2024/11/14

レーナルト章加筆。結論というか、パロールとは何なのかについてかなり明瞭になってきた。↓

まず、ラカンにおいて言語の起源は考えることができないものとして前提されている。「言語はそこに存在しています。それは一つの出現したものです。今やそれが出現した以上、我々はそれがいつどのように始まったのかも、言語が存在する以前に何があったのかを知ることも決してありません[1]」[NDP 27]。しかしそれでも、言語の原始的機能を考えることはできる。ラカンが取り上げるのは「合言葉〔パスワード〕mot de passe」である。語と意味(指示対象)が癒着していないことを示すのに、「合言葉」はうってつけである。「山」「川」という合言葉のやり取りは、実際の山や川とは何の関係もない。

たとえその意味が馬鹿げたものであっても、合言葉の意味は、それを発する者が特定の属性を持つことを示すことです。他の人は、この例がある種の約束事に基づいているから不適切だと言うかもしれませんが、むしろそれが重要です。また、合言葉が最も貴重な価値を持っているのも否定できません、なぜならそれは殺されることを回避させるのに役立つからです。[NDP 28]

 私が「山」と言ったのに対して「川」と返せる者は、私にとって、特定の属性を持つものとして出現する。それは、私と同じ社会の成員だということを意味する。「殺されることを回避させるのに役立つ」とラカンが言うのは、合言葉を交わせるかどうかによって、その相手が敵か味方かが分かれるからであろう。しかしながら、ラカンは「合言葉」の機能を、単に相手を仲間と認識するためのものに留めない。「合言葉は、単に仲間を認識するためのものではなく、むしろ集団を成立させるものなのです」[NDP 28]。合言葉mot de passeは、はじめに集団があってその成員を確認するためのものでなく、仮にそのように使われるようになったとしても、その原初的機能においては、その集団そのものを形成するために用いられた、とラカンは考えるのである。

これら二つの例[2]において、言語は特に意味を欠いているように見えます。このことから、記号signeと象徴の違いがよく理解できるでしょう。すなわち、象徴には人間同士の関係を形成するという役割があるのです。これは言語と共に生じるものであり、言葉が本当に発話された後には、二人の関係者が以前とは異なる存在になるのです。これは、最も単純な例を通してお示ししたとおり、言葉の役割です。[NDP 29]

 記号と象徴が区別され、言語の根源的形態である「象徴」は「意味を欠いている」とされている。言葉は、何かを指示・表示するために用いられるのではない。それは「人間同士の関係を形成する」ために用いられる、意味を欠いたものである。マリノフスキーにおける「単なる愛想としての言語」を思い起こそう。彼は日常生活の何気ない挨拶に社会的関係を結ぶ機能を見出し、こうしたやり取りを宗教的なニュアンスを込めて「言語交感phatic communion」と呼んだのであった。ラカンもまたこう述べている。「道端やバスの中でのちょっとした挨拶もまた、相手に認められるための一つの方法に過ぎません。これは、マラルメが言語を、手から手へと無言で渡される摩耗した貨幣に喩えたことを正当化するものです」[NDP 30]。言葉の機能を<関係を結ぶ>ことに求めるこのような見方は、マリノフスキー以来の言語観をそのまま引き継いだものかどうかはともかく、同じ枠組みであることは確かだろう。

 ただし我々は、上の引用に表れている微妙な表現に目を留めなければならない。「語が本当にvraiment発音されたパロールであったならば、二人のパートナーは以前とは異なる」。つまり、ラカンはパロールに関して、それが無関係の状態から関係の状態へ移行させる機能だけでなく(もちろんこのこと自体も大きな問いではあるが)、関係を変容させる機能、あるいは関係を別様に結び直す機能を洞察していることが窺える。

 ラカンがマリノフスキー的言語観に独自のニュアンスを付加しているとすれば、それはなによりも精神分析の理論と実践によってである。ラカンは以上見てきた言語の機能を、分析における「抵抗résistances」の現象との関係で論じていく。ラカンの「抵抗」論については第三章で詳述する。「抵抗」とは、簡潔に説明すれば、分析の進行を妨げるような患者の(迂回的・逸脱的な)語り、沈黙、振る舞いなどのことである。

 ラカンによれば、精神分析の歴史において「抵抗」が明確に位置付けを持ったのは、フロイトが「自我」の概念を提唱し始めた時期に重なるのだという。今から我々が読み解くラカンの論述は、「抵抗」が「自我」と密接な関係にあることを示している。そしてまた、「自我」こそが言葉の<関係を結ぶ>機能の根幹にあり、分析における「抵抗」の経験が、ラカンの言語理論の出発点になったことも明らかになるだろう。先に結論めいたラカンの記述を引こう。「それ〔抵抗〕は、ひとつの人間的な行為action humaineとして、ある結びつきun certain lienを創設する。その結びつきは、治療者が間違えてはならないことを除けば、治療者の行為に反対するものである」[NDP 33-4]。抵抗においては患者と分析家の間に関係が創設されてしまい、そのことによって治療行為が妨げられるということが起こるのである。

 ラカンにおける「自我」は想像的な機能を持つ。フロイトの「エスEs」と同一視されるようなラカンにおける「主体」は、幼児期に他者との鏡像的関係において身体的統一としての「自我」を獲得する。自我の獲得は安定をもたらすが、鏡像的他者から借り受けられた形になるため、主体の自己疎外を引き起こす。したがって「自我の想像的な機能、すなわち自己に対して疎外された主体の統一としての自我」[NDP 34]という表現が理解されよう。心理的な発達の中で主体は自己疎外することと引き換えに自我を獲得する。これに対して分析は、自我への主体の自己疎外を逆向きにたどって自我を廃し、主体性を回復することを目指す。「自我のもう一方の側面である『アルター・エゴ』を無効にしない限り、主体は自己を再発見することができないのです」[NDP 34-5]。

 ここまで丁寧にラカンのテクストを見てきた。本章のテーマでもあるレーナルトの『ド・カモ』への言及があるのは、この直後である。

パロールは、先に簡単にお見せしたように、本質的な仲介médiationの役割を果たします。いったんそれが成り立つと、仲介はその場にいる二人の相手を変化させます。これは、特定の人間集団においても意味の領域において示されていることです。これに関しては、レーナルトの著書『Do Kamo』を読んでみてください。/この本はすべてを推奨するに値するものではありませんが、かなり表現力があり、特に扱いやすいものです。入門書としては優れており、導入が必要な人にはぴったりです。そこで、カナク族の間では意味論的に非常に特異な現象が起きるのが見られます。つまり、「言葉parole」という言葉motが、私たちが呼ぶ意味をはるかに超える何かを意味しているのです。それは一つの行為でもあり、また私たちにとっても約束された言葉parole donnéeは一つの行為の形であると言えます。それは時に物体objetでもあり、たとえば誰かが持つ花束のようなものでもあります。つまり何にでもなり得るのです。そしてそこから、以前は存在しなかった何かが存在するようになるのです。[NDP 35-6]


[1] レヴィ=ストロースもまた「マルセル・モース著作集への序文」において、言語の起源に関して同様の主張をしていたことはよく知られている。

[2] 「合言葉」が第一の例。第二の例としては「愛の言葉」や侮辱の言葉が挙げられている。例えば相手を侮辱して「雌豚」と呼んだ場合、この「雌豚」という言葉は本物のメスの豚とは何の関係もない。これもまた、意味から切り離された「象徴」としての使用が際立つ言語使用である。[NDP 28-9]

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