2024/9/7

昨日の続き。Fink, B. et al.(1996) Reading Seminars 1 and 2, p. 98~, Anne Dunand. Lacan and Levi-Strauss

文化人類学と精神分析学の研究領域はオーバーラップする。だがDunandによれば、人類学は基本的には観察対象を変形させることがないし、また個人にフォーカスすることもない。これに対して精神分析は治療的なものであって、個人にフォーカスしてしかもその対象を(ある意味で)変形させることに向かう。これが人類学と精神分析学の間に引かれる境界である。対象を変形させてしまうという精神分析の特徴に、レヴィ=ストロースが精神分析にむける不信のもとがあるという。

次にレヴィ=ストロースに関する節。まずレヴィ=ストロースが言語学の知見を取り入れることによって人類学を発展させたことが説明される。そしてDunandによれば、レヴィ=ストロースは人間というものを特徴づける二つのファクターがあることに気づいたのだという。それは「言語とインセストの禁止」(Fink, B. et al, p. 100)である。そして言語とインセスト禁忌に関する基礎foundationおよび機能functionについて三つの項目にまとめている。ざっくり要約しよう。

1:自然と文化の境界について。おそらく『親族の基本構造』の第1章に関連する話だと思うが、レヴィ=ストロースは自然的なものからなぜ・どのようにして文化的なもの=人間が生まれてきたのかを考える。『基本構造』においては、インセスト禁忌こそが自然と文化の境界にあたる普遍性を持つものだと考えられている。cf. https://shanazawa4.wordpress.com/2024/08/24/2024-8-24/
2:言語と社会規則は同じ機能に仕える。言語ならば人々や集団の間に関係を設立し維持することに役立つ。そしてDunandによれば「社会構造は一つのシンタクスのようである」(p. 101)とのことであるが、少しわかりにくい。ただ、言語が関係設立の機能を持つというのはラカンも言っていることである。ラカンは言語に二つの機能を見ており、一つは他者との媒介(=関係の設立)、もう一つは真理/虚偽の機能である。
3:人類学と言語学の相似性は、つまるところ「音素と親族原子atoms of kinshipの間の相似性」である。いずれも単体で意味significationを持つことがなく、常に他の要素との関係(対立的・否定的関係)においてのみ機能しうる。それが「syntax」ということで言われている内実である。

そして音素は親族構造が持つ他の要素との諸関係という性質が、無意識とも繋げられる。だがDunandがいうには、レヴィ=ストロースのいう「無意識」はフロイト的無意識とは異なるらしい。それはラカンがセミネール11巻で言っているようである。調べたところ、おそらく『精神分析の四基本概念』の岩波文庫版の上巻、p. 35の部分で、レヴィ=ストロースの無意識は「一つの」無意識であるが、それはフロイトの無意識と同じものであるのか、とラカン自身問うている場面を指しているのだろう。ラカンは、「真 フロイト的な無意識の道、これをフロイトに教えたのはヒステリー者たちです」と言っている。つまり「無意識」にもさまざまあるのであって、レヴィ=ストロースは未開人たちの無意識を考えたが、フロイトが臨床経験を通してヒステリー者の無意識を考えていた、だから二人の考える「無意識」は一致しないのだ、ということなのだろうか。ラカンはここではあくまでも問いかけにとどめている。

それから、フロイトとレヴィ=ストロースの違いとして、インセスト禁忌に対する解釈の差異が説明される。フロイトがインセスト禁忌を父への愛などから考えた(「トーテムとタブー」などを要確認)のに対して、レヴィ=ストロースはこれを外婚性の命令という肯定的(実定的)命令の裏面としての否定命令であると解釈した。さらにレヴィ=ストロースが「女性」を「言葉words」にも似た交換物と考えており、「女性は自然と文化の中間に位置する奇妙な対象である」(p. 101)と考えていることが紹介される。

次のページに進んで、レヴィ=ストロースと心理学の関係が述べられ、ヤコブソンの1941年の著作「Child Language Aphasia and Phonological Universals」(おそらく未邦訳)などに影響を受けていたことが述べられている。なるほど、ヤコブソンの著作は思えば『一般言語学』しかほとんど見ていないが、もっと40年代の論文などはレヴィ=ストロースに直接的に影響を与えているだろうし、ラカンも読んでいるだろうと考えられる。1942年の講義がもとになった『音と意味についての六章』にはレヴィ=ストロースの序文も付いているようなので、確認しておく。

Dunandはレヴィ=ストロースの思想について簡略的な定式を作ってまとめている。

(culture/nature) = (meaning/sound) = (rules of kinship/incest) = (reciprocity/envy)

なるほどわかりやすい。Mehlmanはレヴィ=ストロースのシニフィエアン・シニフィエの二項対立をソシュールにおけるラング・パロール、フロイト=ラカンにおける無意識・意識などの二項対立に並行させていた。Dunandの定式における(meaning/sound)がソシュールを念頭に置いているのだとすると、MehlmanのものとDunandのものをさらに比較することはできるだろうか(難しそう)。

この節の最後にDunandは、レヴィ=ストロースとラカンの違いを述べている。それは、いずれも「交換」や「相互性」ということを考えているが、レヴィ=ストロースにおいては「there are no leftover」(p. 103)つまり何も残らないのに対し、ラカンにおいては「there is something left over」であるという。つまり、ラカンにおいては欲望が満たされることがない(desire is never fulfilled)、ということがレヴィ=ストロースとの違いとして強調されている(それを表現するのが「対象a」だ、とも)。

欲望が満たされることが決してなく、終わりなき追求があるというラカンの否定神学モデルは、レヴィ=ストロースには適用されないのだろうか。あるいはそれは、未開人と文明人の間の心性の違いであり、ラカンの否定進学モデルは精神分析があくまでも都市生活者の心の科学だったところから出てきた病理的なモデルなのだろうか。

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