2024/9/30

今日は学習院大に資料をとりにいく。Zafiropoulos, M.(2003) Lacan et Lévi- Strauss ou le retour à Freud, 1951- 1957. P.U.F.のイントロもざっと読んだ。

ただ、いまいち進んでいる感じがしない。Lucchelliを読んでいても、Zafiropoulosを読んでいても、「これを読んで何になるんだろう」が取り憑いて離れない。時間は有限で、人生も有限である。取捨選択する必要がある。

とりあえず、修論の本文の方を書き始めた方がいいのかもしれない。レーナルトの章から。そして具体的に何を調べたらいいのかが浮かび上がってきてから、その必要に応じて、再度LucchelliやZafiropoulosの該当部分だけ当たるというやり方の方がいい。レーナルトはラカンの言及部位だけでなく、11章以降のペルソナ論も見る予定なので、また色々と調べ物が発生するおそれがある。

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マリノフスキーおよびオグデン&リチャーズにおける記号場のように、個人の過去の経験が形成する観念連合ではなく、シニフィアンの総体としての「ランガージュ」をラカンは考えている、というのがマリノフスキーの章の結論である。この「ランガージュ」つまり「象徴的秩序」というのがどういうものなのかを、レーナルト、レヴィ=ストロースと見ていくことによってさらに肉付けしていく。

いま、原和之の論文「コードの二面性」を読んでいる。レヴィ=ストロースがその伝記的事実および発言から、思想的にはラカンと共約するところがないと思われているが、本当にそうなのかを再検討する論文である。実際の影響被影響関係の外に、事柄としての思想的共通性を見ようとするアプローチは、僕の研究の方針に一致する。

読んでいて思ったことだが、ラカンにおいて象徴的秩序は、個人の経験というよりも、(超)個人の歴史であり、個人の経験を超えて用意されている「布置constellation」である。そこから、ラカンの「神経症者の個人神話」へと議論を接続させることができる。もちろん、ラカンとレヴィ=ストロースのあいだには「象徴的なもの」をめぐる捉え方の違いがある。共通するところと、違うところに関してはいくつかの論文がある(デコンブの論文などはそのひとつ)。

レヴィ=ストロースの章では主にラカンとレヴィ=ストロースの「象徴」=「ランガージュ」に関して見ていくことにしよう。そうすればセミネール2巻の「普遍的」に関するラカンの言及(cf. 8/24の記事https://shanazawa4.wordpress.com/2024/08/24/2024-8-24/、またこれに対するDunandの解釈については9/9の記事https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/09/2024-9-9/)も使うことができる。

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