2024/10/25

ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』「第四の書」には、第55章「パンタグリュエル、大海原で、さまざまな溶けたことばを聞く」、第56章「パンタグリュエル、凍ったことばのなかに与太毒舌des mots de gueuleを見つける」という一連の挿話がある。パンタグリュエル一行は大海原で宴会をしていたところ、突然、周りから様々なものの声を聞く。しかし辺りを見回しても自分たち以外何もいないのである。そこでパンタグリュエルは、昔の学説に言われているように、発せられたが寒さで凍ってしまった言葉が空中に留まっていて、それが溶けて我々に聞かれたのではないか、と推測する(第55章)。そしてパンタグリュエルは実際に「凍ったことば」を見つける。凍ったことばたちは「なんだか、色とりどりの真珠でおおわれたキャンデーみたいだった」(宮下訳、p. 462)(第56章)。

宮下志朗の訳注によれば、溶けた言葉、凍った言葉についての寓話の典拠にはギヨーム・ポステル、カスティリオーネなどがある。カスティリオーネの『宮廷人の書』には、凍てついたドニエプル川をはさんで商談をしていたら、言葉が途中で凍ってしまって聞こえなかったという話が出てくる(そこで、川の真ん中で焚き火をしたら言葉が溶けて声が聞こえてきた)。また、パンタグニュエル自身が言及しているように、紀元前4世紀の喜劇詩人アンティパネスは、言葉(パロール)に関するプラトンの学説も同様のものだと考えていたらしい。つまり、「ある国においては、厳冬期ともなれば、ことばはそれが発せられても、大気の冷たさゆえに凍りつき、かじかんでしまって、聞こえなくなるという」(宮下訳、p. 458)。これはプルタルコスの報告の中では、プラトンの謎めいた箴言が若いものには理解されず(凍ったことば)、その者たちが老人になってからようやく了解される(溶けたことば)ことを比喩的に表現したものとして語られているものである。つまり「凍ったことば」は、それが聞こえてくるまで、すなわち解釈されるまでに時間のかかる謎めいた言葉(あるいは予言?)、とも解せる。渡辺一夫訳の訳注には、「また、『真理は、これが真理と認められない限りにおいて真理だ』という考えで、人間と真理との問題を、この寓喩物語に見る人もいる」ともある(渡辺訳、ワイド版岩波文庫、p. 475)。

ラカンはローマ講演の質疑応答の議事録において、シニフィアンの物質性(すなわち情報として量的に取り扱い可能であるという意味での物質性)を論じた直後に、次のように語っている。

「しかし、そこから生じる明白な神経nerfは、私たちの関心にかかわる点で、すでにラブレーによって作り出された神話に含まれていました——それで何ができるか、私は言わなかったでしょうか——つまり、彼の「凍ったことばparoles gelées」です。ばかげた話ではありますが、この話の「精髄substantifique moelle〔ラブレーの言葉〕」は、物理学的な音の理論がなくても、私の言葉があなたとの間の中間空間に存在し、それが私の声帯からあなたの耳へと伝わる音波と同一であるという真実に到達できるということを示しています。現代の人々にはまるで理解できていないようで、それは単に、産業の実践la pratique industrielle——どうか私がそれを嘲笑することになりませんように——における真剣さが「悦ばしき知識gay savoir」には欠けているためだと考えられるだけではありません。おそらく、ある種の検閲のために、彼らがこの神話を未来を予見する天才的なものとして笑いながら取り上げる中で、次のような問いが浮かび上がらないからです。それは「何の予見なのか?anticipation de quoi?」という問いです。すなわち、もしこの空想が現代の蓄音機の実現を予見していたとすれば、どんな意味がそこに含まれていたのか?果たして、何がこの空想fantasieの創作者を導いたのか、という問いなのです。」(Autres ecrits, pp. 148-9)

ここでは、ラブレーにおける「凍ったことば」が、現代における蓄音機のアイデアを予見していた、とされている。言葉、パロールが、何らかの形で固定化され、保存され、時間を経たのちに再生されうる。物理学や情報理論が今ほどに発達していない時代に、ラブレーは言葉をそのようなものとして扱う発想を示したことの意義を思考するよう、ラカンは要請している。

また、ラカンは「ローマ講演」本文の中で、「第三の書」第3章および第4章、「第四の書」第9章にちなんだことを書いている。

「第三の書」第3章「パニュルジュが、あれこれと借りる人々を賞賛する」では、「だが、それにしても、いつになれば借金とおさらばできるというのだ?」(宮下訳、p. 76)と尋ねるパンタグリュエルに対して、借金を返してはならぬこと、借金がいかに素晴らしいかということをパニュルジュが説得している。様々な話を次々と繰り出しながらパニュルジュは、貸す人と借りる人、与えるものと受け取るものとの相互関係があるからこそ、社会も世界も人体(生命)も成立するのである、と語る。

「とんでもございません。わたくし、一生涯、借金をば、天と地とをつなぎます絆にして、人間さまの血統を守るための唯一の手だてと考えておりますぞ——種の保存なくば、人間もやがては絶滅いたすは必定にてござそうろう。それにまた、借金こそは、おそらくはですね、宇宙の大いなる霊魂でして、かのアカデメイア派の哲学者によりますれば、森羅万象に生気を与えるものなのでありまする。いやはや、このわたくしが、このように考えておらぬような暁には、これはもう、ありがたきバボラン聖人さま〔7世紀パリ郊外の修道院の初代院長。ラブレーは1536年にこの修道院の受け入れを許されたらしい〕に、身も心も捧げてしまいますよ。」(宮下訳、p. 82)

さらにスケールが拡大して、

「ウェヌスにしましても、なにも貸してはくださらぬ仕儀になりますてえと、崇められることがなくなりましょう。月は、どす黒く、地のような暗闇に包まれましょう。何の理由で、太陽は、月に光を分ち与えなければいけないのですかい?そんな義理などありゃしませんぜ。お天道様は、地上だって照らしてなんぞくれませんや。星々にしても、ありがたきお力を及ぼしてなんぞくれません。だって、蒸気やら発散によって星に滋養栄養を貸してあげるのを、地球の側が止めちまうのですから。」(p. 84)

「第四の書」第9章「パンタグリュエルがエナザン島に到着する。この国の奇妙な縁組みについて」では、パンタグリュエル一行が流れ着いた「縁組み島(古名はエナザン〔鼻欠け〕島)」に住む島民の奇妙な親族関係について報告されている。

「この島の人々の親族関係や結縁関係〔アリアンス〕は、とても奇妙なものであった。というのも、とにかく全員が、おたがいに親族で、結縁関係にあるがために、だれひとりとして、だれの父でも母でもなく、兄弟でも姉妹でもなく、叔父でも叔母でもなく、いとこでも甥っ子姪っ子でもなく、婿でも嫁でもなく、代父でも代母でもないことを、われわれは発見したのである。ただし、実際はといえば——これは、たしかに目撃したことなのだけれど——鼻欠けの老翁が、三つか四つの女の子を、なんと『お父さん』と呼び、その女の子のほうは、爺さんのことを『娘よ』などと呼んでいるのだ。」(宮下訳、p. 126)

また、親族名称を超えて(あるいは拡張された親族名称として)、人々の間には奇妙な言語関係がある。

「おたがいの血縁・姻戚関係とは、男が女を『わたしのイカさん』と呼ぶと、女が男を『わたしのイルカさん』と呼ぶというものであった。〔略〕ある男が、ちょっとばかり洒落た感じの若い女に、にこっとして、『こんにちは、ぼくの馬櫛ちゃん』と呼んだ。すると彼女は会釈して、『がんばってね、わたしの牛馬ロバちゃん』と呼び返すのだった。」(p. 126)

このようにして、その後も様々な言葉の関係が互いを呼び合う親族名称となっている(例えば「パンの身」×「パンの皮」、「古靴」×「スリッパ」、「梨」と「チーズ」〔食後のくつろいだ時間を「梨とチーズのあいだに」と表現する〕)。

ラカンの方はというと、上記二つのラブレーの物語について、「ローマ講演」で次のように述べている。

「このように、言葉というものの力があればこそ、ラブレーが高名な隠喩の中で述べたような、その経済が星々にまで及んでいる『巨大な負債』の運動は、かくも恒久的なものになっているのである。だからラブレーがその一章の中で、さまざまな言葉を雅俗混済体風にもじって親族名称として使い、かくして現代の民族誌学の発見を先取りしているからといって我々は驚かないし、ラブレーのこの先見の明はむしろ、我々が此処で解明しようと試みている人間の神秘を言い当てたものとして、我々の心の糧ともなるのである。」(新宮訳、p. 68, E 278-9)

ラカンは直後の段落でこの「負債」を人類学におけるハウやマナと同一視している。それはシステムの循環の原動力となるようなものである。親族名称の寓話がどのような意味で「現代の民族誌学を先取りして」いるのかは不明瞭だが、ただ上に引用したラブレーの記述は、たしかに人類学・民俗誌学が全く存在しなかった時代に、未開社会の親族関係を研究するという体裁をすでに確立したものになっているとも言える。

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