2024/11/4

レヴィ=ストロースの、用いる論文について加筆した。まずは「神話の構造」について。

「神話の構造」

 1955年にJournal of American Forkloreに掲載された「神話の構造」は、まず人類学におけるそれまでの「心理学的問題」優位の姿勢に対する批判から書き始められている。タイラーやフレイザー、デュルケームといった人類学者・社会学者たちは人間心理の「感情」の側面に過剰に焦点を当て、また言語や論理といった知的なもの「以前」を捉えようとして失敗した。そのような理解のもとでレヴィ=ストロースは、知的なものの再評価を企図する。神話の内容が偶然そのように形成されるものなのだとすれば、「地球の端から端まで、どのようにしてかくも神話は似通っているのだろうか[1]」(『構造人類学』、p. 230)。

 この問いに対してレヴィ=ストロースは、ソシュール言語学の知見を用いて、「神話は一個の言語である」(p. 233)という公準を立てることによって答えようとする。神話が一個の言語であるとはどういうことか。レヴィ=ストロースによればそれは二点の重要要件から構成される。(a)「あらゆる言語的存在と同じく、神話は構成単位からなっている」。(b)「それらの構成単位は、言語構造に通常はいっている構成単位、すなわち音素、形態素、意義素の存在を前提とする」(p. 233)。神話は構成単位から成る体系であり、その構成単位は言語学的には音素や形態素、意義素と呼ばれるところのものである。もっとも、レヴィ=ストロースの用語を使えば神話における構成単位は「神話素」と呼ばれる。これら構成要素の間には種々の関係が存在し、その関係にこそ体系の本質は存する。「この大構成単位の各々は、関係としての本質をもっているのである」(p. 234)。神話の「意味」を取り出すときにも、前述した従来の人類学者やユングらのように個別の要素と人間の前言語的情動を結びつけるのではなく、それら構成要素の間の関係を分析することが求められることになる。

 レヴィ=ストロースが行う具体的分析を一つ紹介しておくことは有益だろう。例えばオイディプス神話はある一定の長さをもった物語であり、また語り手によっていくつかのストーリーのヴァリエーションが存在する。仮にその一つのヴァリアントを選んで、ストーリーの諸要素を平面的に展開してみると、下の図のようになる

 この平面は上から下、左から右へと横書きのテクストのように読んでいくことでオイディプス神話の物語の流れとなる。ただし、縦に区切りを入れると四つの欄に区分されている。それぞれの欄には、登場人物や事物が変化していたとしても、抽象的水準において同類と見做されるような諸要素が配分されている。つまり、いくつかの限られた要素が反復して出現し交替することで、一続きの物語が構成されているのである。

同じ欄にまとめられた関係はすべて、仮説により、共通の特徴を示していて、これをとり出すことが当面の課題である。すなわち、左の第一欄に集められた挿話はすべて、いわば、その親近さが度を越している血縁者たちに関わっている。〔中略〕第二欄は、同じ関係を、逆の符号を付されたものとしてあらわしていること、すなわち過小評価された、あるいは価値を切り下げられた親族関係をあらわしていることが明らかになる。第三欄は怪物とその退治に関している。第四欄に関しては、〔中略〕どれもみな、まっすぐ歩行することの困難を想わせる仮説的意味をもつということである。(p. 237)

 第一欄と第二欄には、親族関係における「過大評価」と「過小評価」という対立関係がある。怪物の退治に関する第三欄の共通特徴を「人間の土からの出生の否定」(p. 238)にあると解釈すると、次いで第四欄の共通特徴は「人間の土からの出生」にあると解釈できる。すなわち、第三欄と第四欄の関係は対立関係にあるのであり、それは第一欄が第二欄との間に対立関係を持っていることと並行的になる。

 さらに解釈を推し進めると、「人間が土から生まれる」とその反対である「男と女の結合から生まれる」、そしてさらに抽象化して「はじめの問題——人間は一者から生まれるか、それとも二者から生まれるか、というそれ」(p. 239)へと帰着する。すなわち、神話の一つ一つの具体的な要素間の関係が、最も抽象的かつ形而上学的な宇宙論における根本問題の二項対立を表現していたことが析出されるのである。

 以上は複数存在するオイディプス神話の一つのヴァリアントについての分析(の大まかな紹介)であるが、その他のヴァリアントにもそれぞれ上に示したような展開平面が存在すると考えると、「オイディプス神話」とはそれぞれの平面が何枚にも重ねられた総体を指し示す名称であったことがわかる。「こうして、それぞれ一つのヴァリアントにあてられた二次元の表が多数得られ、これらはそれぞれ並行の面として、三次元の全体をなすように並べられるだろう」(p. 241)。


[1] 「神話の本性に属しているこの根本的アンチノミーを意識するという条件でのみ、その解決を望むことができる」(p. 230)。同じ問いは未開民族における芸術表現の普遍的な類似性に対しても提起されている(「アジアとアメリカの芸術における図像表現の分割性」)。例えば、アメリカの部族の芸術と中国やニュージーランドの部族の芸術表現に「偶然では説明できない複雑な類似」(p. 272)が見られ、しかも歴史的な伝播過程が存在しない可能性が極めて高い場合、その奇跡的な類似性をどう説明できるだろうか。「心理学的性質のものか論理的性質のものかはともかく、内的諸関連が、単なる確率の戯れからは結果しえないような頻度と凝集とをもって同時に現れでるものを理解できるかどうか、問うてみよう」(p. 272)。結局、レヴィ=ストロースが簡潔で明快な解を与えることはいずれの論文においてもない。さらに、「双分組織は実在するか」は、アメリカとインドネシアのいくつかの事例を援用しながら、各地域の信仰や諸制度に明らかに普遍的に見られる類似の代表として「双分組織」を分析している(pp. 148-9)。

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