昨日はとにかく色々読むだけ読んで議論の把握に努めたので、今日はそれぞれ振り返りながら検討する。
まずはラカンの「神経症における<詩と真実>—神経症者の個人神話—」(1953)、後半のゲーテ『詩と真実』に関する部分。
ねずみ男はフロイトとの対話の中で、ゲーテの『詩と真実』中のフリーデリーケのエピソードを読んだ時に深く感動して、手淫がしたくなったと述べていた。ゲーテは舞踏を習っていた人の娘姉妹と仲良くなり、その妹に好感も持っていたのだが、実はその姉(ルツィンデ/ルチンデ)の方がゲーテのことを好きになっており、最終的に姉はゲーテに無理やり口づけしてそれを呪いだと言い放った。ゲーテはそれ以来「迷信的」(ゲーテ『詩と真実 第三部』、岩波文庫、p. 19)になり(強迫神経症の特性である)、苦しんでいたのだが、明朗なフリーデリーケとの出会いと恋愛を通して、その呪いから解き放たれ、思う存分彼女との口づけを楽しむことができるようになった(9章〜11章)。
ラカンはフリーデリーケのエピソードを振り返りながらそこに分析を加えていく。彼はたんに『詩と真実』を読んでいるだけでなく、いわゆるゲーテ研究をも参照しているようで、ゲーテとフリーデリーケの別れの理由に関してゲーテ研究者たちが血眼になって資料探しをしていることを皮肉っぽく語っている。ゲーテはフリーデリーケと出会ってから彼女のことを褒めちぎり続けるのだが、11章の後半になって突然、彼女を捨てることになる。僕が読んだ印象では、フリーデリーケへの愛が冷めたわけではなく、自分の野心と愛との葛藤を潜り抜けた末に野心をとった、という描き方に見えた。だが、意外とあっさり別れに至るので、詳細がわからないようになっているのも事実である。
ラカンは次に、フランクフルトのブルジョアの生まれであるゲーテがフリーデリーケのいる田舎の家に行く際に、わざとみすぼらしい格好を着て神学生に変装して行ったことの奇妙さを指摘している。行った先でフリーデリーケに出会い、恋心を抱くことで、自分の格好のみすぼらしさを後悔し、ある機会を狙って街へ帰って着替えてこようとするのだが、ゲーテはこの時にも思いつきから、通りがかりの村にある宿屋の息子の衣装を借りてその息子(みんなに知られている息子だった)に変装してから再びフリーデリーケを尋ねるということをしている。ある種の変装癖がある。
最初の変装をした時には、ゲーテは自分のことを人間世界に降りていくときの神々にたとえている(『詩と真実 第二部』、岩波文庫、p. 351-352)。ここはラカンが指摘して「青年に特有の自惚れ以上に、誇大妄想ともいうべきものの形跡がうかがえます」(ラカン「神経症における<詩と真実>—神経症者の個人神話—」、新井清訳、p. 70)と言っているところだが、個人的にはモリエールの「アンフィトリオン」を思い出す。ラカンはセミネール2巻の「ソジー」と題された回で、モリエールのこの物語を論じている。ジュピターが将軍アンフィトリオンに変身して、その妻と交わりにやってくる、従者マーキュリーはアンフィトリオンの従者であるソジーに変身して、家のまえで邪魔者を排除する役目を果たす。そこに本物のソジーがやってきて、「俺がソジーだ」「いや俺がソジーだ」という闘争を始める。いわばアンフィトリオンとソジーが二重化しており、ソジーは自らの映し身と闘争状態に入るというもので、ラカンがここでねずみ男に関して論じている「ナルシシズム的関係」とも関わってくる主題であるといえよう。
『詩と真実』に戻ると、ゲーテは二回目の変装をして再びフリーデリーケのいる家に戻る際、その口実として「洗礼のお菓子」(ケーキ)を持っていく。ラカンが着目するのはここである。
「洗礼のお菓子とは、洗礼式が象徴する父親的機能を考えてみると、明らかにそこには意味深い価値があるはずです。というのも、ゲーテの記憶においては、自分を父親の役割として書きとめたのではなく、洗礼の儀式には外的な関係しかない菓子を届ける役柄としているからです。 つまり、彼は脇役ではあっても、けっして主役として自分を設定していないのです。」(新井訳、p. 72)
ゲーテは、自分が父親的機能を果たすのではなく、その脇役である「(洗礼の)お菓子」の役割を果たしている。さらにラカンは、洗礼というのが、ルツィンデの口づけの呪いを清める儀式にも相当していると述べる。そこから、ゲーテのこの脇役に徹する行動を、呪いを解除したと思いながらも実際にはその儀式から逃げ回るという、鼠男にも見られた行動パターンに重ね合わせるということが見えてくる。これは「神経症者が神話的表現をとって自分自身の機能を二重化している、ということに対応するものです」(新井訳、p. 72)。
自分自身の機能を二重化する、とはどういうことだろうか。ねずみ男は「ナルシシズム的二重化」(p. 68)を果たしていたとされていた。だがまた、「愛の対象の二重化」(p. 67)も生じている。自己と対象があるとすると、自己が二重化し、対象も二重化している。こうして、ラカンがエディプス的三項関係を拡張して四項関係を作り出す手続きであると言えるか。ラカンはねずみ男のナルシシズム的関係について、こう言っていた。
「この人物像は、世界のうちでこのナルシシズム的関係を代表し、患者の生を委ねてしまう人物であり、彼自身にあらざる彼です。そこでは、彼は自分が締め出されていると感じ、自分自身の体験に外側にいると感じ、自分にこそ備わっているもの、自分自ら果たさねばならないことを引き受けることができず、自分自身の機能、自分自身の実存に対して、自分がそぐわず、疎外感を感じます。隠して、この再現のない二者交代の中で、袋小路が生じてしまうのです。」(p. 68)
自己が二重化することによって、自分はその主役の場を締め出されてしまうという。これは、ゲーテが「脇役」に自らを設定していることに対応していると言えるだろう。つまりラカンは、ルツィンデの呪いにかけられたゲーテを強迫神経症者として分析していると言える。ただ、愛の対象の二重化は、貧乏な女性と金持ちの女性という二項であるとわかるとしても、自己がナルシシズム的に二重化した二項は何と何であろうか。ねずみ男であれば、患者とその父親?
ゲーテは自らの呪いに苦しみながらも、その呪いを清め祓う洗礼からは疎外された状態にある。普通、フリーデリーケのエピソードというのは、ルツィンデの呪いから解き放たれる物語と解釈される。しかし、ラカンはそういう見方をとらない。あるいは言い換えれば、ゲーテの強迫神経症は治療されない。
「やがてゲーテは、フリーデリーケと熱い唇を重ねることになるのですが、しかし、それで呪いの束縛が解かれるということにはならないのです。ゲーテの表現によれば、『呪詛は唇から転じて私自身の心へ内攻した』のでした。〔中略〕ゲーテが彼女を捨てるについては、自分を拘束したくなかったのだとか、聖なる詩人の運命を守りたかったのだとか、結婚には両者の社会階層の差異が禍となったのだとか、もっともらしい理由が挙げられましょうが、全てそうしたことは、望む対象を前にして、それを避け、逃げるというもっと果てしなく奥深い成り行きの表面的な見かけに過ぎません」(p. 72)
ゲーテがフリーデリーケから身を引いたことを、ラカンはその強迫神経症的な症状として解釈している。つまり、自分が父性的な位置に立つのではなく、そこから疎外された行動をとり、父性的なものと自らとにナルシシズム的に二重化したことが、この別離として表現されているのだ、ということになる。
「死」がここにも絡んでくる。
「死の脅威が自分の身代わりへ差し向けられるように自分を二重化するという自分自身の疎外、あるいは反対に、この身代わりの人物を自分に引き受けてしまえば望む目的に達することができないという不可能」(p. 72)。
これはどういうことだろうか。強迫神経症において起こる自己の二重化は、「死の脅威」に対する身代わりを作ることなのか。その反対に「この身代わりの人物を自分に引き受けてしま」うとはどういうことなのか。
父親およびねずみ男においては、二つの問題があることを繰り返し見てきた。ラカンはそれを、父親の「象徴機能」と、父親の「享楽」と表現する。前者は友人に対する借金に関連し、後者は性的対象の選択に関係する。いずれも負債があり(後者においては、父親は「貧しい女性」を獲得することを断念したという去勢)、それが二重の負債になっているのであった。ねずみ男においては彼の父親は、完璧な父性的機能を果たすところからはほど遠い。
「象徴的なものが現実的なものを完全に覆いつくしていなくてはならない、ということです。いいかえれば、父親は「父の名」であるばかりでなく。父親の機能のうちに具現し、結晶してくる象徴機能を完璧に引受け、代表する現実的な父親でなくてはならないわけです。」(p. 73)
「象徴的なものが現実的なものを完全に覆いつく」すとは、直後にラカンが象徴的なものと現実的なものとの完全な一致が不可能であることを断っていることからも、父性的役割を完璧に果たすことであろう。
この次に再びナルシシズム的関係について語られるのだが、ラカンの記述の仕方を見ると、どうやらこの「ナルシシズム的関係」というのを考えることが、エディプス的三項関係から四項関係へと進めるきっかけになるということらしい。このナルシシズム的関係は、想像的関係であり、「自我」との関係であり、「鏡像段階」の時期に原型的に見られるものだという。ここで人間は自我を獲得すると同時に、疎外された存在形式をも獲得する。
ラカンはこの状態を、ハイデガーの用語を用いて「déréliction」と表現している。調べてみると、これは「被投性」の仏語訳であるらしく、しかもレヴィナスがハイデガーの「被投性」に言及した時に用いた訳語のようである。少なくとも1947年のレヴィナス『時間と他者』において、この語が用いられている。ラカンがレヴィナスをどう見ていたかというのは少し興味深い(内田樹の著書は『他者と死者: ラカンによるレヴィナス』である)。
鏡像段階的な自己の二重化において経験されるのが「死」であり、このことが強迫神経症にとって重大な意味を持つのだという。ここからまたよくわからなくなっていくのだが、神経症者においては「想像的な父親」と「象徴的な父親」が根本的に区別されるということが起こるらしい。
自己の二重化と、父親の二重化にはどんな関係があるのだろうか。四項関係になるのは、どちらがきっかけになるのだろう。ラカンは神経症者においては、①父親が二重化したり、②父親が早く亡くなって継父が取って代わったり、③実母に継母が取って代わったり、④「友愛的な人物が介入してきて、現実的にも象徴的にも、私のいうような死の関係を導き入れ」(p. 75)たりといった状況があるという。
そしてこの第四の状況というのが、ねずみ男のエディプス的三項関係に加わってきた「友人」という第四の項だとされている。父親に金を貸した、この寛大な「友人」が「死」として導入される。
ラカンはこれをヘーゲルの主人と奴隷の弁証法的関係において導入される「死の媒介」に結びつけている。ヘーゲルにおいては、主人と奴隷の関係を形成する原初の闘争状況において、二人の人間は戦うのであるが、だがいずれかが死んでしまってはいけないのであった(相手を奴隷にできないから)。したがって、「事実的な死が実現されないということが必要です」(p. 75)。そうではなく必要なのは、「想像された死」である。「この想像し想像される死こそが、エディプスのドラマの弁証法を通して、神経症者を作り上げるのです」。
途中まではかなり読めていたのだが、このナルシシズム的関係というところからよくわからなくなった。一旦これで最後まで目を通したということにする。
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Juan Pablo Lucchelli(2006), Le mythe individuel revisité,の検討の続き。Lucchelliは、ラカンがねずみ男症例をレヴィ=ストロースの「formule canonique」に適用して解釈した、という仮説を立てている(たまたま見つけたが、我々がすでに検討した松本卓也の2018年の論文「ラカンにおける構造と歴史—— シニフィアンの論理について」の注19において、松本はラカンとレヴィ=ストロースの討論を参照しながら同じようなことを言っている。だが、Lucchelliへの言及はない)。昨日は父親についてみたが、今日は息子について見る。息子の定式は次のようになる。
($:x):(A:$)::($:dame poste):($:femme riche)
($:x)は主体(ねずみ男)の借金を意味している($は斜線をひかれた主体、という意味か?)。そしてこの主体の借金は、A中尉によって前貸された(ことになっている)→(A:$)。そしてその関係は、右辺、つまり貧しい女性に重ね合わされた郵便局の受付嬢dame posteへ返さなければならない借金($:dame poste)を、(最後が厄介であるが)金持ちの女性に払うことになる($:femme riche)。
Lucchelliによれば、父親はかつて、裕福な女性(患者の母親)と結婚することを通じて、金を支払ってもらったse faire payer(おそらくその持参金という意味もある)→(FR : pére)。しかし患者の人生は父親の図式を反復しながらも変換されたものになっていて、貧しい女性に払うのでも、金持ち女性に金を支払ってもらうse faire payerのでもどちらでもないのだという。そのいずれでもなく、むしろ「金持ち女性に借金を払う」ということが、患者に起こっているのだとされる。
たしか新井訳では、「貧しい女性に返すということがテーマになっていることがわかります」(新井訳、p. 65)とあったわけだが、これだとLucchelliの言っていることと辻褄が合わない。原文を確認してみたところ、新井の訳文がおかしかったことがわかった。
松本卓也が2007年に公開したの方が原文に忠実である(cf. https://psychanalyse.hatenablog.com/entry/2007/09/01/000000)。そこで言われているのはこうである。
「借金を帳消しにするためには、友人ではなく、貧乏な女性に——想像上のシナリオにおいて金持ちの女性が置き換えられた人物に——借金を返すことが必要となるのです。」(松本訳)
患者の借金が帳消しされるには、貧しい女性に返済することが必要である。ここまでは良い。だが、ラカンはこの貧乏な女性が、患者の空想においてはその正反対の金持ちの女性に置き換えられている、とも言っているのである。確かに、実際に着払い代金を立て替えたのは郵便局の受付嬢なのであるから、彼女に返すべきである。しかし患者の空想においては、この女性が金持ちの女性に置き換えられているということだろうか(父親においてもまた、貧しい女性が金持ちに置き換えられていた、とラカンは解釈している、新井訳p. 65)。だがそれは具体的にどのようにして?
次に患者のフロイトに対する転移に移ると、患者は空想の中で、フロイトがその娘を患者に与えたがっていると考え始める。ここでは、フロイトの娘は「金持ちの女性」として扱われている。つまり「言い換えれば、彼はフロイトに借金を支払ってくれるように要求している」ということになる(Lucchelli, 2006, p. 158)。
そこでLucchelliがいうところによれば、金持ちの女性に関して、父親においては「支払ってもらうse faire payer」だったのが「(金持ち女性に)に借金を支払う」へ変換が起きており、また借金支払いの対象項において、貧しい女性から金持ち女性への変換が起きている。関係と項の両方において変換が起きている。
この論文では大体以上がLucchelliの読解なのだが、いまいちだから何が言いたいのかよくわからない。そもそも、この論文はねずみ男症例とそのラカンによる解釈を隅々まで解説するものではない、ということだろうか。Lucchelliからすれば、父親から患者への継承の間に、単なる反復ではない変換があり、その変換が何であるかを示ればよかったということだろうか。
一旦この論文はこれくらいで読んだことにしよう。Lucchelliの、2011年に新資料の発見を報告した論文「À propos de Lacan et Lévi-Strauss」は昨日ざっとみたので、次は2012年の「De Lévi-Strauss à Lacan et retour」を見る。これもそんなに長くはなく、途中まですでに読んだのだが、上述の二つの論文を結合した程度のもので、今のところ目新しい情報はない。こういう、先行研究の参照もほとんどなければ、分量としても1ページとかの論文を雑誌に載せられるというのはどういうことなんだろうか。いや、Lucchelliはレヴィ=ストロースと文通していただけあって、彼だけにアクセスできた情報も多いし、新資料などはなかなか興味深くもある。ただ、この論文の書き方で業績になるのなら楽なものだな、とは正直思った。
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