2024/10/30

ここに書くことと、ノートに書くことはやっぱり違う。いくら赤裸々と言っても、ここにはここに書けることだけを書いている。それはノートに書き始めることで分かった。ノートには、ノートに書けることを書くようになったから。

ノートには固有名を含めた身の回りの詳細を書いているけれど、それだけでなく、言葉の使い方がそもそもここに書かれていることとは異なっている。僕以外の人が読むことは、少なくとも僕の生前にはいないであろうことを書くとき、その文体は微妙に異なっている。

自分の気持ちを書くようになって、詩を書くようになった。クオリティとか技巧とかはよくわからないけど、とにかく浮かんだイメージとか、なんかいいなと思った言葉を使うようになった。上手い言い回しとかそれっぽい熟語を使っても違和感しかないのだ。自分の中から、ある言い難いものを形容するために出てきた言葉だけがしっくりくる。でも不思議なことだが、そうやって表出された言葉もまた、語句単位で見れば辞書に載っている言葉で、どこかから借りてこられた言葉である。

ではその、うちから表出された言葉は、なぜそれがうちから表出された感じがするのか。なぜ語は同じでも、自分が使うと「服に着られた」ような感じがするのに、あの人が使うとしっくりくるということがあるのか。一歩引いた見方をすれば、その理由はその語の使い方にある。語の選択と組み合わせ方、そこに主体性が発揮される。うちから表出されて用いられた言葉は、少し変な位置に置かれたりする。少し違和感のある形容詞や動詞が採用されたりする。だがその違和感がその人の個性になる。

無理やりそれっぽく見せようとする違和感ではなく、つまり一般性に寄せようとして失敗した時の違和感ではなく、その人の「肉」がちょっと剥き出されてしまっているような時の違和感が、逆説的にしっくりきているのだと思う。というと千葉さんの『センスの哲学』の議論そのものである。

ともかく、言葉の力を感じるようになり、信じるようになった。

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修論提出まであと1ヶ月。素材はほぼ集めたはず。あとはどう整理するか。それが難しい。頑張ろう。

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