11月になった。まだ全然まとまってはいないけれど、今日とりあえず指導教員に修論の草稿を送付しておく。先生も提出直前になってボンと送られてきたら困ると思うので。
その際に、以前レヴィ=ストロース章に色々と書いた、「呪術師とその呪術」読解や「モース序文」読解、それからトゥルベツコイの『音韻論の原理』読解は削除しておこうと思うので、代わりにこちらに残しておく。これらはそのまま使わないにしても、一部また組み込む可能性がある。
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「呪術師とその呪術」
レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』が出版されたのは1949年である。同年、彼はさらに3本の論文を提出している。「歴史学と民族学」、「象徴的効果」、「呪術師とその呪術」である。このうち、「呪術師とその呪術」に関してラカンが言及した記録は存在しない。しかし、ラカンがアレクサンドル・コイレを介してレヴィ=ストロースと出会い、その後の親密な交流を始めたのがこの1949年であることにくわえ、ラカンが『親族の基本構造』や「象徴的効果」については繰り返し明示的な言及を行なっていることを思いあわあせても、彼が「呪術師とその呪術」を読んでいる可能性はかなり高い。少なくとも、レヴィ=ストロースの理論がラカンに対していかなる影響を与えたのかについて我々が再構成するために参照する必要のある文献であることは言える[1]。
「呪術師とその呪術」ではいくつかの呪術師の事例が挙げられた後で、最終的に問いの焦点となるのは、呪術師と精神分析家の違いである。それゆえ、呪術にもさまざまな種類があるが、ここで主に扱われているのは、病の治療のために呪術師が執り行う呪術である。
論文の冒頭で、レヴィ=ストロースはいわゆる「呪術死」、つまりある共同体の中で呪術によって人が死ぬということがなぜ起こるのかを、カノンの業績を紹介しながら論じている。呪術は社会における対象人物のあり方を変化させ、その社会的変化が対象人物の生理的変化を引き起こし、ついには死に至らしめる。たとえば呪術儀式が行われ、自分に対して呪いがかけられていることを意識した対象個人は、自らが死を免れないことを確信し、その確信を親族や友人たちと共有する。「このときから、共同体は彼に対してその殻を閉ざす」(p. 183)。共同体の人々は呪われた対象から身を遠ざけ、忌避するようになる。対象人物はそのことをもはや逃れようともしない。彼の社会的変化とそれが彼自身に引き起こす心理的変化が、彼の生理面においては交感神経の活動を解体させ、循環器の損害を引き起こす。彼は次第に飲食を拒否するようになり、衰弱していくというのである[2]。呪術が効果を発揮するためには、次の三つの条件が必要であるとされる。①呪術師の、呪術に対する信仰、②呪術師が対象とする人物が、呪術師自身の能力に関して抱く信仰、③集団的世論の信頼と要求、である。
この三つの条件は、反対に、呪術が対象を治療する際にも当てはまる。レヴィ=ストロースはおそらく冒頭に挙げられた三つの条件に対応する形で、呪術師(「シャーマン」とも言い換えられる)が病を治療する際の、「シャーマニズム複合ともいうべき」三つの要素を挙げている。①シャーマン自身の内的な特殊経験、②患者の経験、③公衆の経験である。さらに、分離不可能なこれら三つの要素は「二つの極」をめぐって組織されているという。一方はシャーマンの内的経験であり、他方は集団の合意である。
後者は容易に理解できる。呪術が効果を発揮するためには共同体の人々の呪術に対する信仰、すなわち社会的合意が必要だということである。これに対して興味深いのは、前者のシャーマンの内的経験について、レヴィ=ストロースが「消散abréaction〔除反応、解除〕」という精神分析由来の概念を用いて説明していることである。
シャーマンは幾つかの出来事の再生や模倣で満足するのではない。彼はそれを、その激しさ、その独自性、またその荒々しさにおいて、現実にふたたび生きるのだ。そして、治療が終ると彼は正常な状態に帰るのだから、われわれは精神分析から重要な言葉を借りて、彼は消散させるということができる。周知のように精神分析が消散と呼ぶのは、患者が、その障害をきっぱりと克服するに先立って、障害の原因となった最初の状況をふたたび激烈に生きる治療の決定的瞬間のことである。この意味で、シャーマンは職業的消散者なのである。(p. 190)
シャーマンは、彼自身が対象人物の障害の原因となった状況を代理的に再演することで、その障害を「消散」させることができる。「消散〔除反応〕abréaction/Abreaktion」は、抑圧されていた情動の意識領野への出現を意味する精神分析の用語である。初期フロイトは、患者に外傷的な出来事の記憶を語らせることによって、それに関連した情動を解放させることで治療を行なっていた。レヴィ=ストロースはフロイトの枠組みを用いて、シャーマンも精神分析も「消散」を行うという点において一致すると主張している[3]。
ただし、呪術による治療では呪術師が語り、呪術師自身が患者の代わりに「消散」を行うのに対し、精神分析では患者が語り、分析家に向かって消散を行うという違いがあるという違いがあるとも思われる。レヴィ=ストロースは一見したところのこの違いを了解した上で、しかし、精神分析においても治療者(分析家)自身の消散が必要であるとする。なぜなら、「分析医になるためには、分析されたことがなくてはならないから」(p. 201)である。つまり、「訓練分析」を考慮に入れることで、分析家と呪術師における消散の位置の違いは解消されるとされる。レヴィ=ストロースが考える精神分析家と呪術師の違いはそれゆえ他の点に求められることになるが、それはまた後述しよう。さしあたり問題になるのは、呪術の執行において、患者の消散を請け負う呪術師とそれを見守る共同体の人々との間にどのようなやりとりが存するのかということである。
レヴィ=ストロースはこのことを、「正常な思考と病的な思考の間の関係rapport entre pensée normale et pathologique」(p. 199-200)という観点から考えようとする。
理解しようと熱望しつつもその機構を支配するまではいけない宇宙に直面するとき、正常な思考は、意味を拒む諸物に対し、それらの意味を要求する。これに反して、いわゆる病的といわれる思考は、情動的な解釈と共鳴にあふれ、そのままでは欠陥を持つ現実に、常にそれらを負わせようとする。前者にとっては、実験的に検証できないものnon-vérifiable expérimentalement、すなわち要求/請求しうるもの〔支払い期限がきたもの〕l’exigibleが存在する。後者にとっては、対象なき諸経験expériences sans objet、すなわち現物〔在庫品〕disponibleが存在する。言語学者の言語を借りれば、正常な思考はつねにシニフィエの不足に悩むのに対して、いわゆる病的な思考は、(少なくともその発現のある場合においては、)シニフィアンの過剰を意のままに用いるdispose。(AS 199-200)(邦訳p. 200)
ただちには理解し難い一節である。河野(2023)の読解を並べてみよう。
これらは知に関する二つの態度として区別することができる。世界を知ろうとするとき、ひとは様々な物事に対して意味 sens を求め、「意味するもの」であるシニフィアンに対応するシニフィエ、すなわち「意味されるもの」を見出そうとする。しかしながら、そうした試みはしばしば挫折し、経験によって確かめることのできない未知の領域が残されてしまう。正常な思考は、この未知の領域を認め、シニフィアンに対するシニフィエの不足という状況にとどまりながら、「これは何を意味しているのだろうか」という問いをつくりだすことで、未知のシニフィエについて知ることを自らの権利として要求する。これに対して、いわゆる病理的思考は「情動的な解釈と共鳴」を意のままに用いることで、シニフィエの不足ゆえに「欠損した…現実」を過剰なシニフィアンによって充溢したものにするという。(p. 10)
正常な思考は集団の側に、病的な思考は呪術師の側に対応しているといえよう。正常な思考における「実験的に検証できないものnon-vérifiable expérimentalement」「要求/請求しうるものl’exigible」とは、河野によれば、理解し難い世界に対して正常な思考が要求する意味(それは現時点では実験的に検証されていない)である。正常な思考は探究の過程で徐々にその意味を明らかにしていくことができるかもしれないが、それでもなお「l’exigible」は残存し続ける。これに対して病的な思考は自らのうちに横溢する「情動的な解釈と共鳴」を眼前の世界に担わせsurchargerようとする。河野も注釈しているように「対象なき諸経験expériences sans objet」とは「幻覚」を意味する用語である。病的な思考は、対象の側ではなく主観内に存在する「現物〔在庫品〕disponible」を意のままに用いdisposeて、それを現実に当てがうsurchargerことで世界を理解しようとするということであろう。これを言語学の用語「シニフィアン(意味するもの)」と「シニフィエ(意味されるもの)」を用いて表現すれば、「正常な思考はつねにシニフィエの不足に悩むのに対して、いわゆる病的な思考は、シニフィアンの過剰を意のままに用いる」ということになる。
レヴィ=ストロースによれば、これら二つの思考は「対立することなく、補い合っている」(p. 200)し、「シャーマンによる治療への集団の協働は、この相補的な二つの状況のあいだ調停を成立させる」(p. 200)。つまり、「病」という理解不能な世界の現前に対して正常な思考すなわち集団の人々は、病的な思考の横溢するシニフィアンを用いてこれに対処するのであり、病的な思考もまたそのようにして社会の中に役割を持つ。二つの思考は相補的に協働して、理解し難い世界に対応するのである。だが、レヴィ=ストロースの言葉を借りれば正常な思考は「シニフィエの不足に悩む」のに対し、なぜ病的な思考の有する「シニフィアンの過剰」が対処策になるのだろうか。シニフィエの不足に対してはシニフィエを供給する、つまり世界の探究を行えば良いのであって、シニフィアンの過剰を利用すればより「シニフィエの不足」が加速されてしまうのではないか。河野は「『対象なき経験』においては、シニフィエの不足という正常な思考にとっての限界は、シニフィアンの操作によって易々と乗り越えられ、シニフィエを持たないシニフィアンによって経験が構成される」(p. 11)と述べている。シニフィエの供給ではなく「シニフィアンの操作」こそが、正常な思考の行き詰まりを解決するものであるとされている。この点にはもう少し補足的な説明が必要であろう。
シニフィアンのいかなる操作が、シニフィアンの過剰への対処となるのか。「呪術師とその呪術」の続く部分では、レヴィ=ストロースは、正常な思考と病的な思考との間の均衡が成立する条件が二つあると述べる。一つは「集団的伝統と個人的創意の協働によって、一つの構造すなわち対立と相関の体系が出来上がり、たえず自己修正すること」(p. 200)である。両者の協働によって、理解し難い世界が一つの「構造」の中へと統合されるということが起こり、この構造は自己修正を繰り返す。もう一つは「患者や呪術師と同じく公衆もまた、少なくともある程度まで消散、すなわちあの象徴あふれる世界の体験にあずかっていること」(p. 200)である。呪術師は患者の代わりに「消散」を体験するが、公衆もまたその体験の一部を共有している。それによって、呪術師と患者は「公衆をして遠くからその世界の『光』を垣間見せることができるのである」(p. 200)。「消散」とは「象徴あふれる世界」の体験であり、その世界の「光」を見ることであるとされている。
病などの異常事態を「構造」の中に統合するという呪術の機能について、レヴィ=ストロースが同年(1949年)に発表した論文「象徴的効果」の記述を参照することができる。この論文は、南米のとある原住民における難産を助けるための呪文について分析し、その機能を考察したものである。ここでのレヴィ=ストロースの記述は、以上の我々の議論と厳密に対応するものである。
治療は、したがって、はじめは感情的な言葉であたえられる状況を思考可能なものにし、肉体が耐えることを拒む苦痛を、精神にとっては受けいれうるものとすることにある。シャーマンの神話が客観的現実に照応しないということは、大したことではない。(p. 218)
シャーマンの唱える呪文は出産のプロセスを神話的形象を用いて歌ったものである。そこでは守護霊や悪霊、超自然的怪物などが「原住民の宇宙観を基礎づける緊密な体系の一部をなしている」(p. 218)。患者における難産の苦痛はこの統一的体系から逸脱した要素であるが、「シャーマンは神話に訴えて、全てが相互に関連し合う全体の中へ、これを置き戻すであろう」(p. 218)といわれる。その際、神話の内容は客観的(あるいは科学的)現実に対応していなくても構わない。これはシャーマンの「対象なき経験」すなわち幻覚のことを指していると思われる。客観的現実と関係のない神話が、しかし実際に患者を治癒させるのである。こういった現象について見出さなければならないのは、例えば細菌と病気という「原因と結果の関係」(p. 218)ではなく、「象徴と象徴されるものとの関係、あるいは言語学者の言葉を用いれば、シニフィアンとシニフィエとの関係」である。「シャーマンは、その患者に言い表されず、またほかに言い表しようのない諸状態が、それによって直ちに表されることができるような言葉を与えるのである」(p. 218)。シャーマンは象徴を用いて、構造から逸脱した要素を新たな構造のもとに再統合するのである。
象徴を用いるとはすなわち「言語表現への移行」(p. 218)である。したがって、レヴィ=ストロースは、シャーマンによる治療と精神分析家による治療はいずれにおいても「それまで無意識にとどまっていた葛藤と抵抗を意識に導こうとする」(AS 219)のだと考える。
両方の場合とも、葛藤と抵抗が解消されるのは、患者が次第に獲得していく現実的あるいは仮想的な認識connaissanceという事実からではなく、この認識がある特殊な経験を可能にし、その経験のあいだに諸葛藤が、それらを自由に展開し解決へと導くことを可能にするような順序およびレヴェルにおいて実現されるからである。この体験expérience vécueは、精神分析においては「消散abréaction」という名を受けている。(AS 219)
シャーマンが唱える呪文は患者の苦しみが神話的形象において展開し、最後には解決へ導くような物語を語り出す(そこではシャーマン自身が難産を苦しむ物語の主人公である)。これが、精神分析においては患者の側が無意識の葛藤や抵抗を整理し、自らの個人神話を言語化するような「消散」に対応しているのである。「神話と出産の平行関係の調和を保証するのは、象徴効果である。そして、神話と出産とは一対をなしており、患者と医師の二元性がそこにたえず見出てされる。精神分裂症の治療においては、医師が作業をおこない、患者がその神話をつくり出す。シャーマニズムの治療においては、医師が神話を提供し、患者は作業をなしとげるのである」(p. 222)。
呪術師の呪術は、象徴(=シニフィアン)を用いて従来の神話体系(=一つの構造)を逸脱した出来事を新たな神話のもとに統合することである。「呪術師とその呪術」では、この呪術的方法が科学における知識の進歩と対照されている。
もしこの分析が正しいとすれば、呪術的行為のうちには、情動的発現を通して意識に示されるがその深い本性は知的であるところの状況への反応を見るべきである。というのも、ただ象徴機能の歴史のみが、人間のこの知的条件の説明を可能にするであろうから。知的条件とはすなわち、宇宙はけっして十分に意味することがなく、思考は意味significationsを引っ掛けることのできる対象の数量に対して、つねに多すぎる意味を意のままに用いるdispose、ということである。シニフィアン〔意味するもの〕とシニフィエ〔意味されるもの〕との、この二つの準拠システムのあいだで引きさかれた人間は、呪術的思考に対して、それまで矛盾していたデータがその内部で統合されうるような新しい準拠システムを与えてくれるように要求する。しかし周知のように、この体系は知識の進歩を犠牲にしてうち立てられる。知識の進歩は、先立つ二つの体系のうちの一方だけが準備され、それが他方の吸収を可能にするところまで(われわれにはまだまだその地点を垣間見ることからほど遠い)深められることを要求exigéしたであろう。(AS 202-3)
シニフィアンの過剰に対して、正常な思考は病的な思考(呪術的思考)に新たな体系への再統合を要求する。しかし、このような呪術的方法は「知識の進歩を犠牲にして」、つまり科学的進歩を犠牲にしてしまう。むしろ科学的な知識の進歩とは、シニフィアンの体系とシニフィエの体系という二つの体系(システム)のうち、シニフィエの体系が、シニフィアンの過剰を消滅させるところまで拡充されることを目指すものである。「人間の知的条件」とレヴィ=ストロースが呼ぶこの思考枠組みは、翌1950年の「マルセル・モース論文集への序文」(以下「序文」)において、名高い「浮遊するシニフィアン」「ゼロの象徴的価値」といった概念の導入によってさらなる洗練を見ることとなる。
「序文」の最終部で展開される「浮遊するシニフィアンsignifiant flottant」の議論は、我が国ではすでに浅田彰が『構造と力』(初版1983)において「有名な」と形容し、簡潔な説明を与えている(pp. 190-2)。河野(2022)もまた「序文」の詳細な読解を行っている。本稿でその説明の全てを繰り返すことは控えるが、大雑把に要約すれば、この「浮遊するシニフィアン」は未開社会における「マナ」や「ハウ」といった概念であり、これらの概念の機能は「シニフィアンとシニフィエの間のずれを埋めること」(p. 36)である。つまり、あらゆるものを意味し、同時に何も意味しない純粋象徴であることによって、浮遊するシニフィアンはシニフィアンの過剰に対するシニフィアンを用いた対処法となる。シニフィアンの過剰という知的条件に対して呪術師が行うシニフィアン操作においては、この浮遊するシニフィアンがきわめて重要な役割を果たしているのだろうと考えることができる。
浮遊するシニフィアンは人間の知的条件に対してどのような機能を果たすのか。浅田は「シニフィアンはシニフィエに対して常に過剰に存在し、二つの系列の対応を維持しようと思ったら、特別なシニフィアンがこの過剰分を集約的に引き受けねばならないということである」(p. 191)と説明している。たしかにこの説明は、浮遊するシニフィアンがシニフィアンとシニフィエの間のずれを埋める機能を持つことを表している。しかし、呪術師がいかにしてこの浮遊するシニフィアンを利用し、シニフィアンの過剰に対処するのかということについての詳細な説明とはなっていない。レヴィ=ストロースの記述を見てみよう。
この型の観念が働くのは、いわば代数記号symboles algebriquesのように、それ自身は意味sensをもたずそれだけにまたどんな意味でも構わずに受け入れることができるので、意味的に不特定な価値を表象するためである。そして、その唯一のunique機能は、シニフィアンとシニフィエのあいだのずれecartを埋めること、あるいは、より正確にいえば、シニフィアンとシニフィエとのあいだの不全の関係rapport d’inadequationが、あれこれの状況や場面あるいはこれらの観念のあらわれmanifestationの際に、それ以前の相補的関係relation complementaireを犠牲にして確立されているという事実を表示するsignalerことである。(p. 36)
つまりマナは、内容のない形式、もしくはより正確には純粋の象徴であって、それゆえにいかなる象徴的内容をも帯びることができるのではないだろうか。すべての宇宙論がつくりあげる象徴の体系の中で、これは単にゼロの象徴的価値を示すものでしかなかろう。つまり、すでにシニフィエを担っているものに対する追加的な象徴的内容の必要性を明示しながら、しかし、それがまだ処分可能な蓄えの一部をなしており、かつすでに音韻学者のいわゆるグループ語ではないという条件で、一つのなんらかの価値でありうるような記号。(p. 42)
「それ自身は意味をもたずそれだけにまたどんな意味でも構わずに受け入れることができる」という特性は先行研究において繰り返し指摘されてきたことである。しかし今問題になっているのは、その特性がなぜシニフィアンとシニフィエの間のずれを埋めることに役立つのかということである。一つ目の引用の後半部分では、ずれを埋めるとはより正確に言えば「シニフィアンとシニフィエの間に一つの不全の関係が〔…〕それ以前の相補的関係に反して確立されているという事実を表示すること」であると言われている。シニフィアンとシニフィエの間の「不全な関係rapport d’inadequation」とはシニフィエに対するシニフィアンの過剰を意味し、「それ以前の相補的関係relation complémentaire antérieure」とはシニフィアンとシニフィエとの間に構築されてきた関係である。すなわち、浮遊するシニフィアンが現れる呪術の場面においては、それまでに構築されてきた関係が破棄され、更新され、新しい統一的な世界観が現れるということである。「すでにシニフィエを担っているものに対する追加的な象徴的内容の必要性を明示」するというのも、既知のシニフィアンがさらなる意味づけを必要とするものとして再度現れてくることを指していると考えられる。
まとめよう。従来の体系を逸脱した病という現象に対し、呪術師は患者の代わりに消散を行う。消散においては無意識の象徴世界が意識化され、それによって統一性が回復される。回復された統一性(=浮遊するシニフィアン)は、主観的には呪術師の持つただならぬ「力」として表象される。このようにしてシニフィアンは過剰であるけれども意味の不在は阻止され、世界は再び秩序ある宇宙になる。
二つ目の引用では、レヴィ=ストロースは「グループ語un terme de groupe」という音韻論の用語を用いてマナの特性を説明している。この「グループ語」は、「序文」の第二節後半においても、「任意変体」、「連合変体」、「中和」といった言語学用語とともに列挙されていた(こちらの部分では「termes de groupe」)。これらの用語はレヴィ=ストロース自身が註で示しているように、主にトゥルベツコイ『音韻論の原理』の中で論じられたものである。『音韻論の原理』はトゥルベツコイの死後1939年にドイツ語で刊行されたが、1949年にフランス語に翻訳され、レヴィ=ストロースはこの仏語訳を参照したようである。仏語訳の具体的な参照先を確認したところ、「任意変体variantes facultatives」、「連合変体variantes combinatoires」、「中和neutralisation」は確認できたものの、筆者が調べた限りでは、「un terme de groupe」や「termes de groupe」というそのままの語句や、それを主題的に論じた節を見出すことはできなかった。だが、この「グループ語」こそが「ゼロの象徴的価値」についてのレヴィ=ストロースの比較対象になっているため、むしろこの概念の内実を明らかにすることが我々の目的には不可欠である。検索の厳密性をやや緩めてみると、「les termes d’un groupe」という書かれ方で、内容的にも関連している可能性が高い記述があった。その議論を確認することで、再度レヴィ=ストロースの記述を隅々まで解釈することを試みる。
筆者の調査によれば、『音韻論の原理』の仏語訳で「les termes d’un groupe」という表現が登場する部分は二箇所ある。一箇所目は弁別論第二章第一節「音素と変種の区別」で論じられる、音素の弁別に関する四つの規則のうちの第四のものである。ちなみに、規則Ⅰおよび規則Ⅲにおいて「任意変体〔随意的変種〕variantes facultatives」と「連合変体〔結合的変種〕variantes combinatoires」が登場する。
規則Ⅳ 2つの音が、その他の点で規則Ⅲの諸条件に適合していても、当該言語において、その2つの音の1つが単独でも現われるような位置に並んで立ち得る場合には,すなわち、そのような位置に1つの音結合の項les termes d’un groupe phoniqueとして立ち得る場合には、この2つの音を同一音素の変種と解釈することは出来ない。(p. 56)
この一つ前の規則Ⅲは「或る言語の、聴覚上あるいは調音上互いに類似する2つの音が決して同一の音環境に現れることがない場合、それらは同一の音素の結合的変種として解釈される」(p. 55)というものであった。例えば朝鮮語では、/r/の音は語末に現れず、反対に/l/は語末にのみ生じる。この時、同じ流音として類似している/r/と/l/は結合的変種と見做される。だが、例えば英語における/r/と/ə/はそれぞれ、/r/が母音の前にのみ立つことができ、/ə/は反対に母音の前にだけは立つことができないという関係にあり、尚且つこの二つは類似した音でありながら、同一音素の結合的変種とは見做され得ないとされる。なぜなら、
二箇所目は弁別論第四章第三節「母音的特徴」のA「術語」で、母音音素について述べられた興味深い一節の中に見出される。
母音音素を1つしか持たない言語は世界に存在しないようである。このような「1母音」言語がかつて存在したとすれば、それは、多くの子音結合groupes de consonnesを認めるものであったに違いない。というのは、この唯1つの母音音素は、このような条件の下でのみ存在し得るのであって、その場合それは子音結合の項les termes d’un groupe de consonnesの間や語末子音の後の母音の不在(「母音ゼロzéro vocalique 」)に対立し得るからである。これに対し、子音結合のない「1母音」言語は、音韻論的観点からは母音を有しないものとなるであろう。なぜなら、個々の子音の後に必然的に起こる母音は、子音の具現におけるその当然の構成要素と解釈しなければならず、そして如何なる弁別力をも持たないであろうからである。我々に知られている諸言語は、常に,一定の<母音体系>(Vokalsysteme)を成すところの幾つかの母音音素を有している。(p. 104)
トゥルベツコイによれば、ある言語の中に母音がただ一つしか存在しない場合、その母音が弁別体系の中に位置を占めるためには、多くの子音結合を認めるものでなければならない。ここで「les termes d’un groupe〔de consonnes〕」は子音結合を構成する一つ一つの要素的な子音を指している。
これらの用法を見る限り、「les termes d’un groupe」とは互いに結合した音素群を構成する諸要素を意味する表現であることがわかる[4]。したがって、レヴィ=ストロースにおけるマナの「グループ語ではない」という条件は、言い換えれば、マナに相当するシニフィアン(弁別体系の一要素)はその他のシニフィアンと決して結合せず単独のままに留まるということを意味する。
ここで、レヴィ=ストロースが「ゼロの象徴的価値valeur symbolique zéro」と呼ぶものと、トゥルベツコイの引用中に見られる「母音ゼロ」という表現の近似は目を引く。さらに、レヴィ=ストロースの議論は、彼が参考文献として挙げるヤコブソンとJ. ロッツの共著論文「フランス語の音韻パターンについての覚書」(1949)の中で導入される「ゼロ音素zero-phoneme」に基づいている。この三つの「ゼロ」概念の関係を整理することによって、レヴィ=ストロースの議論の背景をより明確に把握しよう。
トゥルベツコイによれば、母音がただ一つであるとき、その言語には多くの子音結合が存在しなければならないのだが、その理由は、その唯一の母音が「母音の欠如」すなわち「母音ゼロ」との対立を持つことによって弁別体系の中に位置を占めることができるからであった。それゆえ、子音結合が存在しない言語においては、母音が欠如することはあり得なくなり、その母音はそれ自身の欠如との対立を持たなくなる。それ自身の欠如と対立を持たない、常に存在するだけの要素とは、つまりは存在しないことと変わらないという次第である。したがって、ただ一つの要素が単独に存在しうる条件は、その要素が、その要素自身の「欠如〔不在〕」との対立を持つということである。
ヤコブソンはJ. Lotzとの共著論文「フランス語の音韻パターンについての覚書」(1949)の中で、フランス語の音韻体系の一つ一つについて網羅的に論じている。その中でも特に際立った特徴を持つ音素が、「ゼロ音素zero-phoneme」と彼らが呼ぶ要素である。
ゼロ音素は、əによって象徴化され得るものであり、分析的転写においては#によって表されるのだが、これはあらゆる弁別特徴および恒常的な音声性格の不在absenceによってその他すべてのフランス語の音素に対立する。他方、ゼロ音素əはあらゆる音素の不在に対立する。
(p. 155)
ヤコブソンらがゼロ音素の例として挙げているのは、「有音のh」や「脱落性のe」といったフランス語の規則である。これらの要素は通常、発音されない。しかしこの「音素の不在」を埋め合わせるかたちでゼロ音素が用いられることによって、実際には発音されないものの、「ゼロ音素」はそこに存在することになる。いわば、「『音素がない』ということを表す音素」である。
レヴィ=ストロースはこの論文を引用した注において「同様に、ここで提示された考え方を図式化することにより、マナ型の概念の機能はそれ自身のなかになんらかの特殊な意味を内包することなくして意味の不在を妨げることであると言うことができよう」(p. 46)と述べている。ヤコブソンらにおける「ゼロ音素」は音素としての弁別特徴を持たない(=音価を持たない)がゆえに音素の不在を埋め合わせる機能を持っていたが、レヴィ=ストロースにおける「マナ」はなんらの意味をも持たないがゆえに意味の不在を埋め合わせる機能を持っていた。ヤコブソンらとレヴィ=ストロースでは、「音素」と「意味」がそれぞれ主題にされている点で違いがある。
トゥルベツコイが仮想した「1母音」言語においては、ゼロ音素に当たる要素はその「ただ一つの母音音素」に相当するだろう。ゼロ音素がそれ以外の音素体系に対して持つ関係は、ただ一つの母音音素がそれ以外の子音音素の体系に対して持つ関係に等しい。ただ一つの母音音素はゼロ音素の時と同様に、いかなる子音の弁別特徴を持たず、それゆえにすべての子音音素と対立し、またすべての子音音素の不在を埋め合わせる働きを持つからである。子音だけの言語体系を考えるとすれば、その体系におけるゼロ音素が、「ただ一つの母音音素」に当たるものである[5]。こう見ると、トゥルベツコイの記述はむしろゼロ音素よりも進んだものになっているとも言える。なぜなら、ただ一つの母音音素はそれ自身の不在(「母音ゼロ」)と対立すると言われているからである[6]。ある音素体系におけるゼロ音素は、その体系のあらゆる音素(およびその不在)と対立するとともに、ゼロ音素それ自体の不在とも対立するということが、年代としては最も早いトゥルベツコイの記述から示唆されている。さらに、子音体系にとってのゼロ音素である「ただ一つの母音音素」がそれ自体との不在と対立することで存在するためには、その子音体系が「子音結合un groupe de consonnes」を形成しなければならないのであった。したがってレヴィ=ストロースの記述に戻るなら、マナが有する「グループの諸項les termes d’un groupeではない」という性格は、ただ一つの母音音素が、それ以外の子音音素にグループを作らせ、なおかつそのグループの一つではないことによって存在するというその存在性格に一致する。
こうしてわれわれは、マナに関するレヴィ=ストロースの記述をさらに詳細に解釈することができる。「音韻学者のいわゆるグループの諸項ではないという条件」とは、マナという要素が、それ以外の諸々のシニフィアンにグループを作らせ、なおかつそのグループには属さないことによって存在するということを意味している。それが「ゼロの象徴的価値を示す」ということの内実である。「有音のh」や「脱落性のe」のように音声表記する際には存在するが実際には発音されない部分に「ゼロ音素」が使用されることで、音素の不在が埋め合わされる。つまり音声表記と実際の発音の間にずれがあり、音声表記が過剰な状態にある。これがレヴィ=ストロースにおいてはシニフィエに対するシニフィアンの過剰という人間の知的条件に対応づけられ、マナはいわばシニフィエの不在に対立しこれを埋め合わせるために用いられる記号である。
野口隆『レヴィ=ストロースとその周辺』(1986)は、浮遊するシニフィアンやシニフィアンの過剰が、科学的認識を超えて芸術的創造に結びつくと論じている。彼によればシニフィアンとシニフィエの間にのみズレが存在するわけではなく、同様に親族組織、経済組織、政治組織などの複数のシンボル体系間にも互いに還元不可能な矛盾的関係がある。それゆえ、そこから生じる社会的機能不全や不均衡、社会心理的不調和といったものが、芸術家や呪術師、精神分析(家)を通して均衡へもたらされるという。野口の説明は大枠においてレヴィ=ストロースの議論を正しく捉えているといえるが、シニフィエに対するシニフィアンの過剰が具体的のどのような状態であり、なぜそのような状態にあるのか、そして浮遊するシニフィアンのどのような性質によっていかにして均衡が保たれるのかといった詳細なメカニズムについては触れていない。
小田亮「禁忌と意味生成——レヴィ=ストロースその可能性の中心」(出口顯 編『読解レヴィ=ストロース』(2011)所収)では、レヴィ=ストロースのマナ(とタブー)解釈が、数多くの解釈の中での「極限」であると見做し、総合的な読解を行なっている。
[1] 河野(2023)もまた、「ラカンが『呪術師とその呪術』というテクストをどのように読んだかという問いは一考に値すると筆者は考える」(p. 5)と述べ、この論文の読解を行なっている。
[2] レヴィ=ストロースは物理的な外傷を伴わないこの衰弱過程を、強度の不安に取り憑かれた患者や戦争参加によるショック死に見られるものと同じであるとしている。
[3] 河野(2023)は、レヴィ=ストロースがなぜここで「消散」概念を用いたのかについて、第二次大戦の戦争神経症治療のためにこの治療が積極的に用いられた事実と、レヴィ=ストロースが精神分析家フランツ・アレキサンダーの仕事に通じていた可能性を指摘している(pp. 13-4)。
[4] したがって、「グループ語」という日本語訳は適切でない。
[5] ヤコブソンらの論文では
[6] したがって、「ゼロ音素」と「母音ゼロ」は対応せず、むしろ対立関係にあることに注意。
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