レーナルト章加筆。「象徴界、想像界および現実界」の読解が結構進んできた。↓
想像界と象徴界を分けるものは何であるか。あるいは、分析はどのようにして想像的な次元から象徴的な次元へと移行できるのか。まず「想像界」を特徴づける現象をラカンは「移動déplacement」と呼ぶ。例えば喉が渇いた男は夢の中で水を飲む。彼の渇きが現実的に癒やされたわけではないが、彼は「想像的に」満足を得たことになる。このように、何らかの欲求の対象が、それが獲得できなかった時に、あるものから別のものへと向け変えられることがある。ここにリビドー対象の「移動」がある。ラカンは、スリッパを見ただけで性的興奮を掻き立てられるフェティシストの男性患者の例を挙げている。彼もまた何らかの「移動」を経てリビドー対象が変わり、倒錯的なフェティシズムの状態にある。
分析が想像的な次元にとどまる場合、この「スリッパ」という想像的要素に対し、分析家はそれが「女性器」を意味しているとか、口唇期への固着に由来するなどと考えるだろう。しかし、「ある現象が単に移動を表している、つまり想像的な現象として分類されるだけでは、それが分析可能な現象であるとは限らない」[NDP 25]。分析家が行わなくてはならないのは、これらの想像的な要素が、より大きな全体の中でどのような価値valeurを持っているかを分析することである。
つまり、このファンタズム、つまり想像的な要素は、純粋に象徴的な価値しか持たず、それが分析のどの時点に現れるかによってのみ評価すべきものです。実際、たとえ主体がそれを告白したとしても、このファンタズムは分析的対話のある時点で現れ、しかもその頻度は、分析的対話のある時点で出現することを示しています。それは表現され、言葉にされ、何かを象徴するために存在し、その意味は対話の時点によって全く異なるものです。[NDP 24-5]
分析の中に想像的な要素は出現し、それは「移動」によって様々な、ときに倒錯的な呈を示す。しかしそれらの要素は一つ一つの自己表現として評価されてはならず、必ず、大きな文脈の中でどのような価値(「機能」と言っても的外れではないだろう)を持つかに従って分析されなければならない。仮に同じイメージが繰り返し出現したとしても、それぞれがどのような象徴的価値を持っているかはその時々で異なる。
ラカンがその理論的展開の中で繰り返し唱え、かつ多くの批判を浴びた「無意識は言語のように〔/として〕構造化されている」というテーゼは以上のことから解釈されなければならない。このテクストでの表現を用いれば、「症状についてもまた〔夢と同様に〕、言語のように構造化され、組織された何かを表現している」[NDP 26]。フロイトはかつて『夢解釈』の中で、夢の解釈を「判じ絵」の解読、さらにはヒエログリフの解読と類比させていた。ラカンは「文字の審級」のなかでそのことに触れ、次のように語る。
フロイトはあらゆる方法で、イメージのシニフィアンの価値はその意味作用と何の関係もないということを例証している。そのために彼はエジプトのヒエログリフを持ち出す。ヒエログリフでは、「ある」という動詞や複数形についてハゲワシ(アレフ)やヒナ(ヴァウ)が頻繁に現れるということを理由にテクストが鳥類学的見本とたとえわずかでも関係があると推論することは馬鹿げている。[E 510]
ヒエログリフのアルファベットである、ハゲワシの形をした「アレフ」を、何か鳥類的なものやそこから連想されるものに結びつけても、ヒエログリフの解読には全くつながらない。フェティシスト患者の「スリッパ」という形象を、それ一つをとって分析することはこれに等しい。ラカンによれば、フランソワ・シャンポリオンはヒエログリフの諸々のイメージを単なる「表音文字」と捉え、それらの連関を分析することでロゼッタ・ストーンの解読を成し遂げたのである。ラカンが構想する精神分析は、患者の症状に対して同様の操作を加えるものであると考えられる。
フェティシストにとっての「スリッパ」をそれ自体で「女性器」と持つ関係は、「音節≪po≫が単純な形状の花瓶vase〔=pot〕を指すのと同じ程度の関係しか持たない」[NDP 25]。しかし我々は通常、≪po≫という音節が「pot」のみにしか結びつかないとは考えないだろう。≪po≫が持つ価値は、「警察police」や「臆病者poltron」といったシラブルの中ではそれぞれに全く別様である。ラカンがマッサーマンの論文(の中のハジンスの研究)を批判する際に「contract」の音節に注目していたことは、この例と同じく、言葉の音的側面であるシニフィアンが単体として、意味であるシニフィエと癒着しているのではないと主張していたものと解することができる。
ラカンが「言語」を重視し、言葉とは何かを考えようとすることは、このような動機と結びついている。夢、症状(、そしてのちに触れる親族関係)は構造化されており、それは言語が構造化されていることに等しい。したがって「無意識は言語のように〔/として〕構造化されている」の「ように/としてcomme」は、いずれの意味にも解釈できる。「ように」と解すれば、夢や症状は言語と同一ではないものの、言語と同様の<構造化された体系>[1]と見なされる。「として」と解すれば、夢や症状は言語そのものであり、その時の「言語」とは、我々が通常「言語」として考える語の体系をその一つのヴァリアントとする、より根源的な、<構造化された体系>としての<言語>を考えることになる。二つの解釈では「言語」の意味合いが異なるが、両者とも<構造化された体系>を考える点では同じである。
<構造化された体系>が最も純粋な形で存在するのが、我々が一般的に「言語」と考える、語motの体系である。想像的なものの限界を示したラカンは、次いで言語の機能についての考察を開始する。それはまず、言語がいつどのようにして始まったのかという、言語の起源l’origine du langageおよび原始的機能への考察から始まる。
まず、ラカンにおいて言語の起源は考えることができないものとして前提されている。「言語はそこに存在しています。それは一つの出現したものです。今やそれが出現した以上、我々はそれがいつどのように始まったのかも、言語が存在する以前に何があったのかを知ることも決してありません[2]」[NDP 27]。しかしそれでも、言語の原始的機能を考えることはできる。ラカンが取り上げるのは「合言葉mot de passe」である。
[1] 筆者の表現である。
[2] レヴィ=ストロースもまた「マルセル・モース著作集への序文」において、言語の起源に関して同様の主張をしていたことはよく知られている。
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