9/19(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/19/2024-9-19/)の続きで、フロイト「ねずみ男」症例(強迫神経症の一症例に関する考察)を読む。(b)強迫神経症患者の二、三の精神特性について——現実、迷信および死に対する彼らの態度、の途中から。
ねずみ男には迷信的なところがあり、生活の中でよく偶然の一致や、予言・予見の成就の出来事を経験した。フロイトは分析の中で、患者自身がこの偶然の出来事の生産(あるいは認識)に能動的に関わっていたこと、そしてその背後に幼児期の以下のような出来事があったことを分析によって取り出した。
「幼少時彼が何かをしようとして、いざその時日を定める段になると彼の母親はこういうのが常であった。『ちょうどその日には私には何もできませんよ。その日には私は寝ていなけりゃ』と。そして事実、彼女はその予告された当日になるといつも決まって必ずベッドに寝ていたのである。」(フロイト著作集9、p269)
強迫神経症者に共通する迷信的な性格についてフロイトは次のように語っているのだが、やや難しい。
「この種の病症の場合には、健忘症によって抑圧が起こるのではなく、感情の撤去の結果起こる因果関係の解体によって生じるのである。記憶をよみがえらせるある種の力——私はこれを他の個所で、精神内の知覚に喩えておいた——は、その後もこの抑圧された諸関係にそのまま残存するように思われ、その結果それらの関係は、外界への投影によって外界に移動され、そこに精神の中に残存しているものを表現するのである。」(p. 269)
たしかに、以前にもヒステリーとの違いを強調するようにして、強迫神経症においては抑圧が、健忘によってではなくリビドーの撤収によって起こるといわれていた(忘れるわけではないが、それに無関心になる、重要と思わなくなる)。p. 220および243参照。そしてフロイトによれば、リビドーの撤収によって、対象となる観念においては「因果関係の解体」すら起こるのだという。なぜ関心の撤収が因果関係の解体を引き起こすのかはよくわからないが、ともかく因果関係が解体されることによって、全然偶然でも予言的でもないものを、あえて偶然や予言だと認識して驚く、ということが起こるのだろう(細かなロジックは未だよくわからない)。
さらにまた、後半の外界への投影の部分は、p. 220において患者の「両親は自分の考えを言葉で聞かなくても見抜いているだろう」という妄想を説明するときにもフロイトが語っていたことである。フロイトはその時には次のように言っていた。
「「私は、耳に聞くことなしに自分の考えをしゃべっている」ということは、彼は何も知ることなしにその考えを抱いてしまうというわれわれの仮説の外界への投影、すなわちそれは抑圧されたものの精神内部における内的な知覚のように思われる。」(p. 220)
これもわかりにくい説明なのだが、9/11(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/11/2024-9-11/)および9/16(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/16/2024-9-16/)の日誌において取り上げたことがある。その時に私は、患者が自らの父親に対する憎悪という、認めたくない観念が内的に知覚されてしまったときに、それを「知っている」のは自分ではなく、両親だ、という形で外界へ投影することによって、免責する仕組みが働いているのではないかと考察した。もしそう考えるとすれば、今回の偶然の一致を認識する性質についても同様のメカニズムが働いている。あらかじめ考えたことが偶然の一致によって成就するというのは、いわば自分の考えを外界の何かによって知られている、ということでもある。しかし、自分の考えを内的に知覚し、知っているのは本当は他でもなく自分自身なのであり、偶然の出来事が生じる(よう認識する)というのは、すでに知っているが抑圧されていたことを、あらためて自ら内的に認識する、ということの投影である。そこでは要するに、無意識の自分を意識の自分が認識するという関係が、自分の外部のものが自分の内部のものを認識する、という関係へと置き換えられている。それは、自分の中にもいわば内(無意識)と外(意識)の関係があることをも示唆していると言える。
フロイトが挙げる強迫神経症患者に共通するもう一つの性格は、「生活上の不確かさあるいは疑惑に対する要求」(p. 269)である。患者たちは生活の中ですすんで確実な情報源(時計など)を回避して不確かさを作り出し、自らを現実から引き離している(ゲーテが洗礼式そのものではなく、そこから疎外された「洗礼式のお菓子」の機能を持っているとするラカンの解釈とも関わりそうである)。そしてこうした態度が、9/20(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/20/2024-9-20/)にも述べたように、父権的な「投企」へ一歩踏み出せない、その手前で留まるということにも帰着している。それゆえ彼らは、この「不確かさ」を象徴するような問題群、寿命や死後の生命・記憶などの問題に固執する。
次にフロイトは、強迫神経症者における思考および願望の全能性について論じる。ここには、「幼児期に抱かれた幼児性の誇大妄想の断片が正直に表現されている」(p. 271)。たとえばフロイトが分析した別の患者は、自分が憎しみを抱いた人物が実際に卒中を起こして倒れてしまったことや、自分が好意を寄せて断られた婦人が窓から転落したことなどを経験して、「自分の愛と憎しみの全能を確信するに至った」(p. 271)。フロイトによれば、この患者の経験は「死」が中心になっているらしい(よくわからない)。
とはいえ、この患者の経験もまた、ねずみ男の偶然の一致と同じく解釈することが可能だろう。この患者は、自分の憎悪感情が、外界によって見抜かれて実現された、と認識しているわけである。しかしその実、彼は自らの抑圧された憎悪を内的に認識したその関係を、外界と自分という関係へと投影しているだけである。実際にはおそらくだが、「憎しみを抱いたから卒中を起こしたり転落したりした」のではなく、「卒中を起こしたり転落したことを認識することによって、抑圧されていた憎しみの認識を投影する都合のよい対象を見つけた(自分が認識したことにはしたくない)」というようなことであろう。
ねずみ男は「死」のテーマと特別な関係を持っている。「父の死」という考えが特にそうである。患者は父親を憎み、父の死を願望していたのだが、彼自身は自らのそのような憎しみを自己認識するわけにはいかず、抑圧しておくほかなかった。そしてこの考えは、父が実際に死んだ後も、すでに死んでいる父の死を恐れるという形で再発することになる(それは父親が死んだ1年半後に始まる)。これをフロイトは次のように解釈する。
「それは、一方では「父の死」という現実に逆らい、一方では以前からあらゆる空想中に求められてきたところの「父の死」の願望を充足するために父の死をこのような「あの世」という形で再び止場しなければならなくなったのである。」(p. 272)
あの世の父の死、という奇妙な観念は、患者の中に継続する「父の死」という願望と、それを認めたくないという観念(これも願望と言えるか?)とを両方とも満足させるために持ち出されたアイデアなのである。
「死」に関するここでのフロイトは考察はなかなか一貫性を見出すのが難しい。この節の最後にフロイトは、「彼ら〔強迫神経症者〕の思考は絶えず他人の寿命や死の可能性を追求している」(p. 272)と語って、強迫神経症者がなぜ他人の死について固執するのかを考えている。
なぜ強迫神経症者は他人の寿命や死を追求するのか。それは、彼らが決断へと乗り出せないからである。
「とりわけ彼らは、彼らによって未解決のままに放置された精神的葛藤を解決するために死の可能性を追求する。特に愛情の問題において決断不能であるというのが彼らの中心的な特徴である。」(p. 272)
さらに
「どんな生活上の精神的葛藤においても彼らは、自分たちにとって重要なしかも大抵は自分たちが愛慕している人、あるいはそれが両親の一方であろうと、競争相手であろうと、彼らがその間に挟まれて右にしようか左にしようか選択に惑うところの幾人かの愛人のうちの誰かであっても、とにかくその当の人物の死を待ちわびるのである。」(p. 273)
どうだろうか。葛藤し、どちらかを選ぶということをせず、しかし解決するために、強迫神経症者はむしろ登場人物たちの「死」を願望する。なんとなくわからないことはないが、いまいち腑に落ちない。ねずみ男はたしかに父親の死を願望していたけれど、葛藤する女性たちの死を望んでいただろうか。父親と重ね合わされる形で、現在の貧しい恋人の死というのは、それが鼠刑にされるかもしれないという不安という形式て、望まれていたと言えるかもしれない。だが、それがなんだというのか。
(c)本能生活および強迫と疑惑からの派生物
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