2024/11/7

修論の最終部にあたるラカンのパロール論を書き進めた。セミネール1巻の議論は大体書いた。この後にさらに発展形としてセミネール3巻の議論も書こうと思っているのだが、シェーマLの説明もしないといけなくなるし、なかなかにややこしい話になりそうなので、一旦後回し。時間があったらやる。明日以降はレーナルト章をブラッシュアップかな。なお、以下の内容は9/2(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/02/2024-9-2/)および9/18(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/18/2024-9-18/)で扱った。

パロールにおける媒介と暴露

 本節では、セミネール第1巻(1953-54年)および第3巻(1955-56年)の「パロール」に関する議論を読解することで、言葉を話すことが持つ人類学的な機能、すなわち「関係を結ぶ」機能がラカンの言語理論の中にどのように組み込まれているのかを確認する。

 1954年2月3日のセミネール(「Ⅳ 自我と他者」)でラカンは、フロイトの「転移の力動性について」や『ヒステリー研究』を扱いながら、精神分析における「抵抗」のメカニズムに接近している。「抵抗」とは分析の過程で生じる効果である。分析における語りが患者の無意識の核心部分に近づくとそれに対する抵抗力または斥力のようにして、語りの中断や迂回が起こる。結果として分析の進行が妨げられる。

 フロイトは「転移の力動性について」のなかで、「転移」という現象は分析治療以外の場においては治療作用の担い手になるはずであるのに、「何故、分析治療の場合には、治療に対する最も強力な抵抗としてあらわれるのか」(フロイト著作集9、p. 70)と問うている。この問題関心から、抵抗というのがいかなるものかを論じている。

 フロイトの記述を要約すれば、分析において患者の無意識の病因核に向かっていく際に、我々は三種類の抵抗に出会うことになる。第一のものは、外界から無意識要素へと内向または退行したリビドーの、内向きの引力によって生じる抵抗である。第二のものは、無意識の要素が「抑圧」されていることから生じる抵抗。そしてそれらの抵抗を乗り越えた先にある第三のものが、この論文の焦点となり、またラカンが論じようとしている「転移性抵抗」である。

無意識の根源にまで追求してゆくとやがて我々は一つの領域に到達する。その領域では抵抗がはっきりとその力を示している。すなわち、患者の心に今ここで思い浮かんだことを、抵抗の要求と分析的な探究操作の要求との間の妥協形成物として考えなければならない領域に達するのである。そして、我々の経験の立証するところによると、ここに転移が生ずるのである。(フロイト著作集、p. 73)

 つまり、分析の手を逃れていく抵抗力に逆らって分析を進めていくと、最後には、その抵抗が消失するのではなく、抵抗と分析との両力の葛藤を調停できるような何かが妥協的に形成されるのである。

 「転移性抵抗」の妥協形成物として何らかの観念や語りが形成されてくる場合、それはいかなる観念であるか。ラカンはフロイトのテクストの当時の仏語訳の不十分さを指摘しながら、ドイツ語原典の言葉を用いて、それは「nächst Einfall(最も近い着想・連想)」であると述べる。つまり、もう少しで発見されそうになったコンプレックスの内容が、もし仮に目の前の分析医の人物に転移するのに適した内容であれば、その転移は「抵抗をも満足せしめるものである」として採用される。コンプレックスの内容が暴露される代わりに、沈黙が起きたり、分析家への転移が生じたりする。これが転移性抵抗である。

 ラカンは「転移との関係で織り込まれている抵抗」(セミネール1巻、p. 69)、すなわち転移性抵抗においては、「分析家の現前」が生じるということを繰り返し述べている(p. 68, 71, 83)。それは、「ディスクールのある側面から他の側面へ、あるいはパロールの機能のある面から別の面へと主体を移行させる突然の転換を、主体自身がその時まるで突然の方向転換のように強く感じるということ」(p. 69)であるという。言い換えれば、「パロール」には二つの機能面が存在し、一方の面から他方の面への転換がある。この転換の際に主体が感じる「神秘的な感情」(p. 83)が、「分析家の現前」だということだろう[1]

 パロールの二つの機能についてラカンが説明しているのは、第一には目下読解しているセミネール第1巻の「自我と他者」においてであり、また別のところではセミネール第3巻の「大文字の他者と精神病」においてである。

 「自我と他者」では、パロールの二つの面の一方から他方への転換ということについて、次のような表現で語られている。

「されこれらの例〔いくつかの機知的な事例〕を通して私が言いたいのは次の点です。つまり存在の告白がことごとくなされるわけではないからこそ、パロールは他者との関わりを持つ斜面へと全体として重心を移すことができる、ということです」(p. 81)。パロールの二つの機能は、「存在の告白」と「他者との関わり」と表現されている。それぞれを一語でいえば、「暴露」と「媒介」である。

他者との関わりを持つということは、いわばパロールの本質と無縁のことではありません。パロールは確かに媒介であり、主体と他者との媒介です。パロールはこの媒介自身の中に他者を実現することを含意しています。他者を実現する本質的な要素とは、パロールが我々を他者に結びつけることができるということです。他ならぬこのことこそ今まで私が皆さんにお教えしてきたことです。というのも、我々が絶えず動いているのはこの次元でのことだからです。/しかしパロールにはまた別の一面があります。それは暴露ということです。(p. 81)

 この一節には、パロールの持つ「関係を結ぶ」機能、主体と他者との媒介機能をラカンがはっきりと意識していることが表れている。もっとも、ラカンはここで人類学について少しも触れていない。問題になっているのは分析技法である。ラカンにおいてパロールの最も本質的な機能が、「媒介」よりもむしろ「暴露」の方にあることを、次の引用で確認しよう。

抵抗が生じるのは暴露するパロールが語られない時であり、主体が為す術を失う時である、こうストレーバは、その箸にも棒にもかからない無邪気なある論文の最後に、奇妙にも書いています。彼はエゴの二重化を全ての分析経験の中心に据えています。一方のエゴがもう片方のエゴに対抗して私たちの味方にならなくてはいけないと言うのです。主体は他者と関わりを持ちますが、それは、パロールになりかけているものがパロールへと到達しなかったからです。パロールが遮られる点というのは、おそらく何ものかがパロールを根本的に不可能にしているという意味です。それは、分析においてはパロールがその媒介という第一の面へとすっかり重心を移してしまい、他者との関係という機能だけになってしまう要の点です。その時パロールが媒介として機能しているということは、暴露するものとしては十分に機能していないということです。(p. 82)

 本質的なパロールとは「暴露するパロール」であり、分析は患者からこのパロールを引き出そうとする。しかしその過程で種々の抵抗が働き、その最も強力かつ核心的なものが「転移性抵抗」である。転移性抵抗は上で見たように、分析の探究力と抵抗力との間に妥協的に形成された転移現象である。すなわち、分析の探究が無意識の病因核へ到達することはない。常に最後には転移性抵抗が発揮され、分析の到達点は目的地から逸らされることになる。このことが、パロールの機能を「暴露」から「媒介」へと傾けることと解することができる。患者の語りが完全な形で「暴露するパロール」へと達することはなく、到達する代わりにいつも「媒介するパロール」へと転換する。したがって、転移性抵抗において起こる転移や分析における「分析家の現前」は、患者が分析家との間に何らかの関係を結んだことを意味していると言える。

 このように、ラカンはパロールに主体と他者との関係を結ぶ媒介の機能を見ているが、それは暴露の失敗による効果と考えている点で、人類学的な言語論から距離を取ることになる。パロールは常に媒介する。しかしその裏には無意識の核心の開示へと到達することができないという、主体のある種の悲劇的な運命が敷かれている。そして、ラカンが「暴露」のアイデアを受け取ったのは他でもなくフロイトであり、ラカンのパロール論は人類学と精神分析の二つの側面が結合されているとみなすことができる。


[1] ラカンは「機知」の創出においても「分析家の現前」(すなわち転移性抵抗)と同じ効果が生じていると考えている。フロイトが『夢解釈』や『精神分析入門』で繰り返し用いている女性患者の例では、フロイトに対して患者がある機知的な語りを返す。「よく注意してください。というのはここで起こっていることは抵抗の瞬間に現前が出現することと同じ機能を持っているからです」(セミネール1巻、p. 77)。

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