2024/9/6

Mehlman.(1972) Floating Signifier Levi-Strauss

なぜ一挙に与えられたシニフィアンをシニフィエへと適用できるのか、あるいは無意識の言語的構造から意識が存在しうるのか。このパラドクスに答えるのが「マナ」つまり「あらゆる有限な思考の隷属」(Mehlman, p. 24)であるとされる。

それは同時に、個々人の意識がその無意識的な基盤に支払わなくてはならない一つの捧げ物tributeあるいは犠牲sacrificeであり、我々が言うこと以上に(あるいはその中に)より多く意味を持つ何かが常にあることを認めることadmissionであり、意識の中に無意識が執拗に存在すること(insistence)の様式である。(Mehlman, p.24)

ここではおそらくメールマンによって、浮遊するシニフィアンとしてのマナが、レヴィストロース、ソシュール、フロイト=ラカンの三者におけるそれぞれの表現で説明されている。それはまず負債感、負い目であり、意味の過剰であり、無意識の執拗さである。

さらに次の段落では、レヴィ=ストロースにおける「浮遊するシニフィアン」は、むしろソシュールの用法としての「シニフィアン」へと回帰しているように見えるとも言われる(レヴィ=ストロースの用いる「シニフィアン」は、むしろソシュールにおける「ラング」のような意味合いを持っていた)。なぜなら、ソシュールにおいてシニフィアンは、固定化された概念(シニフィエ)を持たない「聴覚イメージ」だったからである。そこでメールマンは次のように言う。「それゆえマナは、発話(パロール)へと侵入するようなソシュールの言語(ラング)の恣意的(あるいは差異的な)基盤を表している」(p. 24)。つまり、マナはソシュールにおける「記号の恣意性」を表している、と解釈される。

その後25ページに入ると、ドゥルーズが『意味の論理学』のなかで、manaやmachin、truc、oomphなどの一連の浮遊するシニフィアンの中にフロイトの「イド(ça)」を加えたということが紹介され(要確認)、浮遊するシニフィアンfloating signifierは「それを通じて(間)主観性が可能となるようなまさにメカニズム」(p. 25)であるといわれる。その後もう少しあれこれ言われて、ラカンの『ラジオフォニー』の一部を(おおよそ)段落ごとに注釈していくパートが始まる。

『ラジオフォニー』はラカンが1970年にベルギーの放送局から依頼を受けて、7つの質問に答えるという形式をとって放送されたテクストである。メールマンが扱った部分は第四質問の後半(Autres Ecrits, p. 426-429)なので、そこまでの部分をネット上にある有志の翻訳を用いて確認した(https://psychanalyse.web.wox.cc/novel/entry23.html)。

最初の方はまだなんとなくわかるのだが第三質問くらいからわからなくなっていき、第四質問はほとんどわからなかった(前半は何やら科学哲学的な話をしている)。ただ、言語学、人類学との精神分析学の関係や、換喩・隠喩に関する議論など、初期のラカンの発想はしっかりとこの年代まで受け継がれているなと感じた。

メールマンの注釈だが、あまり親切なものではなく(メールマン自身が文学批評家として筆力に秀でていたからか)、それ自体注釈を必要とするような注釈であった…。よってメールマンを媒介したとしてもラカンの文章はよくわからないままである。それから、なぜこの論文のタイトル=主題が「浮遊するシニフィアンFloating signifier」なのかも、最後まで読んでもイマイチピンとこなかった。注釈する箇所がラジオフォニーの中でなぜこの部分なのかよくわからないままだし、注釈パートにおいてあまりこれまでの議論が活かされているような印象は薄い。

なので、その中でもレヴィ=ストロースや浮遊するシニフィアンに関係していそうな部分だけ見ることにする。二箇所ある。

一つ目はAutre Ecritsのp. 427, 6行目からこのページの終わりまでの範囲についての注釈。メールマンの論文での注釈番号は12。あまり理解できていないが、メールマンは精神分析における「転移transference」が重要であると言っている。「なぜなら我々が思い出すことには、レヴィ=ストロースの賭けとは、言語の構造(例えばソシュールの『価値value』)とコミュニケーション的なネットワーク(モースの交換概念を通じて)を連接させようとすることだったからである」(Mehlman, p. 30)。なぜマナが精神分析における転移現象と関係があるのか、よくわからない。

二つ目はAutre Ecritsのp. 429、ラカンの回答が一旦区切れる最後の段落である。メールマンの注釈番号22で最後の注釈段落。ここに至ってメールマンは、「最後に、神話的コンテクストによって準備されることで、『浮遊するシニフィアン』の最も驚くべき変形transformationが来たる:la faux du temps、父なる時間の大鎌the scyrhe of Father Timeである」(p. 35)と語る。ラカンが最後に言葉遊び的に作り出した「時間の大鎌la faux du temps」という概念が、浮遊するシニフィアンに当たる要素であるらしい。一応、時間=クロノス=サトゥルヌスと繋げて、サトゥルヌスの鎌を意味していると考えることはできる。クロノスは父ウラノスを去勢していたり、子供を殺して食ったり(「我が子を喰らうサトゥルヌス」)しているので、エディプスコンプレクスの話にも結びつきやすい。セミネール4巻の原著がゴヤの「我が子を喰らうサトゥルヌス」になっているので、この辺りで議論されているのかもしれない。

最後にこの注釈を踏まえたまとめがあるのだが、ここもそんなに新しいことを言っているように見えない。我々の目下の目的に関連するところを見るなら、この「時間の大鎌」がシニフィアンとシニフィエの間にスラッシュを入れているといわれているところが役にたつ。「時間の大鎌」が浮遊するシニフィアンであり、シニフィアンとシニフィエの間に断絶を敷くものである、というのがメールマンの解釈だと考えることができよう。

メールマンの論文はとりあえずここまでで良いだろう。メールマン自身文章力のある人だろうから単語も難しかったし、内容もそれなりに高度であった(少なくとも現代の論文の書き方ではない)。それに体調不良もあいまって読むのに時間がかかったが、この論文は被引用数も多いので、一度読んでおいて良かったと思う。僕が主に40-50年代のレヴィ=ストロースとラカンの接点を調べており、また『悲しき熱帯』についてはまだほとんど触れられていなかったので、70年代のラカンの議論までを含んだ本論文はかなり視野を広げてくれるものになった。

次に読むのは(cf. https://shanazawa4.wordpress.com/2024/08/29/2024-8-29/)年代的にいうと、
・ミケル・ボルク・ヤコブセン(2008[1999], [原著1991])『ラカンの思想 現代フランス思想入門』、第五章「言葉でなにもしないにはどうするか」、「無意識は神話である」「呪術師とその魔術」、p. 228~の部分。
・ROBERT GEORGIN.(1983) DE LEVI-STRAUSS A LACAN、
・Frederick, J. F. (1989). Myth and Repetition: The Ground of Ideality in Lévi-Strauss and Lacan. Journal of the British Society for Phenomenology20(2), 115–123.
といったところである。Georginのものは単行本で、駒場の教養図書室にあるようなので事前に申請して入手しておく。ヤコブセンのは手持ちにある。

Frederickのものは今調べたらTaylor&Francisにオンラインデータがあるが、読むためにはサブスクライブか購入が必要であった。おそらくだが東大はフリーアクセス権が無いので読めない。図書館のサイトでジャーナル名を検索すると出てくるが、実際の論文をオンラインで読むためには料金を請求されたのと、紙媒体の蔵書は2002年からしかなかった。これは入手方法を検討する枠に一旦まわす。

Fink, B. et al.(1996) Reading Seminars 1 and 2, p. 98~, Anne Dunand. Lacan and Levi-Straussは手持ちに本があるので、これを読んでしまおう。なお、この調子で全部読み終え、さらに執筆までいくのかというのは不安はあるが、日本語の論文で言えばすでにおおかた読み終えているので、外国語論文をどこまでカバーできるかである。しかもそれも、どうしても手に入らない場合は諦めるか、執筆をしながら入手先を探索する必要がある。

いずれにせよ、12月には提出があるからそこは念頭に入れつつ。11月頭にはフランス語の試験もある。焦らない。できるところまで。

時間が余ったのでAnne Dunand. Lacan and Levi-Straussを少し読んだ。エクリの英訳者ブルース・フィンクBruce Finkらに編集された、セミネール1巻と2巻に関する論文集(とされているが、実際の内容的にはもっと広範と思われる。ジャック・A・ミレールも執筆している)の中の一つの論文。Anne Dunandは調べてもあまり情報が出てこないが、ラカン関係の同様の論文集にいくつか寄稿しているようだ。

Dunandはまず人類学の歴史をごく簡単に振り返り、フロイトの主に社会構造に関する諸論文(「トーテムとタブー」「集団心理学と自我の分析」「ある幻想の未来」「文明とその不満」「モーセと一神教」など)が人類学と深い関係にあるととく。そしてフロイト以後の精神分析において、弟子たちの意図は大きく二つの方向に分かれたという。

1:他の社会を研究することで西洋社会を批判し、他のところで発見された諸現象を強調することで西洋文化への新しいアプローチをもたらすこと。
2:西洋社会の観察から現れてくるような、精神分析の公準postulationsを立証する。そしてそれらの公準の、他の社会集団への適用可能性(あるいはその欠落)を測定する。
(Fink, B. et al, p. 98)

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