2024/11/15

久々に渚にてを聴いたら心に響いた。やっぱり好き。「鉄と恋はお熱いうちに」

Deserting You (Woman)

Deserting You (Man)

—————–

今日はレーナルト章加筆。「象徴界、想像界および現実界」の読解はほぼ終わり。「ローマ講演」およびその「議事録」をさらに加筆していく。↓

ここまで丁寧にラカンのテクストを見てきた。本章のテーマでもあるレーナルトの『ド・カモ』への言及があるのは、この直後である。

パロールは、先に簡単にお見せしたように、本質的な仲介médiationの役割を果たします。いったんそれが成り立つと、仲介はその場にいる二人の相手を変化させます。これは、特定の人間集団においても意味の領域において示されていることです。これに関しては、レーナルトの著書『Do Kamo』を読んでみてください。/この本はすべてを推奨するに値するものではありませんが、かなり表現力があり、特に扱いやすいものです。入門書としては優れており、導入が必要な人にはぴったりです。そこで、カナク族の間では意味論的に非常に特異な現象が起きるのが見られます。つまり、「言葉parole」という言葉motが、私たちが呼ぶ意味をはるかに超える何かを意味しているのです。それは一つの行為でもあり、また私たちにとっても約束された言葉parole donnéeは一つの行為の形であると言えます。それは時に物体objetでもあり、たとえば誰かが持つ花束のようなものでもあります。つまり何にでもなり得るのです。そしてそこから、以前は存在しなかった何かが存在するようになるのです。[NDP 35-6]

 この引用でラカンは『ド・カモ』のなかの「言葉(ノやエウェク)」の議論に言及している。カナク人社会で「言葉」が行為や物体として認識されることが、言葉の関係変容的機能に結び付けられている。だが我々は、この議論を理解するためにはむしろレーナルトの人格論を参照することが有益と考える。『ド・カモ』にラカンが与える評価は「すべてを推奨するに値するものではありませんが、かなり表現力があり、特に扱いやすいもの」といった程度であるが、言われている以上に核心的であることが示されるだろう。

 まず、レーナルトにおいて「人格(カモ)」は二重に考えられていた。カモはそれ自体で存在するものではなく、他者との「自我」の関係を結ぶことで、複数の自我が輪郭を形成することで現れる「空白の場所」であった。「空白の場所」と、その対他的な装いとしての「自我」を、ラカンにおける「主体」と「自我」に対応させることができる。「自我」は本当の自己ではないが、自我がなければ「空白の場所」としての「主体」も考えられない。自我同士が関係のネットワークを形成することで、その網目に「場所」が現れる。このようにしてカナク人たちの社会が形成されることになる。「それ〔言葉parole〕は単にこの仲介médiationを構成するのみならず、同じくらい現実そのものréalité elle-mêmeをも構成しているのです」[NDP 36]。

 言葉の関係仲介的機能が作り出す「現実そのもの」を、ラカンはレヴィ=ストロースの影響のもとで「親族関係」(親族の基本構造および複合構造)と考える。言葉が構成する「現実」を、レーナルト自身は「存在」や、社会的結束を支える「人間的なもの」と規定していた。これに対してラカンはこの「現実」の例として「親族の基本的な、すなわちアルカイックな構造と呼ばれるものce qu’on appelle une structure élémentaire, c’est-à-dire archaïque de la parenté」を挙げ、レヴィ=ストロース的な「親族の基本構造」を考えている。レーナルトもたしかに叔父と甥を結ぶ人格の関係を論じていたが、彼にとって関係のネットワークはハイデガー的なニュアンスを帯びた「存在」ないし「人間的リアリティー」であった。したがって、ラカンがレーナルトの「人格」論とレヴィ=ストロースの「親族構造」の概念を結合させていると考えることができる[1]

 今後の議論の前提を補完するために、人類学の要素は薄いが、もう少し先の部分まで見ておきたい。

 フロイトは『快原理の彼岸』のなかで、子供が糸巻きを投げては手繰り寄せ、「いないFort」、「いるDa」と話す遊びを、母親の現前と不在を支配しようしていると分析した。ラカンはこれを、対象の存在が実際の現前と不在を超えて維持される過程と解釈する。「子供が物を隠すという遊びに見られるように、原初的反復、時間的区切りが対象の同一性を保持し、それが現前するときも不在の時も同一のものとされます」[NDP 41]。

 ラカンによれば、「象徴symbole」とはこのような対象である。「母」という象徴は、母が実際に現前している時にはもちろんのこと、それが不在の時にも存在し、例えば一個の人形を「母」に見立てて扱うことができる。これをラカンは、ヘーゲルの「概念は時間であるle concept, c’est le temps」という言葉の例証であると述べている。

対象の象徴は、対象が「ここにある」ものであり、そこから失われた後も、その持続性において自己を分離し、常に我々の手の届くところにあるものであることがわかります。象徴と人間の持続性の関係、すなわち人間的なものが保存されるという事実がここにあります。人間は、自然のプロセスの変動や崩壊を超えて、人間としての永続性を確保するのです。[NDP 42]

 ラカンも言うようにこのテクストにおいては、ヘーゲル哲学の検討を必要とするこの問題が詳しく扱われているわけではない。だが、この主題は以後の論文やセミネールで繰り返し言及されることになる。我々も以下で再び詳述することになるだろう。

「ローマ講演」におけるレーナルト

 「象徴界、想像界および現実界」から約2ヶ月後の「ローマ講演」においても、ラカンはレーナルト『ド・カモ』に言及して議論を展開している。当該部分を読解することで、ラカンの言語観の機微をより詳細に捉えることを試みる。

なんぴとも法を知らないとみなされない、という成句は、かの「法典Code de Justice」からユーモアでもって引き写されたものであるけれども、それでもやはり、我々の経験がその上に立っている真理、そして我々の経験が確認することになる真理を、表現してもいる。実際、 人間の法とはすなわちランガージュの法なのだから、なんぴともこの法を知らないはずはない。ランガージュが人間の法になったのは、はじめての贈与を、はじめての感謝の言葉が統轄して以来のことである。人間が実のない贈与を伴った偽りの言葉というものを怖れるようになるには、海からやって来てまた去っていったおぞましきダナオイの出現を待たねばならなかったとしても。そのような時が来るまでは、一種の象徴的交易という結び目によって、共同体としての島々をつなぎ合わせていた太平洋のアルゴ船員たちにとっては、これらの贈与、あるいは贈与という行為と贈与物、贈与が記号へと高められること、そしてそれらを作ることすらが、話すこと自体とないまぜになっているので、彼らはこれらの贈与のことを、そのまま話を意味する名称で呼んでいるほどである。(原注)」(E 272、新宮訳p. 57-8)

原注:「とりわけ、モーリス・レーナルトの『ド・カモ』9、10章を参照のこと。

 この一節では、レーナルト『ド・カモ』の第9、10章が参照支持されている。法学におけるいわゆる「法の不知はこれを許さずIgnorantia juris neminem excusat」という原則が、「Code de Justice」すなわち『ユスティニアヌス法典Codex Justinianus』から引かれている。『ド・カモ』の議論を概観してきた我々はいまや、未開社会の人々が無自覚のうちに象徴的法則に従った生を営んでいることに重ねられていることに対して、ラカンがこの原則を重ね合わせていることを読み取ることができる。続く部分では、そうして無意識的な支配力を持つ「法」とはランガージュであるとされ、人類学的な贈与交換ないし交易が言葉のやり取りと同一視されている。新宮一成の訳注によれば「ダナオイ」とは「アルゴス王ダナオスの臣民、もしくは、ギリシャ人一般」のことである。ギリシア神話において、ダナオスの娘たちは結婚式の夜に花婿を殺したことで、篩の中に水を入れなければならないという終わることのない罰を受けたとされている。またウェルギリウス『アエネーイス』の中には、トロイの木馬をめぐってラオコオンの「考えられるか、ダナイ人の贈り物に計略がないなどと。〔…〕これがなんであろうと、わたしはダナイ人を恐れる。たとえ贈り物を携えてきても」(『アエネーイス』第2歌42-49行、岡道男・高橋宏幸訳、京都大学学術出版会、2001年)というセリフがある。たしかにこの内容はラカンの記述に合致している。そこでは贈与、さらには贈与にともなうある種の恐怖(虚偽や負債感に関わるか)が示されている。そしてその贈与のモチーフが直後に「太平洋のアルゴ船員たち」へと繋げられているのだが、これは明らかにマリノフスキーの『西太平洋の遠洋航海者Argonauts〔アルゴノーツ〕 of the Western Pacific』のことである。

 最後の部分は再び『ド・カモ』の議論そのものである。ここでは、話すという行為が人類学的な「贈与交換」へと結び付けられている。レーナルトの議論を通過して我々は言葉を話すということが種々の社会的行為であること、そこからさらに、種々の社会的行為や社会的物体までもが「言葉」であるという地点に到達した。そこでは「言葉」のもつ意味合いが最大限に拡張されている。それが、マリノフスキー的な「交換」とどのような関係を持っているのだろうか。続く段落も見ておきたい。

法とともにランガージュが始まったのは、このような贈与物によってであるのか、もしくは、その贈与物に良き意味を与える合言葉によってであるのか。というのも、そもそも象徴が契約を意味しているという意味において、また、これらの贈与物が、まずはシニフィアンとなって、契約をシニフィエとして打ち立てるという意味において、これらの贈与物はすでに象徴だからである。このことは、次のことを見ればよくわかるだろう。象徴的交換の諸対象、すなわち空になるようにできている甕とか、重くて持ち運べない楯とか、干からびてしまう麦束とか、地面に突き刺さったままの剣とかは、広く行き渡っていることから見て余計なものではないにしても、本来の用途には使いようがないようになっている。[E 272] Est-ce à ces dons ou bien aux mots de passe qui y accordent leur non-sens salutaire, que commence le langage avec la loi ? Car ces dons sont déjà symboles, en ceci que symbole veut dire pacte, et qu’ils sont d’abord signifiants du pacte qu’ils constituent comme signifié : comme il se voit bien à ceci que les objets de l’échange symbolique, vases faits pour être vides, boucliers trop lourds pour être portés, gerbes qui se dessécheront, piques qu’on enfonce au sol, sont sans usage par destination, sinon superflus par leur abondance.

 我々はすでに言語の原初的機能に「合言葉mot de passe」を見た。ここでは、それがより広く贈与と交換の一つとして捉えられている。すなわち合言葉においては、語が贈与され、それに対して対抗贈与が行われることで交換が成立し、二人の主体の間に社会的「契約pacte」が締結されるのである。それゆえ交換されるものは必ずしも「語」である必要はない。語が意味を欠いた、マラルメのいう「摩耗した貨幣」のようなものであるのと同様に、社会的関係が結ばれるための物品はしばしば「空になるようにできている甕」とか「重くて持ち運べない楯」といった、実用性を欠いたものである。マリノフスキーが「呪術とクラ」について論じていたときに、交換によって諸島を回遊していく「ソウラヴァ」と「ムワリ」が、日常的な実用性を持たない儀式的装飾品であったことを思い起こそう。我々はすでに、言語が単なる語の体系よりも広い<構造化された体系>と考えなければならないことを見たが、ここでは、それが<交換体系>であることが明らかになる。ラカンが考える「言語」は、当然ながら我々が通常考えるような語の体系にとどまらないばかりか、構造化され、交換が行われるような体系一般をさすものである。そしてそこから、通常の言語もまた諸々の「語」が交換され、相互に構造化されてできた体系として改めて捉え直されることになる。


[1] ラカンはここでもマッサーマン批判を行なっている。「もし『contact』の代わりに別の単語を使っても、同じ結果が得られたでしょう。ここで問題となるのは、現象の条件付けではありません。問題は、症状が、言語システム全体つまり人間関係の意味作用システムとの間にもつ関係にあるのです」[NDP 37-38]。つまり、「contact」という刺激が瞳孔収縮を引き起こしたのは単なる条件付けにすぎず、患者の象徴システムに作用したからではない。分析は、患者に対して条件付け的な身体反応を引き起こす何かを探るのではなく、患者がそのうちに住っている人間関係システムの構造を分析しなければならない。そのことにおいて、特定の刺激や症状が、患者にとってどのような象徴として作用するのかが明らかになる。

More Posts

コメントを残す