ねずみ男症例やラカンの「神経症者の個人神話」に関して、松本卓也さんのブログに関連情報がある。
・「ねずみ男」についてのインデックスhttps://psychanalyse.hatenablog.com/entry/20070619/p1
・神経症者の個人的神話——あるいは、神経症における詩と真実https://psychanalyse.hatenablog.com/entry/2007/09/01/000000#f-3f176d7e
いずれも2007年(!)の記事であるが、「神経症者の個人神話」に関しては、その私訳?が載せてある。注釈が少しあるのだが、そこに、ラカンがいうねずみ男の「二重の負債」のことが書いてある。二つの負債があって、後者は友人に対する借金(社会的負債)なのだが、前者、それも「父親の去勢」という言葉がよくわからなかった部分についてである。この、新井清訳では「父親の去勢」と訳されているところは、実際には「父親の裏切りfrustration、一種の去勢と言えるようなもの」であるらしい。そしてこの「frustration」に関して、松本氏は次のようにコメントしている。
「frustrationには「横領」の意味もあるが、ここではすぐあとの「社会的負債」すなわち軍隊で管理していたお金を「横領」してしまったことと対比されているため、むしろ貧しい女性を「裏切った」ということを指しているのであろう。いわば、「男性的負債」である。ねずみ男の症状はこの2つの負債(男性的負債と社会的負債)をひとつにするという不可能な試みのなかで展開されているため、立て替え払いの問題と金持ちの女性と貧乏な女性が重ね合わされる「譫妄Delirium」が現れるのである。」(à la lettre)
つまり、「もはや消えてしまった人物」(新井訳、p. 65)というのは、患者の父親がかつて言い寄ったが裏切った(選ばなかった)、貧しい女性のことになるか。松本氏はこれを「男性的負債」とよんで、二重の負債を男性的負債と社会的負債の二重として考えている。ただ、なぜ貧しい女性を裏切ったことが負債になるのか。去勢になるのか。負債という要素が患者において二重の舞台に置かれ、統合されずに競合を起こしている。松本氏は、この二つの舞台=二重負債を統合するために、「立て替え払いの問題と金持ちの女性と貧乏な女性が重ね合わされる」譫妄が生じると言っている。なお、貧しい女性として重ね合わされているのは、患者の現在の恋人であり、郵便局の受付嬢であり、郵便局のある町にある旅館の娘である。
「立て替え払いの問題」と「金持ちの女性と貧乏な女性」とは、つまりは父親の神話における二大要素である、負債とロマンスである。それが、それぞれ友人への負債と、貧乏な娘への(男性的)負債という二重の負債に割り当てられているのだろうか。
昨日僕が読解した時には、患者において統合が目指されているのは、父親の「神話」と患者の「空想」であり、父親の負債と患者自らの負債であると考えていた。つまり二重の負債とは、父親の負債と患者自身の負債である。だが確かに、ラカンの記述を見る限り、二重の負債とは父親に存在する二つの負債である。とすると、「二つの舞台を一つに統合する」というのも、この二つの舞台とはなんなのかをもう一度考えなくてはならなくなりそうである。
そして、患者がフロイトに転移を引き起こした時に見た夢、「大便の眼鏡」の夢は、松本氏によれば、この二重の負債(男性的負債と社会的負債)を重ね合わせたものを表現しているのだという。この夢に出てくるフロイトの娘(仮)は、大便が金銭を意味していることからも、金持ちの女性、の象徴である。つまり自分の現在の貧しい恋人と対比されるところの、裕福な家柄の女性の位置に置かれているはずである。だが、なぜこういった表象において二重負債が統合されているということになるのだろうか?男性的負債は、対象選択を金持ちの女性にする、ということによって返済されるのか?あるいはそこに「大便=金」を付けるということによって、社会的にも借金を返したことを意味するのだろうか?だとすれば貧しい女性に大便の眼鏡が付加されていればわかるのだが、そもそも金持ちの女性に大便が付加されていてもよくわからない。
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