鬱の時というのはいつも冒険だ。毎回何かを見つける。見つけざるを得なくなる。心の苦しみというのは量的に測定し、比較することができるのだろうか。あの苦しみとこの苦しみのどちらがよりしんどいかということを言えるだろうか。言える気もするし、言えない気もする。しかしともかく、この状態をなんとかするべく動かざるを得なくなる。なんとかするためのトレジャーを発見できるかどうかはいつもわからない。そんなものはない、と否定的になる。否定的になりながらも、それを探さずにはいられなくなる。鬱は単に無気力にさせるものではなく、ある特殊な方向へ駆り立てるとともにそれ以外の行動を禁じる力である。
言葉だけの言葉。希望はある、とか。元気になったらなんてことはない、とか。時間はゆっくりとだが確実に治療してくれる、とか。鬱の時には、そういう言葉が内実を失って形だけになる。情動を伴わない、単に知的に了解された命題となる。だが特に今回は、単に知的に了解された命題が力を持った。それを芯から納得することはできないが、元気な時、落ち着いている時にはそれを思えていたというその過去の事実のみが了解されている。そしてそういう命題が結局、最後には自分を動かしたり制止したりする力を持つ。今はよく納得できないけれど、きっとそうなんだろう、だから信じられなくても従おう、となる。
柳田ゼミの発表はうまく行った。ひと段落して安心した。通学中の電車内で少し苦しくなりかけたけど、ゼミを終えて安らかな気持ちにある。夜、帰ってきて残っている豚ごぼうを食べる。タレの濃さもちょうど良い。シャワーを浴びて、ホン・サンスの『逃げた女』を観ながら寝る。昨日もホン・サンスの『女は男の未来だ』を観た。その前はカサヴェテスの『こわれゆく女』を観た。
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