修論レーナルト章加筆1500字。
一昨日、学習院大に資料をとりに行って、Juan Pablo Lucchelliの「Lacan avec et sans Levi-strauss」(2014)と「CE QUE LACAN DOIT A LEVI-STRAUSS」(2022)をゲットすることができた。他大の学生だと紹介状やらなんやらであまりにも面倒なので、学習院に在籍している知り合いに頼んで貸出してもらった。ところがこの2冊、Lucchelliはラカンとレヴィ=ストロース関係で2冊も出しているのかと思っていたのだが、なんと2022年の方は2014年のものの改訂版だった。ほとんど内容は同じで、いくつかの仮説が修正されているらしいが、ページ数で言えば2022年版の方が少ないくらいだった。代わりに、Lucchelliがクロード・レヴィ=ストロースの妻であるモニク・レヴィ=ストロースMonique Levi=Straussと対談した内容が付録として収録されてあった。モニクは1954年、クロードが46歳の時に結婚した相手で、1955年に出版された『悲しき熱帯』の清書にあたったのは夫人であるらしい(cf. https://www.bookclubkai.jp/portfolio/people58/)。彼女自身はテキスタイル史の研究者で、その著作『カシミア・ショール』は1988年に邦訳も出ている。50年代のレヴィ=ストロースに関する貴重な証言の源泉ともなる人物である。
「CE QUE LACAN DOIT A LEVI-STRAUSS」(2022)の内容を流し見してみると、これまでに単論文として読んできた、ラカンの「神経症者の個人神話」とレヴィ=ストロースの「神話の構造」の定式を関連させるというアプローチはほぼそのままの内容が前半部に置かれていながらも、それ以上にセミネール4巻「対象関係」くらいまでのラカンにおけるレヴィ=ストロースの影響を検討しており、Zafiropoulosの「Lacan et Lévi- Strauss ou le retour à Freud, 1951- 1957.」とメソッドは似ているように感じる。今回僕は修論でセミネール4巻は扱わないが、ラカンはハンス症例を読解するこのセミネールにおいて、レヴィ=ストロースの「神話」概念を参照している。Zafiropoulosも含めて、全部読むというよりは、要所要所で自分の読解と比較する形で参照するようにしよう。
また、長谷川朋太郎さんの論文(「Le symbolique, une structure plus profonde que la réalité et son apparition : la lecture deleuzienne du strcuturalisme」、2020)で知った、Lucien Scubla, « Le symbolique chez Lévi-Strauss et chez Lacan », Revue du MAUSS, n° 37, janvier 2011, p. 253-269.という論文も、ラカンとレヴィ=ストロースの「象徴」概念を比較するために必要だと思って、プリントアウトしておいた。どうやらここでも、Lucchelliと同じようにレヴィ=ストロースの「formule canonique」をラカンの理論と比較しているようで、特にLucchelliに特有の仕事というわけでもないらしい。
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原和之_2008_「コードの複数性」の二側面_レヴィ=ストロースとラカン
原はルディネスコを多く参照している。「ラカン伝」に加えて、どうやらルディネスコはレヴィ=ストロースと精神分析の関係を検討した論文を書いているらしい(ELISABETH ROUDINESCO : De près de loin. Claude Lévi-Strauss et la psychanalyse_Critique n° 620-621 : Claude Lévi-Strauss_1999_ISBN : 9782707316677)。まずはラカンとレヴィ=ストロースの伝記的な事実を確認した上で、「レヴィ=ストロースにとってラカンとの交際はあくまで私的な領域にとどまるもので、彼自身の思索には何ら影響を与えなかったと考えざるを得ない」(p. 90)と述べている。なお、ルディネスコの記録によればレヴィ=ストロースはラカンやバンヴェニスト、数学者ギルボーなどと共に50年代初頭に研究会を開いていたため、この断定には留保が必要であることを原自身注釈している(p. 96)。
原がこの論文でやっているのは、大まかに言えば、少なくとも伝記的にはラカンからの断絶が敷かれているレヴィ=ストロースの思想が、実は結局のところラカンの考えていることとかなり近いのではないか、ということである。この論文の個性があるとすれば、それを論証するためにレヴィ=ストロースの1985年の著作『やきもち焼きの土器つくり』におけるフロイト論が検討されていることである。
原によれば、レヴィ=ストロースは「神話的思考」の特徴を「コードの複数性」に求めている(p. 91)。神話を語り出す時には、何か理解不能な不祥事に対して、従来の神話にとってかえられうるような別の神話を作りだし、そのことによって不安や苦悩を鎮めようとする。それに用いられうる神話は多様であって、一つの特権的なものというのは存在しない。レヴィ=ストロースは、神話を語り出すことによる治療という点で精神分析を賞賛する一方で、フロイトがただ一つの特権的コードすなわち「性的コード」に還元させてしまうことを批判する。
「要するに精神分析的アプローチは、神話を解読するにあたり、その神話の中で性的コードが常に機能していると想定し、しかもそれが特権的な仕方で機能していると想定している点で誤りを犯している。これがレヴィ=ストロースの批判の要点であった。」(p. 93)
こうしてレヴィ=ストロースはフロイトから離反するわけであるが、その離反の一歩は、原によれば、むしろラカンの方に近づく一歩であるという。フロイトから離れたところでラカンとレヴィ=ストロースが一致するというのは、Zafiropoulosもまた「Lacan et Lévi- Strauss ou le retour à Freud」のイントロで論じているところと共通する点がある。Zafiropoulosは、1938年(「家族複合」)から1950年(「犯罪学における精神分析の機能に向ける理論的序説」)までのラカンをデュルケミアンとして解釈する。ここでは、ラカンの社会理論がフロイトのそれではなく、デュルケーム系社会学に大きく影響されたものであることが言われている。そして50年代に入ってラカンの「フロイトへの回帰」が始まるのであるが、それはまさにレヴィ=ストロースへの接近を通じてなされた、とZafiropoulosはいう。つまり彼は、ラカンの「フロイトへの回帰」はレヴィ=ストロースを通してこそなされた、と主張しているのであり、ラカンの思想におけるレヴィ=ストロースの重要性を最高度まで高めた立場をとっていると言える。レヴィ=ストロースを経由することで、果たしてラカンはフロイトの社会理論へと回帰したのかどうかはよくわからないが、ラカンがその社会理論においては、そこまでフロイトに準拠していたわけではなかったというのは、フロイトとは異なるレヴィ=ストロースとの一致点を持つ理由にもなる(と、ここまで書いたが、書いていてやや苦しい気もする)。
原の論文の第二節に入ると、今度は言語=象徴の問題、中でも「意味」の問題が論じられている。レヴィ=ストロースは『やきもち焼きの土器つくり』において、まさに僕が修論で論じているような「脈絡論」を展開している。『やきもち焼きの土器つくり』から一部引こう。
「(象徴相対論では)象徴の意味作用のが個々のケースによって変異することを認め、それを明るみに出すためには自由連想法をもちいる。したがって、この見方はまだ素朴で粗雑な形とはいえ、象徴がその意味作用を、文脈から、他の象徴——これ自体、問題となっている象徴との関係においてのみ意味を帯びる——との関係からひきだすことを認識しているのである。」(原、p. 94)
これは、レヴィ=ストロースが言語学から受け取った、「内在的な意味といったものは存在せず、ある要素が持つ意味はその『位置』によってのみきまる、とする考え方」(p. 94)である。そして、原によればこの意味脈絡論をラカンが受け取ったのは、ヤスパースの「了解」概念からであり、それは1932年の博論「人格との関係から見たパラノイア性精神病」の中に見られるという。なるほど、これは原先生から直接聞いたことがあるが、ラカンにおける意味論の源泉にはヤスパースの影響があることを忘れてはならない。今回、僕は脈絡論の源流を人類学に求めているのであるが、それ自体は間違っていないだろう。だが、それよりも以前に、あるいは別の参照先としてヤスパースの精神病理学があるということは、ラカンの意味論をいずれ総体的に扱う時には重点的に論じる必要のあることである。
原は次に、ラカンの言語観もまた、レヴィ=ストロースと同じように、「コードの複数性」を内包するような形で形成されていることを指摘する(p. 96)。そして、『ラカン 哲学空間のエクソダス』でも論じられていた、シニフィカシオン=用法の集合と、それによる「聴取」体験の理論が簡潔にまとめられる。あるシニフィアンは、それを聴き取る人の中の「コード(=用法の集合体)」においてその次に続くシニフィアンの集合を喚起する、用法の伝統によって喚起されたそれらシニフィアンの集合が意味にほかならない、という意味論である。そしてこれが、レヴィ=ストロースの記述とも一致すると言われる。
あるシニフィアンが、あるコードの中ではこれを意味し、別のコードの中では別のものを意味するという「象徴相対論」は、要するにコードごとに用法の集合のあり方が異なるということである。したがってレヴィ=ストロースが神話=コードの複数性を主張してフロイトの「性的コード」一元論を批判したのと同じように、ラカンもまたコードに関しては複数性の立場をとるというのである。
なるほどこの理解は間違っていないように僕も思う。ラカンはどこかで、フロイトの発見したエディプス神話は、神話の一つであって他のものもありうるということを言っていた気がする(どこだったか思い出せない)。ただここまで読んで疑問に思ったのは、複数ある「コード」というのが、一人一人の個人神話に基づくコードのことであるのか、それとも「日本語」「フランス語」などの各国語としてのコードであるのか、ということである。原はコードに関する説明の時に、[aj]という聴覚イメージがドイツ語だと「卵Ei」、フランス語だと「痛い!aie」になると紹介しているので、これだけを見ると後者の説明になるが、ラカンやレヴィ=ストロースにおいて問題になっているのは「神話」としてのコードである。ここは批判点になりうると思う。
第三節、性的コードに関する対象関係論的な、欲動段階的な議論が始まる。おそらくセミネール4巻『対象関係』の中の議論と思われる。幼児は母親との関係の中で、母親の現前と不在を支配する秩序=コードを探る。これが「知」の営みの根源であり、さらに敷衍して言えば科学的探求の根元には愛の関係があるということでもある。
しかし、口唇期という欲動段階最初期の愛の関係は、レヴィ=ストロースが「神話的思考」と呼ぶ、コードの複数性の中でコードの差し替えを行う営みとは一線を画する、むしろコードの複数性それ自体が導入されるか否かの段階である。噛み砕いて言えば、「このコードじゃダメだからあのコード」ではなく、そもそも「コードを適用するか否か」の次元である。これは原先生の「欲望のグラフ」解釈にも深く関わってくる問題で、コードを適用するというのはつまり他社がコードの従って何らかの秩序を持っているということ、すなわち何かを欲望しているということである。では何を欲望しているのか、ということの探究がコードの探究、同定である。
そして原は、レヴィ=ストロースが神話解釈の中で「常軌を超えたもの」(コード外的存在)として分析しているものこそ、まさにこの次元の他者のコード内的表現であると解釈する。つまり、ラカンはレヴィ=ストロースと同様にコードの複数性を確かに思考しているし、ラカンがその先に思考する、いわば多様なコードの彼岸のようなものをレヴィ=ストロースもまた思考していたという点で、両者はかなり一致するのではないか、ということである。
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