今日はヨガ。
日本ラカン協会が発行している機関誌『I.R.S.―ジャック・ラカン研究―』の第20号(2021)を購入。この年の特集は「ラカンはいかにしてラカンになったか Ⅰ」。30-40年代のラカンや、構造主義、特にレヴィ=ストロースとの関係を考察する論文がいくつか入っている。その中には、『言語伝承と無意識 : 精神分析としての民俗学』の著者である岡安裕介の論文もある。
とりあえず一通り読んだ。岡安の論文は、ラカンとレヴィ=ストロースの理論的関係を、一つ一つはそこまで掘り下げないものの、非常にコンパクトかつ的確にまとめている。これは参考になりそうである。ラカンははじめ、レヴィ=ストロースの「浮遊するシニフィアン」論から「父の名」の理論を形成していったが、やがて、欠如の象徴としてのマナではなく、マナの欠如の象徴を考えるようになる(「フロイト的無意識における主体の壊乱と欲望の弁証法」)。これが対象aの概念。つまり僕の理解する限り、これはあくまでも全体性を保証するマナに対し、その全体的な秩序に回収できない剰余を意味する。ヴェニスの商人における「肉の1ポンド」。
50年代前半までのラカンは、とにかく秩序化されることの重要性、反対に秩序化されないことによる病理を考えており、ねずみ男症例もハンス症例も、父の象徴的機能を十全に果たすことのない「弱い父親」が原因で想像的な補完へと追いやられる結果生じたのだと分析されていた。だが、対象aという概念の導入によって、ラカンの象徴理論はレヴィ=ストロースのそれから分岐していくことになると言える。
もう一つ、ラカンとレヴィ=ストロースを扱う論文として牧瀬英幹「如何にして分析における転回点を捉え、介入することが可能となるのか─ラカンとレヴィ゠ストロースの理論的接点をもとに考える」というのがあったが、これはいささか応用的な研究というか、牧瀬さんのこれまでの関心の延長上に位置付けられるもので、ラカンとレヴィ=ストロースという主題はそこまで必要でもないように感じた。
日本においてラカンとレヴィストロース、あるいはラカンと人類学という主題は、やはり2020年以降に本格的に多角的に研究され始めている領域である。が、大陸ではこれまでに見てきたようにそれなりに重層的な研究がある。これまでに見てきた日本の先行研究は、どれもその厚みを利用してはいないものである。僕がそこに何かを投じる余地はある。
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