レーナルト『ド・カモ』の第十一章、人格論を読んで加筆した。
人格の構造
「言葉」を通じて構築される「人格」は、メラネシア世界では「カモ」すなわち「生きている者」と呼ばれる。「カモ」はごく抽象的な言葉で、我々が「人間」という言葉で指し示そうとするものに近い。だが「カモ」概念の射程はそれよりも広く、自然の動植物も含む。レーナルトはカモの条件を特定の「形〔フォルム〕」に求めるが、この「形」は人間の身体の形というよりも、人間らしさというべきものである。「カモとは、人間の恰好をしているというよりも、その形〔フォルム〕、いってみれば人間らしい雰囲気をもった生きた『人物〔ペルソナージュ〕』のことなのである」(p. 50)。したがって、その反対に、肉体的には人間であっても、人間らしくない行動をとる者に対しては「あいつはカモではない」という言葉が投げかけられ、あるいは人間性において素晴らしいものは「ド・カモ」、つまり「本当に人間らしいもの」と称賛される(p. 51)。
レーナルトは『ド・カモ』第十一章でこの「カモ」を、メラネシア社会の人格体系と結び付けて分析している。彼の分析の独自性が際立つのは、カモがそれとして成立するのは他者との関係においてのみであり、それゆえカモそれ自体は「空白の場所」だと規定している部分である。
またカモは自分自身の目にもやはりよく識別されない。彼は自分の身体を知らない。それは彼の支えにすぎないのである。彼は自分が他の者と取り結ぶ関係をとおしてしか自分自身を認識しない。彼はそうした関係の働きの中で、自分の役割を果たしている程度に応じてのみ実在する。彼はそういう関係に関わっていくことを通してのみ自らを位置付けるのである。試しに図を描いてみるとすれば、それは自我を示すべき一つの点ではなく、様々な関係を示す何本もの線、すなわち図11でいえば、a-b、a-c、a-d、a-e、a-fなどの線になるだろう。それぞれの線は、彼と父、彼とおじ、彼と妻、彼と交差いとこ、彼とクランなどなどである。そしてこの放射状の線分の真ん中には、諸関係の出発点を示す幾つものaで取り囲まれた空白ができる。これらのaはカモがまとう身体のいくつものレプリカであり、空白の場所がカモである。そしてそれが一つの名をもつのである。(p. 266)
カモはそれ単独では存在せず、他者との諸関係の線分が集まることで浮かび上がる空白の場所である。これを反対から見れば、カモはいくつものペルソナを装うことができるということでもある。それは一人の人間がさまざまな相手や集団に対してもつ相対的身分だけではない。例えばメラネシア社会では、若い男が女と逢引きの約束をしようというとき、必ず男たちと女たちは二、三人のグループで集まる。このとき、「女」と恋をしようとする「男」は、複数の人間(身体)をペルソナとする一つのカモである。さらには、ある男が「aの位置にいるカポという女の子と結婚できなくても、その妹のヒケを嫁にすればよい。ヒケも同じくaの位置にいるからである」(p. 267)。
社会的な関係を切断された個人の苦悩もまた、カモが空白の場所であることから説明される。彼は社会的に存在しなくなり、「彼の言葉もその存在を顕現しない」(p. 268)。彼は自分が存在しないことに苦しむのである。メラネシア社会においては、存在ないし実存が社会的に存在することと区別されていない、とも言える。
では、死者や古い世代の人間たちはどのように位置づけられるのか。社会的関係を持つことがメラネシア人にとっての「存在すること」であるとすれば、死者もまた、現存する人々から敬意を向けられることによって、またそのことに依存して、存在することができる。「ペルソナリテは、社会が必要とする限り生き延びるのであり、神話的英雄に高められたり、神に祀られたりすることもある。しかし忘れられてしまえば死に絶える。そうしてその名は意味のない空虚なものになる」(p. 273)。それゆえ、過去の人物の名前が世代を通して周期的につけ直されるということが起こる。「持続する言葉」が神話や伝承の中で世代を超えて保存されるように、人格もまた繰り返し現勢化される。
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