昨日は熱が38.5度あって、腹痛と下痢があったので1日寝込んでいた。昼頃に病院に行って、胃腸系の感染症だと診断を受け、薬をもらってからOS-1やらウィダーゼリーやらを買って帰宅した。熱で身体がだるく、腹痛で動けないのでなるべく水分を摂るようにしながら過ごした。
横になって暇なのだが、眠気も特になかったりするとやることがなく、かといってこのブログを書く気力もないし、頭を使いたくもないのでYoutubeを見たり久しぶりにAmazonPrimeを開いたりして時間を潰していた。この手のコンテンツは余計なことを考えなくて済むから脳みその休憩に役立つのだが(休憩になっていなさそうだが)、長時間見ていると心が荒んでくる。それでしばらくすると飽きて見るのをやめる。
今は二日目の夕方18時前、熱は37度くらいまで下がって身体を動かせるようになり、腹痛は少し残っているがご飯も食べられるようになってきた。頭痛が結構ある。
今回良かったのは、生産的なことを何もやっていなくても、ほとんど誰とも連絡を取っていなくても(母と、一人連絡をくれたひとがいてそれはとても嬉しかったのだが)、絶望的な気持ちにならなかったことである。気分としては、また元気に活動を始める前にお預けをくらっているような感じで、次の快調を楽しみに待つような気分でいる。
ただ、注意も必要だとは思う。絶望感が気分に出る代わりに身体に出た、という可能性もある。気分に出ていた時は、そのことによって身体的な症状が回避されていたかもしれない。たんに外で菌をもらってきたか、餃子を作った時に焼きが足りなかったか、そういう偶然的なものかもしれないが。原因は複数想定される。ともあれ、身体が休みたがっている時は休む。
体に不調があり、熱や腹痛があったりすると、ほかのことを何もしたくなくなる。音楽すらかけたくない。今はだいぶマシになったが、まだ全快ではないので、こうやって書くことにも結構な抵抗を感じる。これは鬱で絶望している時の状態とほぼ同じということもできる。確かフロイトは「ナルシシズムの導入に向けて」という論文の中で、何かのドイツの絵本作家を紹介しながら、歯痛を抱えている時の人間は自分のことしか考えられないナルシシズムの状態にあるという話をしている。
ナルシシズムまたは「自己愛」の状態というのは精神病の状態と同列に精神分析では考えられている。しかし健常者においても、夜の睡眠中や、歯痛や怪我などの痛み(とそこからの回復)、それから心的外傷(外傷をくらった部分にエネルギーが集中し、その代わりに別の部分の備給が大規模に撤収される)などによって自己愛の状態が作り出されるとされる。精神分析において鬱が神経症ではなく精神病にカテゴライズされるのも、他の何ごとにも関心が向かず(エネルギーが備給されない)、手がつけられない状態だから、と考えられるからだろう。
腹痛で何もできないとき、じゃあ自分は何をしているのか、と考えてみた。そう考えると、読書も楽器も、スマホを見るのも、音楽を聴くのも御免、というとき、僕は何かを考えている(デカルトみたいな話だ)。前の思い出を思い出したり、論文作業の見通しを考えたり、知り合いのことを考えたり。そこでふと思うのは、なぜ読んだり書いたりすることは面倒なのに、考えることはできているのか、ということである。そして、そこに思考と言語の違いがあるのだろうか、ということ。つまり頭で考えてもうまくいかないことを書いたり人と話したりすることで解決を見る、というのは、エネルギーの備給が自我に集中した自己愛の状態にあるか、外に向かって別の要素へと備給が行われているかという状態の違いに由来するのではないだろうか。
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