そういえば一昨日の夜か、あるいは昨日の昼寝をしている時、夢を見た。夢の中で僕は怒り狂っていて、いろんな人を殴ったりして危害を加えていた。しかし最後には、そうやって暴力を振るっても何の解決にもならず、むしろ暴力による解決には限界があるのであって、またそのような前科を積み重ねることによって自分自身の将来も閉ざされるという、そういう絶望もあることを知ることになった。本当に問題を解決したいのであれば、それは社会のルールの中で、ルールに則って行わなければならないことを最後になって知り、しかしもう振るってしまった暴力、加えてしまった危害、失った信用の取り返しの付かなさに絶望する、というものだった。目が覚めてそれが夢だと分かった時には安心した。
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一日寝て休んだらかなり喉の痛みは小さくなったが、まだ残っているのでこれを大きくしないように注意しながら、生姜湯も飲みながら、少しずつ活動を再開していく。
フロイト「ねずみ男」症例(強迫神経症の一症例に関する考察)を読む、の続き。
(d)治療の理解への導入
第四回目の分析。フロイトは患者に自由連想を続けさせる。そこで患者は、父に関する罪悪感について話し始めた。彼は父が肺気腫で死ぬとき、その瞬間に立ち会うことができず、激しい呵責の念に苦しめられることになる。
フロイトはこの罪意識をもっともなものであると認める。もちろん、患者が抱いたような罪責意識はオーバーなもので、現実的に考えればそのような呵責の念を抱く必要はない。だが、これは未知の無意識内容を発見することによって正当な感情であることが明らかになるだろう、とフロイトは考える。
患者の抱く激しい感情は、フロイトの推測によれば、患者の6歳以前の出来事、今はまだ掘り起こされていない無意識内容に由来するものである。だが、その内容が掘り起こされていない時には、その感情の裏付けになる内容として別の観念内容が代用として採用されるのである。
「たとえば皆察がどうしても本当の殺人犯人を捕えられない時、代りに無実の者を逮捕するのに似ている。このように間違った観念内容がこじつけ的な連関によってでっち上げられるという事実こそ、現に患者を苦しめている強迫観念に対して、論理的操作が全く無力であるという事情をよく説明している。」(フロイト著作集9、p. 228)
強迫観念に対して論理が通じない(例えば、患者の感情はその裏付けとされている内容に比して大きすぎる、そこに論理的正当性がない、など)というのは、無意識の内容(=本当の殺人犯人)が未だ発見されていないからである。それが発見されれば、論理は通ることになる。
第五回目の分析。フロイトの説明に納得しない患者に対し、フロイトは無意識の内容について、分析室に置いてある骨董品を指し示しながら説明する。
「あれはもともと墓からの発掘品です。埋もれていたおかげで保存されたのですね。むしろポンペイの滅亡は発掘された時から始まっていくのです。」(p. 228-9)
時間=歴史に関するフロイトの考え方(「事後性」も含めて)をよく表している表現である。無意識の内容は、古層に保存された考古学資料のようなものである。ポンペイの遺物が発掘される前には、ポンペイの滅亡という出来事は歴史に存在しなかった。それが発掘されることによって、ポンペイの滅亡は歴史化されたのである。それは、「ポンペイの滅亡は発掘された時から始まっていく」という驚くべき表現を可能にする。
そこからフロイトと患者の議論は人格の分裂と倫理性へと移っていく。患者は、このような呵責の念は「独自な人格的な道徳律」に背くことによって起こる、そしてそれは「人格の分裂」が起こった時にしかあり得ない、と話した。フロイトはこれに賛同して、倫理的な人格と悪い(=非倫理的な)人格との間の対立=分裂を、意識と無意識の対立として考えようとする。つまり、患者は幼児期に何か悪いことをし、そこで倫理的な人格と悪い人格が分裂し、悪い人格は無意識として古層に保存され、倫理的な人格が意識に上がってきている、ということである。
第六回目の分析。患者は幼児期の出来事について話し始めた。まず、前にも述べられていた通り、患者は7歳の頃から「自分の考えを両親が見抜いているのではないか、という不安」(p. 230)を抱くようになり、これに苦しめられた。(ただ、この不安がこの後の患者の話とどう結びつくのか不明)。
患者は12歳の時に友人の妹の少女を愛したが、その少女は自分に振り向いてくれなかった。そこで、「何か自分が不幸に見舞われたら、彼女は自分の思い通りに自分を愛してくれるのではないかと思った。例えば、父の死という考えが頭に浮かんだ」(p. 230)。つまり、愛する人を振り向かせるために、患者は仮想的に父を死に至らしめたのである。ここにも、父に対する患者の罪責感がはたらくもとがある。あるいは似た出来事して、リーナ嬢に恋していた時も、彼は物質的な理由で結婚を考えることができなかったことから、「父が死ねば、彼女と結婚できるくらいの財産が手に入るかもしれない」(p. 231)と考えたことがあった。フロイトは注にて、「二人の愛する人々の対立、つまり父と恋人との間の対立」を指摘している(p. 232)。
患者はあたかも「父の死」を望んでいるような観念に何度も襲われながら、同時にそれを打ち消そうとする観念や、父に対する激しい愛情をも訴えた。しかしフロイトによれば、「そんなに激しい愛情こそ、抑圧された憎しみの条件」(p. 231)である。患者は父に対して、激しい愛情と激しい憎悪を持っており、この二つの対立する感情は関係している。先ほどの倫理的な意識と悪い無意識という対立に当てはめるなら、父親への愛情は意識的なもので、父親への憎悪は無意識的なものということになる。そして、この憎悪は未知の無意識内容に由来している。
フロイトの考えでは、このような憎悪が生じ始めたのは、「両親が自分の考えを見抜いていはしないかと恐れ始めた時期」(p. 232)と重なる。思考を見抜かれているというこの妄想は、内的衝動の知覚の外部への投影である、という分析が以前になされていたが、このことが父親への憎悪とどう関わっているのだろうか?よくわからない。
父親と恋人との関係についてフロイトは患者との対話を重ねる中で次のような答えを見出す。
「彼の父に対する敵意が衰えることなく繰り返して湧きおこってくるその源泉は、明らかに感覚的な欲望の性質をもっていて、この点で彼は、父を何らかの妨害者と見なしていたのである。このような感覚性と幼児性の恋愛との葛藤は非常に定型的なものの一つである。彼の場合に時々その休止期が介在したのは、彼の感覚性が非常に幼い時期から爆発した結果、反動的にそのすぐ後に、感覚性に対する強い抑圧が起こる仕組になっていたためである。成人して再び幼児期に匹敵するしい恋愛願望が湧き起こった時初めて、この幼児期に類似した状況からこの敵意が再発したのである。」(p. 233)
恋する人への愛と、父親への憎悪(=「父の死」の願望)はセットである。それは、父親というものが幼児期の「感覚的な欲望」に対する妨害者だったからである。これは最初の方に分析されていた、患者の「瞠視願望」と恐怖心との相剋に対応していると考えられる。フロイトはこの相剋を「私が、女の裸体を見たいと思うならば、私の父は死ななければならない」(p. 219)と表現していた。したがって、患者の女性に対する恋愛感情は、幼児期の「感覚的な欲望」すなわち女性の裸体を見たいという「瞠視願望」と結びついている。
「両親が自分の考えを見抜いていはしないか」という恐れについてこのことからわかることがあるかもしれない。これはかつてフロイトによって、「抑圧されたものの精神内部における内的な知覚」の外界への投影であると説明されていた(p. 220)。そして、抑圧されたものとは父親への憎悪であり、父親への憎悪は女の裸体を見たいという瞠視願望と表裏一体である。そもそも、6歳の頃に抱いた「両親が自分の考えを見抜いていはしないか」という考えは、この頃に勃起を経験した(p. 218)ことから浮かんできたものであったため、これは性的欲求としての瞠視願望に結びついていると考えて良いだろう。まとめると、患者は無意識に抑圧された瞠視願望とそれに伴う父への憎悪が意識化され、自分がそのような考えを抱いているということを「知って」しまった際に、その自らの非倫理性に耐えることができず、それを「知って」いるのは自分ではなく外界に存在する自分の両親である、というように投影したのではないか。(ただ、それを「知る」主体を自分から両親へと移し替えたところで、いかにして自分はその罪責感情を免除されるのだろうか。もしその罪意識から免れたいのであれば、そのような考えを抱く主体そのものを移し替えたほうがいいのではないか。つまり、そのような考えは自分が抱いているのではなく、外部から吹き込まれてきたものなのだ、と考えるなど)。
第七回目の分析。患者はズーデルマンの短編小説のことを思い出し、それに共感を示す。その内容とは、ある婦人の病床に付き添ったその妹が、姉の夫と結婚したいために姉(=婦人)の死を願っていることを心中に感じ、結局その罪意識から自殺してしまう、というものである。患者もまた、父の死を願いながら、そのような考えを抱く自分についての罪意識を感じている。そのマッチポンプ。
患者はまた、過去の非倫理的な行動についても話す。例えば、8歳以前の頃弟と遊んでいて、おもちゃの鉄砲の筒の中を弟に覗かせながら、引き金を引いて弟の額を打ってしまうということがあった。患者は確かに自分が初めから弟を傷つけるつもりでそのような行動に出たにもかかわらず、そのようなことをしてしまった自分を責めた。また、彼が恋した女性(リーナ嬢?)に対して、彼女が振り向いてくれない時に、「自分が大金持ちになって、他の女と結婚し、その妻を連れてその恋人を訪れ、大いに彼女の心に痛手を与えてやろう」と考えたり、挙句に果てには「あの女(恋人)が死んでしまえばいいんだ」(p. 235)と考えるようになった。もちろんこの時も患者は、そのような卑劣な感情を抱いた自分を恐れた。これに対してフロイトは、このような卑劣な衝動は幼児期生活に由来するものであり、「幼児に対して倫理的な責任を負わすことができない」(p. 236)と患者を説得した。
フロイトの分析の仕方というのは、妙な誘導性を持っている。フロイトは基本的に、ある特定の内容について話すように強制することはない。「鼠刑」という興味深い話題についてもフロイトは敢えて自分から深掘りすることはしない。フロイト自身が断っているように、分析家は自らの好奇心にしたがってはならず、常に患者の連想のままに話させなければならない。だが他方で、フロイトは患者の罪責感が無意識の幼児期経験に由来するものであることや、それを隠蔽するための語り方や仕草について、つまり自らの分析理論については患者に話して聞かせる。フロイトは、分析理論の前提については患者に認めさせながら、個別の話題については患者の語りに任せている。つまり、例えば「無意識など存在しない」という大きすぎる前提転覆は、分析において認められないのである。とはいえ、その分析理論はほかでもなく分析経験や患者の語った内容から構築されたものである。理論を前提として実践、実践を前提とした理論、という循環がある。
話を戻すと、患者は実際の父の死の後に病気が急激に進行した、とか語る。フロイトによれば、「喪の悲しみが病気の中に、いわば病理学的に表現されたのである。普通の喪の悲哀が一、二年で言えるのに対し、彼の場合のような病的な悲哀は際限なく続くのである」(p. 236)。この主題は1917年の「喪とメランコリー」でも敷衍されるだろう。
(e)若干の強迫観念とその分析的な説明
強迫観念は一見すると非論理的で荒唐無稽に見える。しかしフロイトによれば、そのような強迫観念であっても、患者の精神生活を明らかにすることで(つまり無意識の隠された要素を明らかにすることで)、了解可能なものになる。視野が限定的だからこそ了解できない、視野が広がれば了解できる。これはフロイトの一貫した態度である。
患者はまた別の強迫症状を物語った。それは患者の「自殺衝動」に関わるものである。
患者は、祖母が重病に臥しているということでその看病のたびに旅立った彼女と離れて、一人で数週間の間勉強に没頭した。その時ふと、「今学期の試験を、できるだけ最初の方の試験日で受けた方がよいと命令されても、こういう命令なら何とか従うことができる。しかし、もしお前の晩頭を剃刀で切れという命令がきたらどうしょう?」(p.237)という考えが浮かんだ。そこで患者は剃刀をとりに戸棚へ向かったが、そこではたと「いやいや、そう簡単にはゆかないぞ、お前は旅に出て、あの老婆(=祖母)を殺さなければならない」という考えをも抱いた。
これは、恋人が不在であることの原因が祖母であるため、その祖母に対して憎悪がわいたと説明できる。そして自殺衝動は、殺人観念に対する自己処罰として存在する、とフロイトは考える。殺人観念→自殺衝動(自己処罰)という順序が逆転して、自殺衝動が最初に来てその次に殺人観念が浮かんだ、ということになる。これは、瞠視願望とそれを妨げる父に対する殺意、そしてその殺意に対する罪責感という原型に対応しているといえよう。
また、患者の中には恋人に対する愛情と憎しみとの相剋がある(父親に対しても愛情と憎しみの相剋が存在した)。例えば次のようなものはその典型である。
「彼女(恋人)がある土地を出立するとき、患者は街路に転がっている医師を足で蹴飛ばしたが、直ちにそれを道の隅にどけなければならなかった。これは、『数時間以内に彼女の馬車がこの街路を通り、もしかしたらこの石に当たって怪我でもしたら大変だ』という考えが起こってきたからである。 しかし数分後に、それはやはり馬鹿らしい心配だと気づいた。 そして今度はそこへ戻ってその石を街路の真中の元の位置に再び置き直さなければならなかった。」(p. 239)
これは患者の、その恋人に対する「保護強迫」に見えるものなのだが、フロイトはその真意を別様に解釈する。これは患者の、その恋人に対する愛情と憎悪の相剋の表れなのである。なぜといえば、「彼女の車が通ることになっている道筋の石を取り除き、それからこの愛の行為を逆戻りさせて、馬車がその石につまずいて彼女が怪我するように石をわざわざ 元の位置に戻したりする強迫的な行動によって具体的に表現されている」からである。石をどけるという行為は彼女に対する愛情の表現であるが、石を元の位置に戻すという第二の行為は、彼女に対する憎悪の表現である。
ヒステリーと強迫神経症の違いはこの点にも存する。ヒステリーは、以上のような対立的な観念を一つの表現中に妥協形成として表現する。「つまり二匹の蝿を一撃で殺す様な一石二鳥がいつも決まっておこるのが常である」(p. 240)。これに対して、強迫神経症の場合は二つの内容が継起的に現れる。「相反する二つの対立傾向がそれぞれ別個に、つまりまずその一方が満足されて、その次に反対の傾向が満足される」(p. 240-241)。
強迫神経症のこのような特徴は、弁証法的な構造を示しているとも言える。フロイトの次の記述は興味深い。
「二つの強迫行為から成る行動系列が継起し、第一の強迫行為が第二の強迫行為によって打ち消される(aufheben される) この例のように、継起的な二重性の強迫行為こそ、強迫神経症に特有な定型的現象である。当然それは、患者の意識的思考によっては正しく理解されず、むしろ二次的な動機を付け加えられて、合理化されてします。しかしこれらの強迫行為の本当の意味は、これまで私が知ることのできた範囲では、二つのほぼ同じ強さをもった対立的な感情興奮の葛藤の表現であり、換言すれば、それは常に愛と憎しみとの対立の表現なのである。」(p. 240)
第一の行為が第二の行為によって「打ち消される」と訳されている部分で、フロイトは「アウフヘーベンaufheben(止揚)される」という表現を用いている。ラカンが注目するところでは、フロイトは1925年の「否定」論文においても、患者が行う否定表現によってその抑圧が「解除Aufheben」される、と語っていた。ある観念内容の否定が、まさにその観念内容に関する抑圧の解除になる、ということ。しかも患者は主観的にそのことに気づいておらず、抑圧解除された内容は未だ「承認」されてはいない、という「否定」のメカニズムは、すでにこの強迫神経症のメカニズムにおいてその萌芽を見せていると言える。
そして「愛と憎しみとの対立の表現」についてもまた、フロイトは晩年の「終わりある分析と終わりなき分析」(1937)のなかで、エンペドクレスの学説を用いて「愛(フィリア)と戦い(ネイコス)」との根源的対立を用いて論じていたことが思い出される。「否定」(1925)においても、肯定と否定という二つの判断形式が、エロスと破壊衝動という二つの根源的な対立傾向から派生したものであることが論じられていたのであった。
恋人に対する患者の相剋的な強迫観念について、もう一つ面白いものを書き留めておこう。(本文ではさらにいくつかの話が紹介されている)
「ある時彼女が重病で床についた時ひどく彼は心配したが、彼女の寝姿を眺める彼の心中には、「このまま彼女が臥っていたらいいなあ」という願望が忽然と湧き起こった。彼はこの思いつきを次のような詭弁的な歪曲によって説明しようとした。すなわち、「彼女の病気が繰り返して再発するのがあんまり心配で自分にはとても耐えられそうもないから、かえってこのまま彼女が病気でいれば、また病気にならないかという不安から救われる。だからそのように願ったのだ」という具合に説明したのである。」(p. 242)
僕はこれを読んだ時に、フロイトの『機知』に出てくる結婚仲介人の機知を思い出した。それは次のような話である。
「結婚志願の男がその花嫁たるべき女性の片一方の足が短く、びっこを引いている点に文句をつけた。結婚仲介人がそれにたいして言う。『あなたは間違っている。健康な肢体満足の女と結婚したとしてごらんなさい。どういうことになりますか? あなたは彼女がころびはしないか、足を折りはしないか、そして生涯びっこになりはしないかと、一日として安関としていられないでしょう。そして苦痛、興奮、医者への支払!ところが、あの人をもらえばそんなことにはなりません。なにしろことはもうすんでしまっているんですから』」(フロイト著作集4、p. 282-3)
もちろん、この仲介人の語るロジックは到底受け入れることのできないもので、「だれもすでに『済んでしまった不幸』をたんに可能である不幸よりもよしと認めようとはしないであろう」。しかし、見かけだけでも論理的に説明しようとしているところが笑いを誘うのである。
ところが、強迫神経症の患者においては、このロジックが真面目に考えられている。「かえってこのまま彼女が病気でいれば、また病気にならないかという不安から救われる」。だからこのまま病気でいてほしい、と。患者のこの奇妙な観念は、結婚仲介人の説得そのものである。いわば患者は、結婚仲介人の話を「ああそうだね」と受け入れてしまった馬鹿な婿のような存在である。
(f)病気の起因について
ある日フロイトは、患者が何気なく話したことが病気の起因に違いないことに気づく。患者はこの話を特に重要とも思っていなかったのだが、しかしこの話を決して忘れはしなかった。重要と思わないというのは、その観念内容から情動エネルギーが撤収され、他の内容に移動されていたということを意味する。
その話の内容に入る前に、フロイトが行うヒステリーと強迫神経症との違いを見ておこう。まず、症状にはその由来となった幼児期体験と、実際に症状を発症することになった直接原因とがある。そしてヒステリーにおいては、幼児期体験と直接原因の両方が忘却(抑圧)されているのに対して、強迫神経症においては幼児期体験が忘却されていたとしても、直接原因は依然として記憶されているという。ただ上に述べたように、直接原因となる観念から情動エネルギーが移動されているために、患者はそれが重要な観念であることの気づかない(、という簡略的な仕方で抑圧が行われている)。
| ヒステリー | 強迫神経症 | |
| 幼児期体験 | 忘却 | 忘却 |
| 発症の直接原因 | 忘却 | 記憶あり(逆備給されている) |
患者の話に戻ろう。患者は次のようなことを話したという。
「彼の母は、遠縁にあたる富裕な家庭に引き取られて育った。そこの家族は、大会社を経営していた。彼の父は結婚と同時にこの会社に就職したが、実のところ自分の妻のお蔭でかなり安定した地位に昇ることができた。こうして彼の両親は、人もうらやむような幸せな結婚生活を送っていたが、この両親の間に交された冗談話から、ふとこの息子は、自分の父が母を知るしばらく前に、ある身分の低い家庭の、美しいが貧しい少女にいい寄ったことがあったという事実を知ってしまった。ここまでが、昔の彼の幼児時代の出来事であるが、さて今度は彼が大人になってからのことで、父の死後、ある日母は、息子に次のような話をした。今母と金持の親戚たちとの間で、彼の将来のことが話題になっている。 そして、親戚の一人は、もし彼が学業を終えたなら自分の娘をお嫁にやってもいいといい、こうして会社と縁ができれば彼の職業にも輝かしい見通しが開けるだろう、と話した。」(フロイト著作集9、p. 245-6)
つまり、患者には二者択一が迫られていることになる。「自分は貧しい恋人に忠実でいるべきか、それとも父の轍を踏んで、自分に定められた美しい金持ちな、家柄の良い少女を妻にしたほうが良いか」(p. 246)という葛藤である。
そしてフロイトによれば、彼はこの葛藤を現実的に解決する代わりに、発病によって解決の代理としたという。このような女性の二者択一がこれまでの話とどのように関わっているのだろうか。片方には、貧しい今の恋人がいる。もう片方には、金持ちな少女がおり、尚且つこれを選ぶことは父のあとを継ぐことでもある。フロイトは、このような病気への逃避が「父への同一化」によって可能になったと注記している(どういうこと?)。これまでに見てきた葛藤とは、女の裸体を見るなら父が死ぬ、つまり女を取るか父を取るかであった。それがここでは、貧しい女と金持ちの女という二人の女の二者択一になっている。
実際、患者は発症によって勉学不能症に陥り、「学業の終了を何年にもわたって延期しなければならなかった」(p. 246)。つまり決断の時を先延ばしすることになった。
またこの頃、患者はリアルタイムに自らの空想と上に述べた当時の状況との類似性を認めざるを得なくなり、これが決め手となってフロイトの解釈を受け入れたとされている。つまり「転移」が起きたのである。
「彼は、転移空想の助けを借りて、自分が忘れていた過去のこと、あるいはただ無意識にとどまっていたことを、新しいこと、現在のこととして体験するようになった。」(p. 246)
それはどういう現在の出来事かというと、ある日患者はフロイトの家で一人の少女に出会い、これをフロイトの娘だと思い込んだ。そしてフロイトが患者に親切であるのは、実はフロイトが彼を娘の婿に欲しがっているからだと空想した(「金持ちの親戚の娘の婿になる」、と並行している)。ところがこれに対して貧乏な恋人に対する愛情も湧き上がってきて、また当時のような心的葛藤を引き起こすことになった。その頃、彼は次のような夢を見た。
「『先生(分析医)の娘さんが目の前にいました。ところがお嬢さんは、二つの眼をもつ代りに、二つの大便のかたまりをつけていました』。夢の言葉がわかる人には、この翻訳は容易であろう。すなわち、『私は先生(分析医)の娘さんと結婚するが、それは彼女の美しい目のためではない、彼女のお金(持参金)のためです』と。」(p. 247)
ここで、大便は金銭を意味している。さらに、大便が代理を果たしたのが「眼」であることも注意すべきであろう。患者の葛藤はもともと、女の裸体を見たいという「瞠視願望」と、そうなれば父は死んでしまう&そんな自分の罪、というジレンマであった。「眼」か「金」か。ある女への求婚ができなかった時、患者はそれが物質的条件の欠乏の故であり、父が死ねば自分の元に財産(金)が来る、という考えを抱いたのであった。父が死ねば、金がやってきて、結婚ができる、しかし父が死ぬなんて酷いことを考える自分は罪だ、となる。貧乏な恋人と金持ちの少女のジレンマは、恋人と結婚すれば金持ちの少女は選ばれない、つまり父親は死ぬ(?父親の道は継承されない?)、反対に金持ち少女と結婚すれば(父親を選ぶ)恋人との結婚はかなわない、ということになるのだろうか。だが、金持ち少女を選ばないなら金がないから恋人とも結婚できないのではないだろうか?いまいち二者択一の厳密な利害関係が整理しづらい。
また、「金」を意味するものとして「大便」があるということは、肛門期への固着も考えられる。
(g)父親コンプレックスおよび鼠観念の解決
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