2024/9/12

今日はお昼から駒場に行って、仏語文献の複写を行った。

・ROBERT GEORGIN.(1983) DE LEVI-STRAUSS A LACAN
・Alain Delrieu.(1999) Levi-Strauss lecteur de Freud

複写中に気づいたが、Alain Delrieu.(1999) Levi-Strauss lecteur de Freudはラカンがそれほど議論の中心になっていない。主にフロイトとレヴィ=ストロースを比較している。とはいえ、ROBERT GEORGIN.(1983) も参考文献に入っている。Delrieuの方は少し手を抜いて、必要そうな部分だけ使うということで差し当たりは良いだろう。GEORGIN.(1983) の方は、彼自身がラカンの指導を受けていたらしく、先行研究として参照しておく価値がある。

あとレヴィ=ストロースとラカンを論じたものとして優先順位が高いものは

・Zafiropoulos, M.(2003) Lacan et Lévi- Strauss ou le retour à Freud, 1951- 1957. P.U.F. (英訳Lacan and Levi-Strauss or The Return to Freud (1951-1957))
・Basualdo, C.(2011) Lacan (Freud), Lévi- Strauss : chronique d’une rencontre ratée.
・Juan Pablo Lucchelli.(2014) Lacan avec et sans Levi-strauss

であるが、これらは他大学にしか蔵書がなかった。うちBasualdo, C.(2011) は大阪大学にしかないので入手が困難であるが、ほか二つは専修大学に蔵書があるので、事前連絡してこれらも複写するつもりである。

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松本_2018_ラカンにおける構造と歴史、シニフィアンの論理について、を読んだ。

サルトルによる構造主義批判、つまり構造主義は歴史を無視している、ということに対するラカンの反論から始まる。ラカンによれば、レヴィ=ストロースでさえ歴史を拒絶したことはない。では、構造主義におけるある種の「共時」主義(↔︎「通時=歴史」主義)の中に、どのように通時性=歴史性を見出すことができるだろうか。

松本の結論から先に言えば、ラカンやレヴィ=ストロースにおける歴史性は、共時的構造の分析によって見出されるものである、ということになる。通時は共時のうちに見出される。

最初にねずみ男症例について言及したラカンのインタビューが引かれており、ねずみ男がその父親の負債を(無意識のうちに)継承したという歴史(=通時性)が、強迫観念という症状として現れたことが説明される。

これは「文字の審級」において次のように言われている部分に対応する。

「主体はまた、ランガージュの奴隷のように見えることもありうるだろうが、なおそれ以上に、普遍的運動におけるディスクールの奴隷なのである。主体の場所は、それが彼の固有名詞という形に過ぎないにせよ、彼の誕生時には既に書き込まれているのである。」(E 495)

ねずみ男は父親に象徴的同一化を果たし、父親のディスクールに巻き込まれていたのである。ただ、ここで「ランガージュ」と「ディスクール」が区別されていることに注意したい。ねずみ男がその奴隷になっているところの「ディスクール」が「通時」で、ランガージュが「共時」だろうか?松本はこの先で「シニフィアン連鎖」という言葉も使うが、これはまた別なのだろうか?ラカンの『無意識の形成物』では、シニフィアン連鎖とディスクールが区別されていた。

松本はさらにオイディプス王とアンティゴネーの運命が、「不毛性」=「不妊性」という<法>のもとに従属している、と語る。そこで、ラカンが「ローマ講演」でも引いていた、ユスティリアヌス法典の「法は『知らなかった』では済まされない」という慣用句が、以上のように解されるべきだとされる。ねずみ男は自らの運命=<法>を(少なくとも意識的には)知らなかったが、しかしそれでも運命に従属していたのである。「法は『知らなかった』では済まされない」については、以前少し論じた。cf. https://shanazawa4.wordpress.com/2024/08/03/2024-8-3/

松本は結論を先取りして言う。

「精神分析においては、通時的な歴史が共時的に現れることこそが重要であり、ラカン派精神分析ではそこに無意識の主体の現れを見出すからである。」(松本、p. 285)

そして、レヴィ=ストロースの「象徴的効果」(1949)と「神話の構造」(1955)を見ていく。

松本によれば、レヴィ=ストロースが理解する精神分析は、「過去の忘却された歴史(失われた時間)を探究していると思われるが、実際にはそのような通時的な起源を問題にしてはいない」(p. 285)。そのことは「神話の構造」の引用にも表れている。

「レヴィ=ストロースは歴史を否定しているのではない。彼はむしろ、歴史がパロール/ラングの2つの領域において、それぞれ歴史的(通時的)/非歴史的(共時的)なものとして現れるという二重構造を指摘しているのである。そして、この二重構造は、通時的な歴史的起源を遡ること(=失われた時間を探求すること)が、現在における共時的な構造の分析と等価なものとなりうることの理論的根拠となる。すなわち、レヴィ=ストロースにとって、通時は共時において現れることが可能なのである。」(p. 286)

松本はそうして、症例ドラを論証に用いる。ドラが父親のことを「役に立つvermögend男」と形容した際に、フロイトはこれを「役に立たないunvermögend」=性的不能として解釈すべきだと判断する。松本によれば、この「役に立つvermögend」-「役に立たないunvermögend」という二項関係が共時的構造であるという。そしてその分析によって、「ドラの不能の父親への同一化という主体の(通時的な)歴史を明らかにし」たという。

「役に立つ」を「役に立たない」と解釈することは、たんに「反対物による一致」の技法と考えることができよう。このことが共時的分析と言われている。ただ、それによって明らかになる「父親への同一化」というのは、「主体の歴史」なのだろうか?ちょっとわかりにくい。

そして図式が提示されて、「役に立つ」と「役に立たない」が横の水平的な関係、これに対して「役に立つ」と「無意識の主体」(=歴史?)が分数の縦の関係・垂直的関係で示されている。ここで松本はそこまで敷衍していないが、これは換喩と隠喩のメカニズムにも応用できそうである。

また、松本は「共時的なシニフィアン連鎖が通時的な歴史を明らかにする」(p. 287)という表現をしている。シニフィアン連鎖は共時的なものなのだろうか?シニフィアン連鎖とランガージュの関係は?

続きは明日。

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