『構造人類学』第十二章「構造と弁証法」(初出1956年)は、神話と儀礼の関係について考察している。この論文で用いられている「身ごもった少年」の神話は、同年にジャン・ヴァールの招待によって行われたレヴィ=ストロースの講演でも扱われていたものである(ほとのんど講演の清書版のような内容)。cf. 10/24の記事https://shanazawa4.wordpress.com/2024/10/24/2024-10-24/
ポーニー族のこの神話の内容は、ポーニー族内部の儀式とではなく、他の部族の儀式と変換関係にある。「すなわちポーニー族の神話は、この部族に優勢な儀礼体系ではなく彼らが用いない体系の、すなわち彼らと儀礼組織が正反対な親類の部族の体系の、逆の儀礼体系を提示するのである」(『構造人類学』、p. 263)。
問題の講演(Seuil社発行のLe Mythe Individuel du Nevroseに収録されている)をざっくり読み通した。ここでは途中からラカンが長い発言をしているのだが、その前半部分は、レヴィ=ストロースの神話理論と「神話素」の発見が、まさにシニフィアンの理論であることをとうとうと述べている。そして、formule canoniqueが登場する「神話の構造」の内容(オイディプス神話のヴァリアントを、限定された要素の変換された組み合わせと考える)を激賞しながら、ラカン自身はこのような構造分析(formule canoniqueを用いた分析)を過去に「神経症者の個人神話」において厳密に適用した、と述べている。
ここでレヴィ=ストロースの定式の原型のようなものについて少し説明され、「不可能なものl’impossible」が常に出てくるというようなことも言われるのだが、細かな論理はよくわからない。
ともかくこの発言においてラカンは、「神話の構造」における定式化を高く評価しつつ、その定式化がその講演内容である神話と儀式の議論には適用されていないように見える、と述べている。
「今日、クロード・レヴィ=ストロースの発表のおかげで、私たちは私を驚かせるようなことに直面していることに気がついた–そして、実はこれが私のコメントのポイントなのだが。というのも、神話の構造に関する『アメリカ民俗学雑誌』の論文が構造化原理として提供していると思われるものには、少し及ばないように思えるからである。たとえば、先に述べたような、すでに高度に精巧な変換式が見当たらないということです。」(Le Mythe Individuel du Nevrose, Seuil, pp. 108-9)
これに対してレヴィ=ストロースは、ラカンの指摘に同意しつつ、「神話の構造」では「同じ神話の変種間の関係の問題を提起し、それぞれの変種が、隣接する変種に配置された要素の順列のグループと同化できることを示そうとした」(pp. 111-112)のに対し、今回は神話と儀礼の関係について話しているのだ、と応答している。ある意味、ラカンの指摘は的外れだったということなのだろうか。ラカンはこのレヴィ=ストロースの回答に対して簡潔に「そのことは、これらの象徴体系の完全な相対化をさらに際立たせている」と答えて、それ以後は語っていない。そのあとはメルロ=ポンティが発言して、神話と儀礼の関係というのをマルクスにおける議論と対比させるような議論をしている。
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