今日は札幌に行く。
昨日はフロイトのねずみ男症例を最後までよんで、またLucchelliの論文も最後まで読むだけ読んだ。Lucchelliのほうはだいたいこれまでにみた内容の反復であったが、少しだけ新しい要素もあった。ただ、彼が仮説として唱える、ラカンがレヴィ=ストロースの定式をねずみ男症例に適用したという主張は、それ自体は正当であるように思えるけれども、だからなんだ、という気がずっとしている。というのも、その仮説を立証する様々な証拠を集めてきたとしても、そこからLucchelliが、ラカンのテクストであったりレヴィ=ストロースのテクストを、それが何を含意しているのかについて論じようとしていないからである。レヴィ=ストロースの定式にしても、それ自体として解釈が困難なものであるのに、それについて説明してくれてはいない。今度著作を借りてみてみるが、著作の方ではもっと思想の核心にかかわるような解釈が展開されているのだろうか。
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Vincent Descombes_(2009, 1st. 1980)_L’Équivoque du symboliqueを読み始めた。これはミケル・ボルク・ヤコブセンが参照していたので目をつけておいたものである。ヤコブセンの紹介するところによれば、デコンブはレヴィ=ストロースとラカンのそれぞれの「象徴」概念について、レヴィ=ストロースのそれは複数的(レヴィ=ストロースにおいて象徴システムは複数存在する)のに対してラカンの「象徴」は単一的だ、と主張しているようである(cf、9月10日の記事:https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/10/2024-9-10/)。まだ2、3ページ読んだだけだが、僕が展開したい論旨にかなり近い。つまり、ラカンにおける「言語」が社会関係を結ぶという機能を持っているという点について、デコンブはEdmond Ortiguesの『Discours et symbole』を引きながら論じている。なお、オルティグのこの著作は宇波彰による翻訳が出ている。
フライトと電車の間、続きを読んでいた。おおきく「Symbole」と「Loi」の章にそれぞれ前半と後半で分かれており、前半はレヴィ=ストロースとモースの関係、モースに対するレヴィ=ストロースの批判を詳細に検討している。細かいフランス語はまだしっかりと意味を取れているわけではないが、おおよそ、モースの人類学がもつ魔術的側面すなわち非科学的側面をレヴィ=ストロースは批判して、数理的・実証科学的な「啓蒙」を行ったのだと論じられている。
「浮遊するシニフィアン」についても。それほど目新しいことを言っているわけではないが、浮遊するシニフィアンが存在するとはつまり、シニフィアンの体系とシニフィエの体系のあいだに差が常にあるということであり、また世界に謎が残されているということでもある。
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