井筒俊彦『意識と本質』の「禅における言語的意味の問題」を読んでいる。基本的には分節世界と無分節世界という二項対立を基盤に論が進められていて、禅宗においては分節→無分節へ導くような、非意味的な言語使用が用いられていると論じられており、禅の一般的理解とそれほど違いはない。
ただ面白いのは、そのような特殊な言語使用の中にもバリエーションがあるのだ、というところ。例えば趙州は仏法の最奥の意義は何であるかと問われて、「庭前の柏樹子(庭の柏の木)」と答えた。また無門慧開禅師は「無」という言葉を究極まで考えよ、と説いた。井筒によれば、「柏樹子」と「無」はいずれも無分節世界を指し示しながらも、異なる効果を持つ。それは、いわば「往還」における「還」の段階をガイドするか否かである。「無」の方は分節世界から無分節世界へ導く機能を持つが、そこから先は関知しない。これに対して「柏樹子」の方は、無分節世界が再び自己限定化によって分節化される「還」の段階をもガイドしてくれている。「『柏樹子』や『麻三斤』はこの点で、もっと親切である」(岩波文庫、p. 367)。
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Mehlman.(1972) Floating Signifier Levi-Strauss
レヴィ=ストロースはモースの仕事が、コミュニケーションを数学的に分析する新しい領野への手がかりを所有していたにもかかわらず、モース自身はその手前で踏みとどまってしまったと評価する。そしてその理由は何か、というところから、モースの「マナ」「ハウ」論への批判が始まる。
昼書いたものが保存されていなかったのか、夜帰宅して再読み込みしたら消えていた。帰宅が遅くなって早く寝たいので、明日書き直す。
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