1週間ほど雨が続くようなので、今日一日家にいる日に洗濯物をしてしまいたいと思い、空模様を監視しながら干した洗濯物をベランダと部屋の中の間で出し入れしていた。空気がたっぷり湿気を含んでいるので、雨に当たらずとも乾くのが遅い。
レーナルト章加筆500字。
ラカンがレーナルトに触れるのはてっきり1953年の「象徴界、想像界および現実界LE SYMBOLIQUE, L’IMAGINAIRE ET LE REEL」および「ローマ講演」だけだと思っていたのだが、1954年のエリアーデとの対談が収録された「象徴、そしてその宗教的機能Du Symbole et de sa Fonction Religieuse」の中にも言及されていることがわかった。そこから該当部分をいくらか引きながら考えてみる。
「全体として、集団は自分たちが何を言っているのかce qu’elle ditを理解していないし、実際のところ、それでも全く問題なくやっていける。ディスクールには、担われた意味に関係なく価値が残る。どこかでマラルメが言っているように、『人間の言葉は、擦り減った刻印のコインのようなものだ。それを手から手へと渡している』。そして、それは役に立つ。髪を引っ張り合わないように、首を斬り合わないようにするために役立っているのだ。バスの中での世間話をして、神様のおかげで、なんとか分かり合っているように見えるon a l’air de s’entendre。それだけで十分じゃないか。/集団的無意識というのは、もしそう呼びたいなら、まさにそれのことだ。みんなが話すこと、例えば子爵に関する話などだろう、そうではないか!それ以外のことについては、私にはまったく意味がわからない。/この第一歩が片付いたところで、私たちは『パロールとは何か』という問いを立てることができる。/最初に注目すべきことは、言葉が象徴的な機能において世界に何をもたらすか、という点である。」(p. 59)
<注釈>社会の中で人々は、自分たちが言葉を話すというのが一体どういうことなのか全く理解せずに、言葉を話している。ラカンがローマ講演でも引いているマラルメの言葉をここでも繰り返している(おそらく、マラルメの「ルネ・ギル著『語論』のための緒言」という文章の一部)。「髪を引っ張り合わないように、首を斬り合わないようにするために」というのはなぜこの例なのかわからない、元ネタがありそうではあるが、ともかく言葉(パロール)が想像的な敵対的関係から象徴的関係へ移行し秩序を獲得するために役に立つということを言っているのだと思う。人間は言葉を交わすことで「なんとか分かり合っているように見えるon a l’air de s’entendre」。それは単にわかり合っているような「雰囲気l’air」に過ぎないのだが、それで良いのだ。
「私たちは再び、パロールを基にして世界の概念に立ち返る。パロールの前には、何も存在しない。無であり、混沌であり、もしかしたら神の霊が水面に漂っているかもしれないが、私たちは神と対話していないのだ!しかし、パロールから何かが世界に現れ、それが新しいものであり、強力な変化をもたらすのだ。」(p. 59-60)
<注釈>ここから、ヨハネ福音書の冒頭「はじめに言葉があった」の議論へと入っていく。ラカンがセミネール第1巻で論じているところによれば、はじめにあるのはやはりランガージュ=言語であり、そこから神のパロールによって創造が行われる。「やはり」と言ったのは、ヨハネのこの言葉はゲーテ『ファウスト』の中で「はじめに業ありき」に改変されており、ラカンはそれを土台にしながらも元々の形である「言葉」へと再修正を行なった、という経緯があるからである。ランガージュ=はじめにあった言葉Verbe、そしてパロール=創造行為。言葉が先にあり、行為がそこに続く。
「これは私たちも知っている。しかし、しばらくの間、私たちは世界に導入するこの種の騒動が『行動action』であると考え始めている。すべての現代人はこの問題で心を悩ませているのだ。『初めに言葉Verbeがあった』、しかしそれでも、『初めに行動があった』のではないか!その間で心が揺れている。しかし、そんなに悩む必要はない。なぜなら、人間にとって究極の行動とは、まさにパロールであるからだ。/もちろん、私たちが形而上学的真理の秩序の中で自分を見つける手助けとして、時代を超えて常にさまざまなきらびやかな人道主義があり、そこには『善良な野蛮人』や『ウロン族』が登場する。したがって、レーナルト氏がとても遠く、カナク人のところまで行き、彼らが行動とパロールを同一視していること、特別な形をした小さな漁具を作ることが、彼にとってはパロールであることを私たちに思い起こさせるのも不思議ではない。/どういうことだろうか?彼が知っていることが、彼が行うことと明確に区別されていないのは確かだが、行動とパロールが同じものであることを理解するために、そこまで行く必要があるのだろうか?— なぜなら、私たちが何かをするたびに事情は同じであり、私たちの知識は私たちの行動と同じだからだ。/ただし、何をしているのかを知ることと、それを知るために立ち止まることは別の話だ。その瞬間、めまいが襲い、知識と行動の区別が生まれる。しかし、実際のところ、神のみぞ知ることだが、行動がより人間的であればあるほど、それは言葉の機能に組み込まれ、その立ち止まりが死に至るほどのめまいvertige mortelの源となる。」
<注釈>「言葉」の後に「行為(行動)」があると言ったが、ラカンがレーナルトの議論を参照するときに、言語=行為という視点をどのように取り入れているのかは不明瞭になる。ラカンのヨハネ福音書解釈では、ランガージュとパロールの間、言語と行為の間に時間差、あるいは次元の差があるように思われるのだが、この段落では言語行為論とも言える、そもそも行為とは言葉である(つまり行為と言葉が同時的)、というテーゼが見られるからである。⇦とここまで書いて思ったが、それはランガージュとパロールが区別されることによって解消可能である。つまり、「言語=ランガージュ」は行為に先立つが、「言葉=パロール」は行為そのものである。ランガージュは、相同的な諸要素の差異体系の全体であり、いわば言語ゲームのフィールドそのものである。将棋盤の上にそれぞれの示差的な駒が並べられ(ランガージュ)、ついでそのコマが動かされる(パロール)。「きらびやかな人道主義」とはレーナルトのことだろう。レーナルトは牧師としてカナク人たちと福音書の翻訳にあたるといった活動を何十年も続けてきた人物であり、その土地の植民地化に抵抗する運動にも参加している。『ド・カモ』もまた、そういった人道主義的な(ヒューマニスティックな)文体で書かれている。そうしたところで、ラカンはレーナルトの議論を思い起こすのも不思議ではないと言っている。すなわちラカンがレーナルトから引き出したのはまさに言語と行為に関わる問題系である。
そして次に行為と言葉の関係が、「何をしているのかを知ること」すなわち知savoirの問題と接続されている。ここがいまいちわからない。「彼(カナク人)が知っていること」と「彼が行うこと」が区別されないとはどういうことなのだろうか。最初に言われていたように、「集団は自分たちが何を言っているのかce qu’elle ditを理解していないし、実際のところ、それでも全く問題なくやっていける」。そして「ディスクールには、担われた意味に関係なく価値が残る」。つまり語る言葉が社会的にいかなる機能を持っているか、それが本当に何を意味しているのかを知らずに、人々は言葉を話す。だがそれで良い、その言葉は、その言葉の機能について知らずとも、正常に機能する。とすれば、これが行為についても同じことが言われているということだろうか。あるいはそれを反対から言えば、それが行為できるのなら、それはそれを知っていることと同じである。
そしてさらに次に提示される二項対立は「何をしているのかを知ることsavoir ce qu’on fait」と「それを知るために立ち止まることs’arrêter pour le savoir」である。後者はどういうことだろうか?立ち止まった瞬間、「めまいが襲い、知識と行動の区別が生まれる」のだという。これは反省的思考のことだろうか。行為ができる=その行為について知っている。そこに行為と行為についての知の区別はない。それに対して、「立ち止まる」ことによって「めまい」が生じる。行為に踏み出さずに思考する状態というのが、行為から区別されるところの知なるものを仮象させるということだろうか。
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