精神であるが、フロイトはヒステリー者の精神に準拠している。河野も報告するようにレヴィ=ストロースの「消散」概念はアレキサンダーに多くを負っている可能性があるため、レヴィ=ストロースが理解する「無意識」はフロイト以降の精神分析家たちによる様々な変形を受けたものと考えられる。これに対してラカンはフロイトのテクストそのものへの回帰を出発点とし、同時にフロイトの解釈者たちへの批判の中で自らの「無意識(=言語)」概念を構築していった。が、その構築過程ではレヴィ=ストロースの理論に多くを負っている。つまり、確かにレヴィ=ストロースを介してフロイトへ回帰したというのも言えなくはないが、同時にラカンは直接フロイトに向かうことで独自の解釈を施したのもある。その両方向がある。

[4] 「神話の本性に属しているこの根本的アンチノミーを意識するという条件でのみ、その解決を望むことができる」(p. 230)。同じ問いは未開民族における芸術表現の普遍的な類似性に対しても提起されている(「アジアとアメリカの芸術における図像表現の分割性」)。例えば、アメリカの部族の芸術と中国やニュージーランドの部族の芸術表現に「偶然では説明できない複雑な類似」(p. 272)が見られ、しかも歴史的な伝播過程が存在しない可能性が極めて高い場合、その奇跡的な類似性をどう説明できるだろうか。「心理学的性質のものか論理的性質のものかはともかく、内的諸関連が、単なる確率の戯れからは結果しえないような頻度と凝集とをもって同時に現れでるものを理解できるかどうか、問うてみよう」(p. 272)。結局、レヴィ=ストロースが簡潔で明快な解を与えることはいずれの論文においてもない。さらに、「双分組織は実在するか」は、アメリカとインドネシアのいくつかの事例を援用しながら、各地域の信仰や諸制度に明らかに普遍的に見られる類似の代表として「双分組織」を分析している(pp. 148-9)。

[5] 当該箇所の原注。「そのようにして何年か前に、私はmanaの定義を下すにいたった」(p. 179)。

[6] 「<盗まれた手紙>についてのセミネール」は1955年4月26日に口述発表を記録したものであるが(E 44)、1956年の『La Psychanalyse』第2巻掲載時に「序INTRODUCTION」が新たに付されている(『La Psychanalyse 2』, pp. 1-14)。この時点で、『Bijdragen tot de Taal-, Land- en Volkenkunde』誌に掲載された「双分組織は実在するか?」へ言及されている。『エクリ』(1966)版では「序INTRODUCTION」が記録本文の後ろに置かれ、また「双分組織は実在するか?」が1958年の『構造人類学』に収録されている旨が追記された。

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