レーナルト章加筆。ローマ講演およびその議事録を読解。「物chose」についての説明がいまいち自分でも上手くいっていないと思う。↓
次いでラカンは動物と人間の違い、つまり象徴を持たないものと持つものの区別を、マッサーマンを批判しながら論じる。その大概は一章で論じた通りである。断っておくが、ラカンは動物の行動に「象徴」へと至る契機が全くないと言っているわけではない。「我々は人間の領域の外側に象徴的行動の起源を求めることを、恐れるわけではない」[E 272]。それは「象徴界、想像界および現実界」でも言われていた[1]。動物行動と人間の社会的行為は、それぞれ想像的なものと象徴的なものとして明確に区別される(ゆえに初期ラカンの想像的なものの研究においては、動物行動学がよく参照されていた)。しかし象徴的なものは人間の幼児期において、ほかならぬ想像的な段階からの跳躍として発生するものである。ラカンは動物と人間を分けるもの、人間の本性であるものを「象徴」と考える。そして、一方では人間の社会的行為を動物行動から連続的に捉えながら、他方では象徴の発生という跳躍において、動物と人間の間に断絶を敷いてもいる。
一連のマッサーマン批判を終えて、ラカンは動物から区別される「人間」の誕生に関わる「象徴」が持つ特異な性格に焦点を当てる。それは「消失するという、言葉ならではの在り方」[E 276]である。「象徴界、想像界および現実界」でも、ラカンがフロイトの糸巻き遊びの子供の例を挙げて、象徴というものが現実の現前と不在を超えた永続性を獲得するということを述べていた。ラカンはここでも同じ話をしている。「言葉はすでに不在から作られた現前であり、不在はまさにその言葉によって、その始まりの瞬間において名指されることになる」[E 276]。だがここで注目すべき新たな概念として、「物la chose」がある。ラカンによれば、概念が体現する象徴の永続性は、「物の宇宙」を生み出すのだという。
一つの無の痕跡であることによってしか体をなさない物、それゆえ決して変質することのないものを支えとしているもの、そうしたものによって、概念は、移ろいゆくものから持続を救い出して、物la choseを生み出す。/概念はまさに物である、というだけではまだ充分ではない。そのくらいのことなら、学校教育に反抗しながら、子供でも証明できる。物たちの世界を創造するのは言葉たちの世界であり、物たちははじめは生成しつつある全体のここに今hic et nuncのうちで混然としている。言葉たちの世界は、物たちの本質に具体的な存在を与え、いつも変わりなくあるもの、つまり世世の遺産に、どこにおいてもその場所を与えるのである。[E 276]
「物」についてのラカンの説明は明快とは言えない。しかし、次のように仮説的にパラフレーズしてみることで、この後の読解と突き合わせることを可能にもするだろう。すなわち、母が現前と不在を繰り返す中で「母」という象徴が(概念として)生まれる。象徴は永続性を持つので、たとえ現実に母がいなくても、主体は「母」を使ってものを考えたり、「母」が居るかのように演技的に振る舞ったりすることが可能である。そのようにして獲得されていった象徴たちは、それぞれが「物」として、一つの象徴的な世界を構成する。その世界は物理的世界とは区別される言葉の世界であり、主体にとっては無視することのできない人間的な世界である。したがって人間は物理的な影響を持たない、象徴的な「物」の世界の中で社会生活を送ることになる。
人間が「物」の世界に生き、非物理的な世界の法則に生きなければならないことを例証するのが、レヴィ=ストロースを到達点として人類学が明らかにしてきた「婚姻規則」である。そこは「母」だけでなく「叔父」、「曽祖母」といった親族名称がそれぞれ象徴として、複雑な体系を構成している。しかし、生活する人々がそれを意識していることはない。意識してはいないが、社会はその規則に従って運動する。ゆえに「無意識的」と言われるのである。「婚姻をつかさどっているのは一つの優先順位であって、この優先順位の法則は、親族関係の呼称を内包しており、ちょうど言語活動がそうであるように、この法則は、集団にとって、その諸形式において命令的でありながら、その構造においては無意識的である」[E 276-7]。
この部分からも、ラカンが一般的な意味での「言語」を超えた<構造化された交換体系>を考え、そのヴァリアントとして親族関係や語の体系を考えていることがわかる。さらにラカンは、これらの無意識の法則には「順列組み合わせの論理」があると語るのだが、その点はレヴィ=ストロースやサイバネティクスからの影響関係をまた別に検討する必要がある。これは今後の研究課題とする。
もう一つの言及箇所は、ラカンが分析家の役割について論じているところである。
我々は、録音enregistrementの役割を果たすことになる。これは、あらゆる象徴的交換における、根本的な機能を引き受けることである。ド・カモ、すなわち、本当の人l’homme dans son authenticitéが持続する話la parole qui dureと呼んでいるところのものを受け取るという機能を。/主体の真正さsincéritéのために呼び出された証人として、主体の語らいの調書保管人として、主体の厳正さの照会先として、遺書の番人として、遺言補足書の公証人として、分析家というものは、書記に類するものである。/書記ではありつつも、分析家は、真理の主le maître de la véritéの位置に留まる。主体の語らいは、その真理の前進である。既に言っておいたように、何よりもまず、この語らいの弁証法に句読点を打つのは分析家である。そしてここで、分析家は、この語らいの値prix. de cc discoursの判定者jugeとして、把握されることになる。(E 313、新宮訳p. 121)
患者は分析家に語る。そして分析家は、「録音」ないし「書記」として、患者の語りを記録する役割を果たさなければならない。そうした分析家の役割が、「持続する話」を受け取る役割を果たすことと同じであると言われている。既に見たように、カナク人社会において、「持続する言葉」は世代を超えて保存される「言葉」すなわち社会的行為である。したがってここのラカンの記述に従えば、分析家は、患者のある種の神話的世界の中で、世代をまたいで患者に影響を与えている「持続する言葉」がなんであるかを分析によって明らかにする役割を果たすことになる。
ローマ講演「議事録」におけるレーナルト
この議事録においても、ラカンは、自らの言語観について直接的に語っている。そして彼が回答を与える問いは、まさに本論文で扱うものである。すなわち、「言語が持つデータを現実のデータと同様に人間が受け入れざるを得ないこの言語という道具と、言語が主体を間主観的関係の中で構築するという基礎的機能にはどのような関連があるのか?」という問いである。これに対してラカンは次のように解を与える。
私の答えはこうです。言語を、分析的経験を再構成する媒体とすることによって、私たちはその用語が暗示する「手段moyen」という意味ではなく、「場所lieu」という意味に焦点を当てています。さらに言えば、それを「幾何学的な場所lieu géométrique」と称するまでに強調しますが、これは比喩ではありません。
言語を「手段」と捉える言語道具観から、それを「場所」と捉える新しい言語観へとラカンは歩みを進めようとする。そしてこの「場所」は、幾何学的な意味での「場所」と比喩抜きに同等視されるべきものであるという。この時点で、レーナルトが人格を「空白の場所」と定義していたことが想起される。「自我」の形成が他者関係を作り、その関係の網の目として諸個人の「場所」が決定される。レヴィ=ストロースによる厳密化を通過したラカンは、さらにそれを「親族関係」とまで具体化していたのであった。そしてこの観点から言語の機能を考察しなければならない。
「コミュニケーション」理論の基礎は、言語を「場所」として捉える観点から形成される。では、コミュニケーションとは何か。我々が第1章でも見てきたことを、ラカンはここで説明している。言語は信号(シグナル)でなければ記号(シーニュ)でもなく、あるいはそれが指示している外的現実の事物でもない。そうではなく、ラカンはシニフィアンとシニフィエというソシュール由来の概念を使って考えようとする。それでは、シニフィアンとシニフィエとは何か。
まず、「シニフィアン」に関してラカンが強調するのは、それが「物質的matériel」だということである。言葉は物質的なものである。しかし、ラカンが言う「物質的」は生理学的な「脳」(つまり「器質的」ということ)に関係するのではない。言語現象が生じる場所が脳であるというのは幻だ、とラカンは主張する。だとすれば、「一体、言語はどこに存在するのでしょうか?その答えはシニフィアンについていえば、他のどこにでもpartout ailleursです」。
ラカンがここで念頭に置いている「コミュニケーション」とは、情報理論におけるそれである。例えば、「ここにあるテーブルの上には、多かれ少なかれ散らばっているが、1キログラム分のシニフィアンがある。数メートル分のシニフィアンが、ここまでの私の言説が録音されたテープに巻かれている」。このとき、シニフィアンの物質性は紙やインク、テープといった実在的物質というよりも、むしろ「情報」であることに留意しなくてはならない。ラカンは、情報量を表す単位である「ハートレーhartley単位」を例に挙げて、コミュニーション理論の意義を肯定的に評価している。シニフィアンが物質的であるとは、シニフィアンが「情報」として、量的・数学的に取り扱い可能であることを意味している。
次は「シニフィエ」について。シニフィエが何であるかというのは、言葉が指し示す「意味」が何であるかを考えることに等しい。先ほど、シニフィアンはどこにあるのかという問いに対して、ラカンは「他のどこにでもpartout ailleurs」と答えていた。他方、シニフィエに関して「それで、意味はどこにあるのか?Et ce sens, où est-il ?」と問われて彼が答えるのは、「どこにもないnulle part」である。言葉の意味は、命名に見られるような、言説の一つ一つの部分(「品詞partie du discours」)がそれぞれ持つ指示対象といったものに求めることはできない。そうではなく、「意味は常に、言説discoursが展開する独自の意味作用significationの中にしか感じられないのですle sens n’est jamais sensible que dans l’unicité de la signification que développe le discours」。
意味は各々の語が有するのでなく、語が組み合わさって展開される「言説discours」の中で発生する。そのことと、上に見たような「場所」の決定、つまり主体が「存在」にしろ「親族関係」にしろ、何らかの構造化された社会関係のネットワークの中に自らの位置を見出すことが、ラカンの言語理論の中では結び合わされいてる。
こうして人間間のコミュニケーションは、常に情報についての情報であり、言語共同体の試金石であり、番号づけ〔ナンバリング〕であり、また標的の区画の調整である。その区画は、根本的な競争心から生まれる対象の輪郭を限定する。
意味を欠いたシニフィアンを交換すること(合言葉)によって、相手が「敵」ではなくなる。言語的コミュニケーションは、そこで交わされる会話の内容以上に、そのように会話を交わせること自体が、その相手と自分が社会的関係を結んでいるという情報を双方に与え合う(「情報についての情報」)。ラカンはここで言葉の「意味」について、個別具体的な内容の意味というよりも、語の一連の使用が二人の主体の間に何らか相互了解を生み出すことそれ自体の意味作用を考えていると思われる。
ラカンはここでも「物chose」に言及している。「おそらく、言説は物に関わります。実在réalitésが物choseとなるのは、この出会いによるものです。ゆえに、語は物の記号signeではなく、物そのものとなるでしょう。しかし、これは語が意味sensを放棄する限りにおいてです」。「実在が物になる」とは、おそらく、現前と不在の交替によって対象が概念となり永続性を獲得したことを意味していると思われる。
語がそれ自体でなくディスクールとなることで初めて意味を発生させることはまた、「語の使用は常にその言語全体の辞書——あるいは、その言語のすべてのテクスト——の中で成り立っている」ということを意味する。語の一つ一つに意味はなく、その語の「用法(使い方)」に、意味は依存する。「山」という言葉がどのように使われてきたのかという用法が言語の中に蓄積されているから、相手は山という地形について言葉を重ねるのでなく、「川」と返答することができる。これはその発話の「場situation」ないし「脈絡context」がどのような物であるかに依存しているともいえ、もしその場が学会会場であれば、山という地形についての学術的な語りが今度は正常な言語使用となる。語が今この場において、このディスクールの流れの中でどのような意味合いで用いられているのかについて共通了解を持つということが、合言葉を交わして互いの同族性を確認し合うことを含意しているということである。
少し議論を下って、言葉が人間に対してもつ作用についての部分を見よう。レーナルトへの言及はこの部分にある。まず、ラカンが精神分析における言葉の力を、人類学的な呪術と直ちに同一視することに対して慎重であることをすでに我々は確認した。ラカンはこのテクストではこう言っている。「私の弟子であるアンジューが、私に言語の呪術的な概念を押し付けるという過ちを犯しています。〔中略〕なぜなら、彼らは象徴的なものを現実的なものから正確に区別することができないからです。」
[1] 「動物における移動された本能行動の要素が、象徴的行動の萌芽を示している可能性があることを指摘しておきます。動物において象徴的行動を呼ばれるものとは、移動された行動の一部が社会的な価値を持ち、動物の集団にとって特定の集団的行動を認識するための指標として機能するという事実です」。[NDP ]
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