昨日、夜帰ってきて少し書いてから投稿しようとしたら、下書き保存の読み込みが終わらず、しびれを切らしてページごと再読み込みしたら、昼書いたものが消えてしまった。次からは下書き保存が終わらない場合は全文コピーして控えてから更新することにしよう。
Mehlman.(1972) Floating Signifier Levi-Strauss
昨日の続き。色々とあるにはあるのだが、重要なのは、メールマンはレヴィ=ストロースの「シニフィアン/シニフィエ」の二項対立を、ソシュールにおける「ラング/パロール」(小田亮も似たようなことを言っていた気がする。しかもそれは丸山圭三郎の学説として紹介していたと記憶している。)、そしてフロイト=ラカンにおける「無意識/意識」に対応させていることである。
| 共時的・構造的 | 通時的・線形的 | |
| ソシュール | ラング | パロール |
| レヴィ=ストロース | シニフィアン | シニフィエ |
| フロイト=ラカン | 無意識 | 意識 |
そしてメールマンによれば、これらの二項対立には共通のパラドクスがある。つまり、ソシュールにおいて、「(必然的に全体的である)言語(シニフィアン)を、徐々にしか知られ得ない(指示的な)実在(シニフィエ)に適用すること」(Mehlman, p. 24)である。
レヴィ=ストロースの「序文」では、言語の獲得とともにシニフィアンが一挙に与えられるのに対して、シニフィエ(そのシニフィアンが何を意味しているか)は徐々にしか明らかにならないことから、人間の知的条件としての「シニフィアンの過剰」が説かれていた。そしてソシュールにおいて共時的構造としてのラングから具体的なパロールが可能になるということと、レヴィ=ストロースにおいて「意味するものの一定の面と意味されるものの一定の面を相互に関係づけて同一化すること」あるいは「意味するものの全体と意味されるものの全体の中から、両者の間の最もぴったりした申し分のない関係を示す部分を選び取ること」(序文、有地ら訳、p. 39)とが、パラレルに考えられている。
そこにさらにフロイト=ラカンの「無意識/意識」という対立も並べられて、同じパラドクスは「言語的無意識の(システミックな)本性が与えら得たとして、いかにして(線形的な)意識は存在しうるか」(Mehlman, p. 24)とも表現される。
おなかが痛いので、横になる。10時。14時までに良くならなかったら母の手伝いも休むと連絡入れた。とりあえず昨日読んだことだけ布団の中から書いておく。
メールマンはそのあと、これらのパラドクスに対する解決策として「浮遊するシニフィアン」がある、という。その論理はまだよく理解していない。そして浮遊するシニフィアンがドゥルーズにおいては「エス」であるという話がすこしある。
メールマンの論文の最後は、ラカン「ラジオフォニー」(1970)の第4質問の一部を段落ごとに注釈するという、奇妙な方法をとっている。ネットにラジオフォニーの邦訳があるので、当該議論を確認中である。
コメントを残す