松本_2018_ラカンにおける構造と歴史、シニフィアンの論理について、の検討の続き。
松本は第V節から、ラカンやレヴィ=ストロースを離れてその後の受容について扱っている。まず、ミレールは1965年に行った発表「縫合La suture」および1975年の「母体Matrice」において、あるシステムが常にその全体の外に何も無い=「無」がある、という状態をとることから、その「無」を含み込んだ新しい全体へと常に生成し続けるということを論じた。
第VI節ではジジェクとドゥルーズ&ガタリ。ジジェクは、常に完成に至ることなくしかし全体性を繰り返し獲得し続けるラカン的システムが、(ラカン自身はヘーゲルの絶対知を批判するにもかかわらず)ヘーゲルの体系と結局は変わらないことに気づいたとされる。そしてこの、ヘーゲル=ラカン的な体系に対して異議を申し立てたのがガタリであるという。
ラカンはヘーゲルの絶対知を批判して、体系が完成に至ることはないと考えた。しかし、だとしてもそのようにして運動し続ける構造自体は絶対化されてしまう。そこでガタリは、そのように延々と不安定からの安定というプロセスを繰り返す体系を批判する(どう批判したのかはあまり語られていない)。ただ、松本によれば、ガタリらによるこうした批判は、ラカン自身が70年代に入ってから自ら転回していった方向でもあるらしい。
これで終わり。とりあえずこの論文の趣旨は、「通時は共時において見出されるがゆえに、構造主義は歴史を拒絶していない」というもの。だが疑問に思うのは、しかしそれでも「共時を媒介しない通時」、純粋な歴史というものはやはり拒絶されているのではないだろうか、ということ。あるいはそのようなものは存在しないのだろうか?
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フロイトの「ねずみ男症例」(「強迫神経症の一症例に関する考察」)(1909)を読み解く。9/11の続き。フロイト著作集9、p. 224あたりから
⑥(演習が終了した日の晩?)患者〔ねずみ男〕は皆の前で答辞を述べる役を任され喋ったが、無遊状態だった。なぜなら、A中尉が着払い金を立て替えたという考えが実際には間違っていたために、自分の誓い(A中尉に金を返さねばならないという強迫観念)と齟齬をきたしたからである。⑦次の日の朝、患者はA中尉とP駅まで同行した。このとき、患者は自らの作戦を実行しようと考えた(「A氏およびB氏と一緒に郵便局へ行き、そこでA氏が受付嬢に3.80クローネを与え、受付嬢はこれをB氏に与える」)。まず、A中尉は単独で、「ある土地」に用事を済ましにいった。患者はA中尉の従卒に、午後になったら自分のもとを訪ねるようにA中尉に伝えさせた。患者自身は、午前9時半に駅に行き、町で用事を済ませてから、A中尉を訪ねることにした(その町はどこ?P駅がある町のこと?A中尉が向かった土地に訪ねていくということ?)。⑧同じ頃、A中尉はP市(おそらくP駅がある市街)かから車で1時間ほどの村に駐屯していた(向かった土地とはここのことか)。患者が作戦を実行する「郵便局」は、(駐屯地から?P市から?)鉄道で3時間はかかる。「だから、そのつもりにさえなれば、彼はこの面倒な計画を全部果たしたのち、P駅発ヴィーン行き夜行列車に乗車することだってできるはずである、と考えた」(p. 225)。
こんがらがってくる。「この面倒な計画」とはA中尉とB中尉を郵便局に連れていって、返済の儀式を済ませることであろうから、現在が9時半だとすると、午後になってA中尉と落ち合い、そこから鉄道で3時間かけて郵便局に行って儀式を済ませ、そのさらに後で「夜行列車」に乗ってヴィーンに行くということなのだろうか(なぜヴィーンに行く?ヴィーンにはかかりつけの鼻眼鏡の店がある。フロイトも住んでいる。そもそも郵便局はどこにある?)?そもそも、「現在」患者はどこにいるのか?P駅?A中尉とP駅までの「騎馬行」に同行と書いてあるから、まず軍事訓練の場所はP駅からいくらか離れたところで、そこからP駅までしばらく馬に乗っていると考えられる。
あ、いや勘違いがあった。「午後になったら彼を訪ねる由を〔A中尉の〕従卒に伝えさせた」とは、患者がA中尉を訪ねる、ということか。つまり、もともとはA中尉と馬に乗って同行して一緒にP駅に向かうはずであったが、患者はA中尉だけ先にP駅に向かわせ、自分は午後になったら後からA中尉のもとを訪ねる、と従卒に伝えさせたということであろう。訂正。
⑦次の日の朝、患者はA中尉とP駅まで騎馬行に同行したが、A中尉を先に単独で向かわせ、自分は後から午後になって中尉を訪ねる旨従卒に伝えさせた。それから彼自身は9時半になってからP駅につき、用事を済ませることにした。
⑧A中尉はといえば、同じ頃(患者が駅に着く9時半ごろか)、P市(P駅のある町か)からさらに車で1時間ほどの村に駐屯していた。郵便局(所在地不明)までは鉄道で3時間かかる。「だから、そのつもりにさえなれば、彼はこの面倒な計画を全部果たしたのち、P駅発ヴィーン行き夜行列車に乗車することだってできるはずである、と考えた」(p. 225)。
患者が後からP駅について用事を済まし、さらにA中尉の駐屯する村まで中尉のもとを訪ねる。そうすると、そこからA中尉と一緒に郵便局まで行くとなる、その村から3時間かかるということか。だが、結局なぜその後ヴィーン行き夜行列車に乗ろうとするのかよくわからない。
なお、⑦と⑧はまだ実行されておらず、患者が立てた予定であることに留意。おそらく9時半にP駅に着くまでは合っているが、その後患者は次のような行動をとった。
⑨患者は停車場(P駅の停車場か。A中尉はここから車に乗って駐屯地の村へ向かったと思われる)の赤帽に問われて、「10時の列車」(おそらくヴィーン行)に乗ると答えてしまった。
⑩その列車に乗り、最初の停車駅で患者は思いつく。「まだ今のうちなら、下車して反対の列車を待ち、それに乗ってP市へ行き、A中尉の駐屯地へ駆けつけ、それからまた彼と一緒に鉄道で3時間先の郵便局まで行っていいわけだ云々」(p. 225)。しかし患者は下車することを色々口実をつけて見送り、結局このままヴィーンまで行ってしまい、「そこで友人を訪ね、委細を報告し、その決断を待ってまた夜行列車でP市へ引き返そうと腹を決めた」。
最初はP市で用事を済ませてから午後にA中尉に会いに行こうと決めているのに、なぜか赤帽とのやり取りを口実に(「既成事実を作ってしまった。これで彼はずいぶん気楽になった」p. 225)ヴィーン行きの列車に午前中のうちに乗ってしまい、しかもいろんな口実をつけて下車を引き延ばしている。あたかもA中尉を訪ねたくないと言わんばかりに見える。
ここで「『そんなにうまくゆくものか?』という私の疑問に対して、彼は大丈夫だと答えた」(p. 225)。とある。この「私」というのがフロイトだとすれば、フロイトは患者の語り(前日譚)を聞きながら口出しをしたということか?「大丈夫だ」という彼の答えはなんなのか。不自然である。なぜならもうその事件は全て終わっているからである。これに対して患者は、一方の列車の到着と他の列車の発車との間には30分の余裕があるから大丈夫だ、と答えたのである。つまりその30分の間に、患者は友人に会って詳細を話して決断を引き出そうという、無理な計画を立てていたことになる。
(11)結局患者はヴィーンについてすぐに友人を見つけることができず、その晩11時(23時)になって友人の家に行き、ことの次第を話した。友人はそれが強迫観念であることに気づいて心配し、患者を一晩休ませた。
(12)翌朝、「友人は彼と一緒に郵便局へ行って3.80クローネを、例の鼻眼鏡の小包が届いた郵便局へ宛てて送金した」(p. 225)。
かなりおかしな説明である。結局、患者はA中尉に会わずに、翌日友人と郵便局に行った。そしてヴィーンの郵便局(これは問題の郵便局ではない)から、問題の郵便局に向けて送金した。計画は何も実行されていない。しかしこのことからフロイトは、あることに気づく。つまり、友人が患者の意向を汲んで(12)のようにさせたのであれば、患者は着払い代金の返済先を問題の郵便局に設定していたのであり、なおかつ患者は金を返すべき相手が問題の郵便局にいることを、はじめから知っていたことになる。返済先はA中尉ではなかったし、B中尉でもなく、患者はそのことをずっと知っていながら、フロイトには語っていなかったことになる。
患者はそこまで来て、ずっと話していなかったことを話した。つまり、残忍な大尉に出会う数時間前に、またそれとは別の大尉から、問題の郵便局の受付嬢が着払い代金を立て替えてくれたことを話に聞いていたのである(その後で、勘違いした残忍な大尉からA中尉の話を聞いたことになる)。
「彼は他の大尉の話と、好意的な受付嬢の存在とを、その際自分にも、また私に報告する場合にも隠していた。私は、彼の行動が、このような歪曲の訂正後、かえって前よりもいっそう不合理で了解し難いものになったことを付け加えたい。」(p. 226)
(13)患者はことが済んで家庭に戻った。しかし、それが一時的な気休めであり、A中尉への返済行為がなお必要であると考えるようになる。そこで、またおかしな理屈を組み立てるようになる。「自分がA中尉に対して考え出したような行為を行うことが、自分の健康の回復のためには必要であるという証明書を医者からもらおう、そしてA中尉はこの証明書によって、結局は3.80クローネを彼から受け取らないわけにはゆかないことになるだろう」(p. 226)と考えるようになった。
(14)ちょうどその頃、患者のもとにフロイトの著作が舞い込み、患者はフロイトを訪ねることになった。しかしフロイトに会った時には、もはや証明書のことなど問題にはなっていなかった。「彼は、非常に理解深い態度でもっぱら強迫観念からの解放のみを求めた」。
(d)治療の理解への導入
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ROBERT GEORGIN.(1983) DE LEVI-STRAUSS A LACANを読み始めた。これは160ページ近くある書籍で、論文にすれば8本分といったところだろうか。フランス語が格調高いのか、単語のレベルもそこそこ高く、読むのが大変そうである。
最初の方はレヴィ=ストロース『構造人類学』の「歴史学と民族学」(1st, 1949)に沿って書かれているので、並行して読んで背景知識を充実させ、論文読解のハードルを下げていく方向でやっていこう(「歴史学と民族学」はたしか、岡安裕介『言語伝承と無意識 : 精神分析としての民俗学』の中でも扱っていた記憶がある)。何事も最初は時間がかかる。地道に。
レヴィ=ストロース『構造人類学』「歴史学と民族学」
まずはじめに、正統に発展を遂げてきた歴史学に対して、民族学l’ethnologieというのが如何なる学問であるかが問われている。レヴィ=ストロースは、社会学は「民族誌ethnographie」の一特殊部門である、という。「民族誌」と「民族学」の違いは次のように言われる。
「民族誌とは人間集団をその特殊性において捉えて観察し分析することであり〔…〕、その目指すところはそれぞれの集団の生活のできる限り忠実な復元である、これに対して民族学は、比較という方法によって〔…〕民族誌の提示する資料を利用するものである」(レヴィ=ストロース『構造人類学』、荒川ら訳、p. 4)
そして民族学と歴史学の関係には以下のようにまとめられる。
「民族学は現象の通時的次元、つまり時間における現象の秩序に関わるのか——そのとき民族学には諸現象の歴史を書くことはできない——、それとも歴史学者のようなやり方で研究しようとするのか——そのとき時間の次元は手からこぼれ落ちる。その歴史を明らかにすることのできない過去を再構成しようとすることと過去のない現在の歴史を描こうとすること、一方は民族学のドラマでわり、他方は民族誌のドラマであるが、いずれにしてもそれが過去50年間の発展過程に両者があまりにもしばしば陥れられてきたジレンマなのである。」(p. 5)
「時間」と「歴史」というのが区別されている点がわかりにくい。だが大まかに言えば、民族学は対象とするある民族の歴史、つまり諸現象の時間的系列を描くことはできない。そういう意味で歴史を明らかにすることはできないのであるが、民族学はそれでもその民族の「過去」を「再構成」しようとするのである。このあたりの話は今日あつかった松本卓也の論文「ラカンにおける構造と歴史、シニフィアンの論理について」(2018)でも、共時的分析において通時=歴史が現れる、という構造主義理解と親和する。そして、これに対して「過去のない現在の歴史を描こうとすること」が「民族誌」の仕事である。これはおそらく、のちに批判的に言及されるマリノフスキーおよびその学派のやり方である。レヴィ=ストロースによれば、マリノフスキーやその弟子たちは、ある一つの民族のところでどっぷりとフィールドワークをするのであるが、その際にあらかじめその民族についての資料を学んでいくということを一切自らに禁じるという。
「それは、彼らがこれから調査する小種族との時間をこえた対話によって、高度に分化した規則や習慣——しかもそれぞれは遠近諸種の種族において無数の差異をもっている——をこえて、社会制度の本性や機能についての永遠の真理に到達させてくれるかもしれない驚くべき直観を台なしにしてしまうことがないように、との理由によるのである。」(p. 16)
独特の方法である。だが、レヴィ=ストロースは、それでも歴史の重要性をとく。「全ては歴史であるからだ。昨日いわれたことも歴史であり、1分前にいわれたことも歴史である」。これはソシュールが体系の歴史的規定を語ったところとも通底するシステム観である。歴史を離れたシステムを考えることはできない。全てのシステムは、過去によって規定を受けて生じたものである。
そしてレヴィ=ストロースは、民族学における進化主義および伝播主義を批判する。伝播主義というのは、ある慣習が観察されたとすると、それが別の地域の類似の慣習と比較されて、例えばそれが、起源となったある地域から別の地域へ慣習が伝播した(歴史があった)のだ、と解釈する立場である。
レヴィ=ストロースは「双分組織」を引いて論じている。彼は1956年には「双分組織は実在するか?」という論文を書き、これはラカンによって参照指示もされている。「双分組織」とは社会構造の一類型で、社会的集団を二つの半族に分けるというものである。さて、民俗学者はこの双分組織の歴史をどのように解釈できるだろうか。もとになった形態が存在し、それが進化していまの姿になったのだろうか。それとも、ある地域で発生し、それが各地域に伝播したのだろうか。
だがレヴィ=ストロースによれば、「一方では、双分組織に割り当てられている機能が一致していないということ、他方で、各社会集団の歴史は半族への分割が極めて相異なった起源から生じている」(p. 14)。つまり、同じ双分組織でも、それが果たす機能やそれが作られた経緯が全く違うのである。したがってこれらを進化論的・伝播主義的・機能主義的に定義することはできないことになる。
また、伝播主義との関連で言えば、『悲しき熱帯』でも扱われていた顔面装飾が思い浮かばれる。これは1945年の「アジアとアメリカの芸術における図像表現の分割性」で最初に論じられた。ある装飾形式が、世界中の各地で見出された。人々はこれを、一方では伝播主義的に説明し(しかしそれが伝播したと考えるのには無理があることが多かった)、また他方ではそもそも類似などない、と切り捨てた。しかしレヴィ=ストロースはどちらの立場にも与しない。やはり類似は認められるべきだし、尚且つ無理やりな伝播主義は否定されるべきである。では、彼はどう考えたのか。
「ただ別のところに説明を求めるべきだということなのである。伝播主義者の努力の成果は、まさに歴史の諸々の可能性の体系的な探求から生れる。 もし歴史がたえず呼び出されながら(それは真先に呼び出されるべきなのだが)、否と答えるなら、そのときは、心理学か形式の構造分析に向おう。そして、心理学的性質のものか論理的性質のものかはともかく、内的諸関連が、単なる確率の戯れからは結果しえないような頻度と凝集とをもって同時に現われでるものを理解できるようにするかどうか、問うてみよう。私が、いま、論争に何らかつけ加えようとしているのは、このような考え方をもってなのである。」(p. 272)
これは「象徴」の次元で考えていると言い換えてもいいだろう。ある条件から派生するパターン(組み合わせ)が数学的に有限であるとすれば、そこにかなりの程度類似が見られるのは当然であり、そこに<隠された伝播の歴史>などを読み取ろうとしなくても良いのである。あるいは言い換えれば、アジアで車輪が発明され、アメリカで車輪が発明されたとすれば、それは車輪構造という一つの「ニッチ」が、それぞれの土地でそれぞれの時期に、任意の人物によって占められた、というだけである。そこに輸出入や接触の歴史を見て取ろうとする必要はない。
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