2024/10/23

修論作業再開。レーナルト章とレヴィ=ストロース章をどうするか。レーナルトへのラカンの言及については、時系列順に、「象徴界、想像界、および現実界」、「ローマ講演」、「ローマ講演」の議事録、「象徴、そしてその宗教的機能」でほぼ全て出尽くしたといっていいと思う。とりあえず名前が言及されている該当部分をwordに貼り付けて、前後の文脈と絡めてラカンがレーナルトの『ド・カモ』をどのように解釈し、自らの理論の中にどう位置付けているのか、どう評価しているのかを書いてみる。

レヴィ=ストロースの章に関しては、7月くらいに一気に書いたものの大部分は修正する必要がありそうである。消してしまうのも勿体無いので、そのときになったらこの日誌にコピペしておく。主に「呪術師とその呪術」や「モース著作集への序文」、トゥルベツコイ『音韻論の原理』の読解を行なっているが、実際に使うのはもっと要約したものだけで良いと思う。やっぱりやりたいのは、9月中にずっと消化してきた諸先行研究の整理。一人ずつ取り上げてやってもいいが、長尾さんがやっていたように主張の傾向をいくつかの説に分類してもいいかもしれない。

議論の焦点をどこに持ってくるか。ラカンとレヴィ=ストロースの関係についてはいくらでも論点が挙げられるが、僕がこの修士論文でやろうと思っているのは、言語と行為に関してである。言葉を話すということは一つの行為であるのだが、それが如何なる行為であるのかということ。関係を結ぶ行為であるとすれば、それはいかなる関係か。それがレーナルトにおいてはそこまで具体化されたいなかったところの、親族関係である。言葉を話すとは、親族関係を結ぶことである?

だが、それがレヴィ=ストロースが調査したような未開社会なら良いとしても、ラカンが扱う都市社会=複合構造において同じことが言えるだろうか。そこで問題になるのが転移ということなのだろうか。必ずしも関係を結ぶ相手は自分の親族ではないが、しかし転移によって親族関係の鋳型を現在の相手との関係に当てはめてしまう。

つまり、先行研究の整理を通して、レヴィ=ストロースからラカンが受け取ったものと改変したもの、レヴィ=ストロースとラカンの「構造」に関する考え方の異同のようなものを析出できれば良いと思う。それならマリノフスキー、レーナルトと見てきた流れにも調和する。

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