レーナルトの章を書いているが、なかなか難しい。ローマ講演の議事録をコメンタールする形で書く部分を作ろうとしたのだが、「つまりこういうことです」と噛み砕くのが難しい。途中で止まっている。しかし、ラカンがここって言っているのはつまりこういうことで、そこでレーナルトの『ド・カモ』が参照されているということは、ラカンはレーナルトから〇〇の発想を受け取り、解釈したということだ、とやりたいのである。キーワードとなるのは、語mot、ものchose、ディスクールdiscoursなど。それからそれに関連して、象徴的なものと現実的なものとの区別。
「おそらく、言説discoursは事物chosesに関わります。実在réalitésが事物chosesとなるのは、この出会いによるものです。ゆえに、語motは物の「符号signe」ではなく、事物そのものla chose mêmeとなるでしょう。しかし、これは語が意味sensを放棄する限りにおいて成り立ちます――その場合、呼びかけl’appelの意味は除外されますが、実際それはあまり機能しません。たとえば、「女femme」という言葉を発したところで人間の形が現れる確率は低いですが、その現れに対してそのように大声で叫べば、それを追い払う可能性の方は高いです。」
語の一つ一つが名付けのように意味や指示対象を持っているのではなく、意味はディスクールの転換の中で発生する(意味作用signification)。そのように考える時には、「語が意味sensを放棄」していると言える。一つ一つの語は意味を放棄して〔つまり記号ではなく〕、「事物〔もの〕chose」となっている。この辺りまではわかる。だが、それとディスクールの展開にはどんな関係があるのか?
実在réalitésは事物chosesから区別されている。実在が事物になる?ディスクールが事物に出会うときに、実在が事物になる?なんとなく、レーナルトの議論に近いような気はする。カナク人社会では、「言葉」という語は音声だけでなく、行為や物品をも意味していた。「ここに言葉がある」(「凍ったことば」にも近い)。「彼は兄の言葉である」。実在世界の様々な存在者は、言語世界のそれぞれの位置を占めていた。実在が事物になるとはつまり、そのようにして言語世界の中に位置づけられるということだろうか。そしてそのようにしてこそ意味作用が可能となる。
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ボルク=ヤコブセンの『ラカンの思想』を読解していた時、まだねずみ男症例やラカンの「神経症者の個人神話」を読んでいなかったので、読み飛ばしていた箇所があった(cf. 9/10の記事https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/10/2024-9-10/)。p. 233-234の部分である。
まず前置として、レヴィ=ストロースの「序文」の中では、異常な個人の行動は統一の幻想を現実化するものであって、それゆえに社会から逸脱していながらも、同時に、その幻想の現実化を社会から要請されているのでもあった、ということがある。そして…
「ここから理解できるのは、ラカンは、自らが関わっていた神経症の分析に、こうした図式を応用する誘惑に抵抗できなかった、ということである。それでラカンの説明する通り、神経症は、『個人的神話』として、すなわち集団的神話によって定義された象徴界の機能障害が引き起こした象徴的な下位システムとして理解される必要があることになる。」(ボルク=ヤコブセン、p. 233)
ラカンは「神経症者の個人神話」において、レヴィ=ストロースの考えるような異常個人のシステムモデルを採用していたという。どういうことかよくわからない。ねずみ男は、シャーマンのように社会から要請されていたというのだろうか?呪術師とはまた違う気がする。なお、「精神病」者はむしろ「反象徴化」として理解されなければならず、この点で神経症と異なる。呪術師やシャーマンはやはり神経症者である。
「こうして、例えば、私の境遇を支配する象徴的な言葉の契約は非常に多義的な仕方で定式化され得たために、その契約の中では、私は、容認された規則に従って自らを承認すること(承認させること)ができないことになろう。」(p. 233)
いきなり「私=ヤコブセン」が出てくる。先ほどの「象徴的な下位システム云々」も、そこから「こうして」と引き出されてくる上の引用も、よくわからない。「私の境遇を支配する象徴的な言葉の契約」というのは、例えばねずみ男症例において、父親の代(あるいはもっと前から)から受け継がれてきている運命としての言葉であろう。そしてねずみ男の場合は、その父親は無力な父親、あまり父親らしくない父親だったのであり、そのこと(父の象徴的機能の引き受けの不完全)がねずみ男の病因ともなっていた。
そのことによって、ねずみ男もまた、「自らが象徴的なレヴェルにおいてあらねばならないはずの(象徴的なレヴェルにおいてある)『息子』という位置を占めることができない、ということである」(p. 233)。代わりにねずみ男は、「殺害不可能な想像的な父親とのエディプス的な敵対関係をという仕方で、亡き父において私を承認する羽目に陥る(こうして、鼠男の父親は、恐るべきことに、彼の息子の無意識の中では死を免れていたのだ)」。
うーん、わかりにくい。ねずみ男は「息子」という自らの役割を引き受ける(承認する)ことができず、代わりに父親を幽霊として生かしたままそれに囚われていた、ということか。つまり、父親はもう何年も前に死んでいるにもかかわらず、父親に鼠刑が及ぶことを恐れるという仕方で。ただ、父親との間に敵対関係があったとはどういうことだろうか。恋人と結ばれるためには父親が死ななければならない、という形で?それはねずみ男の幼児期には、父親の存在が性的目標の達成の障害となっていたからであった。
こうしてねずみ男は、父親の代から継承された言葉を承認し、引き受けることができない。想像的な均衡点に安住してしまう。
ヤコブセンはねずみ男症例において、個人神話は語られたものの、「充実した真に象徴的な言葉」が承認されてはいない、と考えているのだろうか?だがねずみ男症例は成功例でもある。
「今やこのことが意味するのは、欲望は、夢や症状または『個人神話』などの言語(周縁的な象徴)の中で語られはするが、この言語の中では、充実した真に象徴的な言葉という仕方では承認されていないということ、これである。」(p. 234)
いや、というよりも、ただ患者がその神話を語り出すだけでなく、分析家の方が「真に象徴的な言葉」を、主体からすれば「ひっくり返った形で」与え返すという作業が、どうしても必要だということだろうか。患者だけでは治療できない。
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