昨晩、Youtubeで配信された福尾匠さんの『非美学』超解説を観た。自分のいまの態度を見直すことになった。福尾さんの本はたんにドゥルーズを研究したというだけでなく、本人も強調するように非常に論争的な性格を持っている。それは典型的なドゥルージアンに対するアンチでもあるし、あるいはまた日本独自の否定神学的伝統(東浩紀、平倉圭、千葉雅也)に対するアンチ(こちらはよりリスペクトも含んだ)でもある。しかも、ドゥルーズ自身(カント論)に対する批判すら含んでいる。自分の立場を明確に打ち出している。
自分にはそういう態度で研究ができているだろうか、と考える。いま僕がやっているのは、ラカンが何を考え何を言っているのかを明らかにすること。言葉を話すというのがどういうことなのかについての諸見解を総覧すること。だが、それまでといえばそれまでである。従来のラカン研究に対する自分の明確な位置ははっきりしないし、自分の研究を通してどういう立場を打ち出したいのかというのもはっきりしない。もちろん、怒りや不満がないわけではない。日本の既存のラカン研究には不満しかない。ラカンの記述の一つ一つについて、要するにそれはどういうことなのか、ラカン的タームを用いずに説明できていないじゃないか、と思っている。むしろ、「要するにどういうことなのか」を説明できないのにラカン研究ができるとはどういうことなのか、僕にはよくわからない。
また、ラカン研究がドゥルーズ研究やデリダ研究と比べて、社会的な発信力をほとんど持っていないことにも不満がある。それは、ラカンについて個々人がユニークな読みを持つというレベルにまで、日本のラカン研究が到達していないということを意味する。明確にフロイトやラカンに言及して、それを社会や生活の中の知にまで還元していると言えるのは千葉さんくらいだろう。でも、ラカンの知恵はもっとたくさんある。ラカンを読むことの難しさ、陥る罠、それは考えるべきだと思う。でもラカンの語りがなぜそういうものになっているのか。ラカンの語りがパフォーマティブにどういうものであるのか。東浩紀はデリダの言説のコンスタティヴとパフォーマティヴについて提起して、福尾さんもそれを考えている。ラカンに関する日本の言説はその意味で、全くパフォーマティヴでない。つまらない。ラカン研究のつまらなさとラカンの面白さ、そのこと自体について考えたいと思うが、どれほど低レベルなところから始めなければならないのか、と途方に暮れる。
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フロイト「ねずみ男」症例(強迫神経症の一症例に関する考察)を読む、の続き。
(g)父親コンプレックスおよび鼠観念の解決
患者はすでに死んだ父親と自分を同一視し、その意志を継承するか、あるいは自分の恋人を選ぶかという二者択一の相剋に悩まされていたのだが、フロイトはこの相剋が患者の幼児期にすでに起こっていたに違いないと考える。
患者の父親は下士官で軍人気質の人であったが、とはいえ極度に父権的であったということもなく、患者と時には親友のような付き合いをすることもあった。だがフロイトの考えによれば、この父親は、幼児期の患者の性生活にとって決定的な邪魔者になっていたのである。具体的にいえば、患者は自らの幼児期手淫について父親から厳しく折檻されたに違いない、とされる。そして「その反面に父に対する消えがたい怨みを遺し、成人してまでも父は自分の性的快楽の妨害者だという感じが根強く出来上がってしまったのである」(フロイト著作集9、p. 250)。
患者の思春期の手淫は風変わりなものに動機づけられていた。例えばその一つは、ゲーテの『詩と真実』を読んで、若きゲーテが元恋人の呪いの束縛を打ち破って今の恋人に接吻したシーンに感動し、そこから手淫をしたくなったという。これは、「禁止とその禁止から逃れようとする努力」(p. 250)によって刺激されたと考えられる。なお、ラカンは1953年の「神経症における<詩と真実>——神経症者の個人神話——」において、タイトルにもあるが、ねずみ男症例とゲーテの『詩と真実』の両方を扱っている。また、フロイトは1917年に「『詩と真実』中の幼年時代の一記憶」(フロイト著作集3)という論文を書いている。これらについてはねずみ男症例の次に読解しよう。
幼少期の患者の父親に対する憎しみについては、次のようなエピソードもある。これはフロイトが患者の母親に問い合わせたところ、患者が乳母か誰かに噛み付いたためであることが判明したという。
「彼がまだごく幼かった頃、何か悪いことをして父からなぐられた。この子供は非常に怒って、ぶたれながらも父親をののしった。しかしまだののしりの言葉を知らない年齢だったので、思いつくままにありったけの物の名前を父に浴せかけた、『お前なんかランプだ、ハンカチだ、お皿だ』などと。」(p. 251)
この、言葉を物のように扱う「罵り」については、ラカンが言及しているところでもある。
「いつものことですが、我々はフロイトのなかに、もっとも範例的な事例を見出します。「鼠男」の症例の、彼が怒り狂ってかんしゃくをおこしたというエピソードのことを思い出してください。彼は、私の記憶が正しければ四歳のとき、自分の父親にかんしゃくをおこしました。彼は、父のことを『お前なんかナプキンだ、お前なんかお皿だ』などと言いながら、床を転げまわり始めました。これは、<他者>の本質的な「<お前=汝>Toi」と、対象、とりわけ、無生物の対象、交換の対象、等価性の対象と呼ばれるような人間世界へとシニフィアンを引き込むということが惹起する失墜の効果との、真の衝突と共謀です。子供の怒りのなかで動員された、果てしない実詞の連続は、この点をかなりはっきりと示しています。重要なのは、父がランプや皿やナプキンであるかどうかなのではなく、<他者>を対象の列にまで下ろしてそれを破壊する、ということです。」(S5下巻p. 330)
確かセミネール1〜3巻にもこのエピソードについて言及している箇所があった気がする。いずれにせよ、「お前なんかナプキンだ、お前なんかお皿だ」と言っている時には、他者をその他の様々な要素と交換可能な、言語体系の中の一要素として取り扱っていることになる、とラカンは解釈している。また、ゲーテの『詩と真実』の中にも比較してみたい一節がある。
「いつもは生真面目でもの静かなこの兄弟は、私をけしかけてはさまざまないたずらをさせたが、うちの者たちはそれを面白がってよく話題にしたものであった。ここではそのうちの一つだけを述べておくことにしよう。ちょうど陶器の市が開かれていて、うちの者は台所の当座の用にあれこれと買い整えただけでなく、子供たちにもままごと遊びに小型のものをいくつか買ってくれた。ある晴れた日の午後、うちじゅうがひっそりしていたとき、私は買ってもらった皿や壺を相手に格子の間で一人で遊んでいた。やがてそれにも飽いて、皿を一枚街路に投げつけ、それが陽気な音をたてて砕けるのを見て喜軽んだ。フォン・オクセンシュタインの兄弟は、私が大喜びをして小さな手をたたくのを見て、「もっとやれえ」と叫んだ。すぐさま私は壺を一つ投げつけた。兄弟たちがひっきりなしに「もっとやれえ」と叫ぶので、私はつぎからつぎへと皿や鍋や水差しを一つ残らず舗石にたたきつけた。向いの兄弟たちが依然として袋をやめなかったので、彼らを喜ばせるのがうれしくてならなかった。私の蓄えはつきたが、彼らは相変らず「もっとやれえ」と叫んでいた。そこで私はすぐさま台所に駆けこんで陶器の皿を何枚かもちだしてきた。それらが砕けるのはいちだんと楽しい見物であったことはいうまでもない。私は行きつ戻りつして、食器棚にならべてある皿を手のとどくかぎりあとからあとから順にはこんできた。それでも兄弟たちはもうやめろとはいわないので、ひきずってこられるかぎりの食器を残らず同じようにして壊してしまった。誰かがやってきて私をとめたのは、だいぶあとのことだった。不幸はもう起ったあとであった。非常に多くの陶器が壊されたせめてもの償いとして、ひとつの楽しい話がえられた。とくにあのいたずらの張本人たちは死ぬまでその話をしては面白がった。」(ゲーテ『詩と真実 第一部』、岩波文庫、p. 19-20)
フロイトは「『詩と真実』中の幼年時代の一記憶」の中で、この瀬戸物壊しについて、「子供が(ゲーテも私の患者も)、邪魔な闖入者ととりのぞこうという願望を力強く表現したところのある象徴的な、より性格にいうならば、呪術的な行為であるという意見を作り上げていいように思う」と述べている(フロイト著作集3、p. 322)。
次に、「鼠」という観念についてのフロイトの結論を見よう。そもそも「鼠刑」というのは、訓練場にて患者が大尉から聞いた話であり、その大尉はまた、患者に対してA中尉に金を返すように催促したのであった(この時、大尉は勘違いをしていて金を立て替えたのが郵便局の受付嬢であったことを患者は知っていたのだが、そのことを自ら抑圧して忘却していた)。そして、この話が患者の「コンプレックス敏感面」を刺激したことで強迫的な症状を発生させたとされる。
実は、患者の父親はかつて借金をしていたのである。
「ある時父は、下士官として預っていた少額の金をトランプで失ったことがあった(このように彼の父は賭博狂であった)。おそらく、同僚が立替えてやらなかったら、彼はどうにもならなくなったであろう。彼が軍隊を出て、安定した生活に入ったのち、その時恩を受けた同僚を探し出して金を返そうとしたが、とうとう見つからなかった。われわれの患者は、その借金がけっきょく返済されたのかどうかをはっきり知らなかった。」(フロイト著作集9、p. 254)
患者は愛する父親のこのような失態を思い出すことに苦しんだし、またこのような父の性格に対して怨みをも持っていた。A中尉に金を返せという大尉の催促は、「自分の父のあの償われることのなかった罪を当てこすっているように聞こえた」のである。
ここから再び二者択一の話に戻るのだが、いまいち厳密な整理ができていない。
まずフロイトが提示するのは、郵便局の受付嬢と、もう一人、郵便局のある街にある旅館の美しい娘、という二者択一である。そして、
「このようにして、父の結婚ロマンスと同じように、兵役除隊後自分も二人の女性のどちらに愛を向けたらよいかと迷うことになった。それゆえ、彼がヴィーンへ行こうか、それともあの郵便局のある町へ戻ろうかという異常に定まりのつかない不決断さを示し、旅行の途中でも再三再四引き返そうという気持が起こって、絶え間ない異常な努力が必要だった事情も、今の話を聞いてみれば、われわれが最初におもったほど馬鹿馬鹿しいことではなかったことが一度にはっきりしてくる。」(p. 255)
と言われる。「郵便局の受付嬢」と「旅館の美しい娘」という二者択一。そして「ヴィーンに行く」と「郵便局のある街へ戻る」という二者択一がある。ただこの時点で、「郵便局の受付嬢」も「旅館の美しい娘」もどちらも「郵便局のある街」にいるのだから、この二つの二者択一を平行に考えることはできないのではないか、とも思う。
さらに、フロイトによればA中尉は「彼女〔郵便局の受付嬢〕の都合の良い代用物」であり、これに対立させられるのはB将校である。
「彼はB将校をも自分の組合せの中へ引きずり込み、この二人の将校のことで混乱しながら、自分に好意を向けている二人の娘の板挟みに合ったあれかこれかの動揺を繰り返して再現することができたのである。」(p. 255)
「A中尉」と「B将校」という二者択一が、「郵便局の受付嬢」と「旅館の美しい娘」という二者択一の「再現」になっていると言われているのだが、A中尉が受付嬢の代理であることは良いとしても、B将校が旅館の娘に対応する論理がよくわからない。
一応、まとめてみる。
| 父が生きる | 感覚的な欲望(性感)=父の死 |
| 父親 | 今の恋人 |
| 金持ちの少女 | 今の(貧しい)恋人 |
| 郵便局のある街 | ヴィーン(恋人はヴィーンにいる?) |
| 郵便局の受付嬢 | 旅館の美しい娘(?) |
| A中尉 | B将校? |
左右の関係が逆のものがあるかもしれない。
一旦次に進もう。
「鼠」という観念は、鼠刑、肛門性感、大便、お金といった象徴的な意味の連鎖を通じて様々なものを意味するようになる。さらに「肛門性感」に関していえば、患者は幼児期に長年にわたって「蛔虫」に罹っており、しかしその刺激によって興奮を得ていたとされる。こうして、鼠刑によって鼠が肛門の中に入るというのは、患者の肛門の中で蛔虫が暴れ回ったことと同じように捉えられ、鼠はペニスを意味するようになる。
鼠は大便を通じてお金を意味するようになったが、また「鼠Ratten」と「分割払いRaten」という音連合を通じても、金銭観念と結びつくことになった。患者はフロイトが1時間あたりの診療費を説明した時、「そんなのたくさんのグルデン貨幣、そんなにたくさんの鼠」と答えたという(p. 256)。
また、鼠は危険な伝染病の媒介者でもある。そしてそれが「梅毒」の媒介者であると考えるとき、この経路からも鼠は「ペニス」の意味を帯びるようになる。フロイトはここで述べてはいないが、「お金」もまた、人々の手を伝って伝染病を媒介するものになりうると言えるだろう。フロイトは前のところで、ある別の強迫神経症患者の話をしていた。その患者は紙幣にばい菌がついているかもしれないという心配を強く持っていた。それなのに、他方で若い娘の性器を手淫することになると、フロイトがその伝染性を指摘しても、怒って反論するのであった。その患者はそれ以来フロイトのもとに来なくなってしまったのだが、フロイトは、患者の中にもともと存在する呵責感情(少女に対する悪徳への)が、紙幣に対する心配へと「移動」されたのだと分析している。
また、「鼠」観念は患者にとって、イプセンの『小さなアイオルフ』の「鼠娘」の逸話を通じて「子どもたち」という観念にも結びついていた(ハーメルンの鼠捕りが、はじめ鼠を水中に誘い込み、次にそれと同じやり方で、街の子供達を惑わして家に帰れぬようにする)。実は、患者が長年想いを寄せながら結婚できていなかった恋人は、婦人科手術で卵巣を摘出され、不妊症と診断されていたのである。
これはどう解釈できるか。鼠刑においては肛門にネズミをいれる。「肛門に入る」というのは、逆転させれば「肛門から出る」ことであり、またフロイトの幼児期性理論によれば子供は肛門から生まれる(故に男も女も子供を産む、と最初は信じられる)のであるから、鼠刑は出産を意味することになる。鼠が入るというのは、鼠が出る、つまり子供たちが生まれるということである。患者が抱いた、自分の父や恋人に鼠刑が降りかかるかもしれないという不安は、父や恋人が出産するかもしれない、という意味なのだろうか。そして、しかし実際には恋人は不妊症と診断されている。あるいは、肛門に鼠=ペニスが入るというのは、患者にとって感覚的な欲望(この場合は肛門性感)を取るということでもあるのか。このことは患者にとって何を意味するのか。二者択一で言えばどうなるのか。
フロイトによれば、患者に鼠刑のことを話した残忍な大尉は、患者にとってその父親の役割を帯びていた。そして患者は父親に対する憤激の一部を、大尉に向かって再現し置き直すことになった。患者は大尉からこの話を聞いた瞬間に、この刑罰が自分の父や恋人にも降りかかるのではないかという考えを抱くことになった。これについてフロイトは次のようにいう。
「すなわちその話の語り手である大尉、換言すればその背後にある自分の父に向かって、『今にお前もそういう罰を受ければいいんだ』という願望興奮を向けたが、それが反動的な形で、『そういうことが起こらないか』という心配の形に置き換えられたのである。」(p. 259)
患者が父親に対して性的欲望の妨害者として憎悪を向けていたことはわかる。だが第一に、なぜ大尉は父親の役割を担うことになったのだろうか?そして第二に、その憎悪の向け方が「お前も鼠刑を受ければいい」という形式だったのはなぜか?鼠刑を受けるというのは、苦痛なことであると同時に「肛門性感」をも意味している。
患者は大尉に対して非常な攻撃性を感じながらも、様々な歪曲を経て最終的に次のように考えるに至った。
「『そうだ、もし自分の父と自分の恋人が、子どもを生む時に、自分はA中尉に金を返そう』あるいは『本当に自分の父と恋人が子どもを生むことができるならば、きっと、自分はA中尉に金を返すだろう』ということである。」(p. 259)
自分の父と恋人に鼠刑が降りかかることは、やはりこの両者が「子供を産む」ということへと転換されていると考えられる。だが、その時にA中尉に金を返そう、とはどういうことか。金を返すというのは、父の為し得なかったことを自分が代理的に実行するということであるが、それは何を意味しているのだろうか。性的欲望の抑圧か?また、「本当に自分の父と恋人が子どもを生むことができるならば」とは、その反面恋人は不妊症であることと関係するだろうか。このような条件があるのであれば、実際に恋人は子供を産むことができないのだから、金を返すということも不可能なことになる。実際に、患者は金を返さなければと強迫的に思いながらも、色々な言い訳をしながらそれを回避し先延ばしにするような行動に出ていたことはすでに確認した通りである。
さらに、愛する父と恋人が鼠刑に処されてしまうのではないかという観念は、患者にとってこれらの人物を辱めることに等しい。フロイトは、その罰として、A中尉に金を返すという「実現不可能な誓い」に拘束されることになった(自己拘束した)と解する。というのは、実際に金を立て替えたのはA中尉ではなかったからだ(患者はそのことを知っていながら、なおA中尉にこだわった)。大尉は父であり、父の言葉は絶対であるから、返金先はA中尉であると信じるしかないことになる。
大尉の命令に対する反抗心と、次いで表れた服従心は、ヒステリーと異なる強迫神経症に特有の葛藤表現(妥協形成ではなく、継起的表現)であることに対応していると言えるだろう(恋人の馬車にとって危険な石を、街路から退けたのちに、また元の場所に置いた)。大尉に返金命令を下された時、まず患者の頭には「金を返すな、さもなけらばあのことが起こるぞ〔父や恋人に鼠刑が降りかかる〕」という「禁止命令」が起こった(p. 223)。そして次いで、「この禁止命令を打ち消すように」、「おまえは、A中尉に3.80クローネを返さなければならぬ」という誓いのような命令が生まれてきたわけである。反抗と、それに継いだ服従。(大尉に対する憎悪の反応は、鼠刑の話をされた時と、返金命令を下された時の二回起こっている)
鼠刑の妄想が父と恋人の両方に向けられたことについては、まず先に述べたように幼児期妄想において出産が肛門からなされること(ゆえに男女ともに可能であること)、そして、単に父に対する憎悪だけでなく、患者は自分に冷たい恋人に対しても非難を向けていたからである。父か恋人かという二者択一に対して、両方に非難を向けるというのは患者にとって何を意味するのだろうか?
フロイトによれば、父をとるか恋人をとるかという二者択一は、「正常な思考に基づいて、恋人側の勝利に終わった」(p. 261)。そして分析は成功し、鼠譫妄は解消した。
ここまでが第一部の病歴の報告である。まだよくわからない要素や整理しきれていない問題がいくつかある。思いつくままにあげると、まず「自分の考えが良心に見抜かれているのではないか」という譫妄はなんだったのか。多層に重ねられた二者択一のうち、旅館の美しい娘やB将校の関連性がわかりにくい。金を立て替えたのがA中尉でなくB中尉だと伝えられて患者が考え出した奇妙な解決策、つまりAとBの両方と郵便局に行って、金を手渡しにリレーするという案はなんだったのか。そして、「鼠刑」が持つ多様な意味もまたうまく整理できていない。
第二部 理論的研究
(a)さまざまの強迫的形成物の二、三の一般的特徴について
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