2024/9/2

昼過ぎごろ、ドゥルーズのシネマをパラパラ読んでいたら、ベルクソンの『物質と記憶』の第1章をすごく褒めていて、確かメイヤスーも何かのインタビューで、『物質と記憶』は第1章だけが重要であとは蛇足だみたいな話をしていたなと思い出したので、ほんの数ページだが読んでみた。これはすごい。

ベルクソンはまず世界の全体を究極に抽象的な意味での「イマージュ」として考える。すると、世界がイマージュであることはもちろんのこと、それを知覚する自分の身体や、脳や、脳の神経シグナルもまた「イマージュ」であることになる。ここである困難が生じる。イマージュは知覚されるものである。しかし、その知覚する脳や身体もまたイマージュである。そもそも、脳や身体は世界の一部なのであるから、世界の一部であるところのイマージュが全世界を請け負っているなどということはおかしな話である。

またこのようにも考える。ベルクソンにおける脳神経モデルは、外界から作用され、そのイマージュを知覚する求心性の神経と、その知覚に基づいてある「行動」を世界に対して与えかえす遠心性の神経の両端から構成される(この辺りはフロイトとも似ている)。そして、仮に脳神経の求心性の神経の管を切断したとすると、知覚は消滅することは明らかである。しかし、ベルクソンによればこれはおかしい。なぜなら、求心性の神経の遮断は、それが遠心性の神経を通じて私の「行動」に影響を与えるはずだからである。行動にのみ関わることであるにもかかわらず、消失するのは私の知覚なのである。

これは何を意味するのか。それは、「私の知覚が描きだすものは、ほかならぬイマージュの総体の中で〔中略〕、自分の身体の潜在的もしくは可能的な行動にほかならない」(熊野訳、p. 43)ということである。つまり、私が知覚している世界とは、私の可能的な行動である、という衝撃の事実である。「すなわち、私が物質と呼ぶものはイマージュの総体であり、物質の知覚と呼ばれるものは、この同じイマージュが、特定のある種のイマージュ、つまり私の身体の可能な行動に関係づけられたものなのである」。

ベルクソンの本は、僕はなぜか『時間と自由〔意識に与えられたものについての試論〕』と『創造的進化』を岩波文庫で読破している。生物学科からの転向を決意して、わけもわからずとりあえず図書館に通いながら哲学を勉強しよう、と意気込んでいた時期、『創造的進化』を読んでピンときた。というのも、たんにタイトルから生物学に近そうだなと思っただけである。結局、それまでの生物学を勉強してきた蓄積(それほどの蓄積もなかったのだが)をどうにか活かしたいという、諦めの悪さと意地汚さが働いていただけである。それで『創造的進化』はなかなかにボリュームがあったのだが、ぼんやりとしたイメージだけを掴みながらとりあえず字面だけを追って読破した。その数ヶ月後には、大学の課題で『時間と自由』を使ったレポートを書くことにし、(これもなぜか)図書館の防音室にこもって全文音読により読破するという、意味不明な行動をとった。

東大に入ってからは1年半ほど、熊野純彦のゼミでベルクソンの『試論』を扱い、フランス語で丁寧に読むというトレーニングを受けた。熊野先生は、自分の専門はドイツ哲学でカントやハイデガーを読んできたが、ベルクソンはずっと「偏愛」的に読んできた哲学者だ、ということを仰っていた。たしかゼミで紹介していたと思うが、小林秀雄が遺作として未完のベルクソン論を書いており、小林秀雄好きの熊野さんはこれの影響も受けていたと思われる。また、ハイデガーにはベルクソンの影響が実は大きいと思うというようなことも繰り返し言っていた。

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もう夕飯にしたい時間なのだが、今日はもう少し書きたい。ラカンとベルクソンの接点、あるいはラカンはベルクソンについて何か言っているのだろうかと思って、ベルクソンに関する言及を集めてみたところ、そのままラカンの別の記述に目が入ってしまい、これを書き留めておかなくてはと感じた次第である。ちなみに、ベルクソンについてラカンは一貫して批判的。何か知性的なものの根源に非知性的な根源的なものを見ようとする態度は、象徴的なものを重視するラカンにとって批判対象となっている。また、『笑い』は「滑稽なもの」を扱っているとみなされており、フロイトの『機知』に比べたら「まったく貧弱」と言われている。

セミネール1巻の「自我と他者」のセミネールでは、「シニョレリ」の基地の話をした後にパロールの二つの機能について語られている。その二つの機能とは、一方では「主体と他者との媒介」であり、他方では「暴露」である。

パロールは主体と他者を媒介する。パロールとその返答によって、二人の主体は社会的な関係を結ぶ。これはおそらく人類学的な知見からラカンが受け取った言語の機能である(現在読んでいるMehlmanのレヴィ=ストロース論はそういう内容である。他者理解の不可能性に直面したレヴィストロースは、無意識の構造分析による他者との交流を見出した)。

しかし、ラカンはもう一つ「暴露」ということをいう。これはすなわち「機知」としての充溢したパロールである。結婚仲介人が結婚制度の空虚さという「真理」を暴露したように、パロールはある直視し難いものを暴露する機能をもつ。そしてそれが暴露されようとする時に「抵抗」が働き、パロールが遮られる。それがフロイトが「シニョレリ」を度忘れした原因であった(『日常生活の精神病理』)。

ラカンはパロールの二つの機能を、セミネール3巻『精神病』でも語っていた。これは何度も読み返していたのだが、なかなか手掛かりが得られずに困っていた。「大文字の他者と精神病」というタイトルのセミネールの、邦訳上巻p. 58のあたりである。そこでは二つの機能は「信頼」と「見せかけ」であった。つまり「信頼」とは例えば、他者に対して「あなたは私の妻だ」と言い、この承認を求めるようなパロールである。これが承認されれば、私と汝は夫婦という社会的関係によって結びつけられる。そしてもう一つは「見せかけ」であり、これはラカンが「嘘のパロール」ものに関係している。 ここでラカンは、クラクフとレンベルクの機知を挙げているが、 つまりパロールは本質的に嘘の可能性を常に含んでいるのであって、それが本当は何を意味しているかと言う裏側の真理を常に持っているということである。

この「信頼」と「見せかけ」という二つの機能は、ラカンがセミネール1巻で言っている、「媒介」と「暴露」という二つの機能と一致しているように思われる(「見せかけ」と「暴露」はむしろ正反対のことを言っているが、それゆえに同じ機能の両面である)。この二つの機能を言語の機能としてどのように統一的に把握できるか、あるいはどのようの関係を持っているのかということがなかなかわからなかったのである。しかし、セミネール1巻の方では、こう言われている。

「パロールが遮られる点というのは、恐らく何ものかがパロールを根本的に不可能にしているという意味です。それは、分析においてはパロールがその媒介という第一の面へとすっかり重心を移してしまい、他者との関係という機能だけになってしまう要の点です。その時パロールが媒介として機能しているということは、暴露するものとしては十分に機能していないということです。」(S1、上巻、p. 82)

分析の場で抵抗が働くと、パロールが遮られる。語られるべきことが語られなくなる。その時に何が起こっているか、それは、パロールの機能が「媒介」機能に重心を移してしまい、「暴露」の機能が十分に機能しなくなるというのである。つまり、「媒介」と「暴露」はある種のシーソーの関係にあるらしい。あるいは、暴露の代わりに媒介がある。ある真理が(つまり<死>が)暴露されようとした時に、抵抗が働き、暴露の代わりに目の前の他者とある社会的関係に入ろうとする「媒介」機能が働き出す。そしておそらく、媒介が達成されることで暴露はされずに済む。つまり、社会的関係はすなわち社会は、ある真理を覆蔵することによって結ばれるということなのだろうか。ここでラカンが分析家の「現前」ということにも少し触れていることに注意したい。転移、抵抗、パロールのメカニズム。

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Mehlman.(1972) Floating Signifier Levi-Strauss
メールマンは次第に精神分析の話に比重を移していく。まず扱われているのはセルジュ・ルクレールの『精神分析すること』やラプランシュ&ポンタリス『幻想の起源』、『精神分析用語辞典』の内容である。彼らはラカンの弟子世代で、初期のラカン研究で参照された。僕はあまり読んだことがないのであまりついていけないが、フランスとアメリカにおけるフロイト受容の違いは、「フランス人は無意識を脱生物学化しようとしたこと」(Mehlman, p. 19)であると言われている。これはラカンがローマ講演でBenassyの欲動論を批判する時とも似た論調である。彼らの著作では主に「幻想」について論じられているらしい。邦訳もあるので今度確認しておく。

その次にはアメリカ自我心理学における統合機能としての「自我」と、ラカンにおける他者へ疎外された「自我」との違いが述べられ、アメリカ精神分析の潮流(E・クリス)や文学における「ニュー・クリティシズム」運動などの話があり(よく知らない)、再度モースとレヴィ=ストロースの話へ移る。

レヴィ=ストロースの「序文」の議論。人類学ではモース、そして近い時期の言語学ではヤコブソンやトゥルベツコイの構造主義言語学があり、それらが「コミュニケーションの広い科学vast science communication」を形成していくだろう。そして、メールマンはその科学の発足inceptionにあたるのが『親族の基本構造』であると考える。

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“2024/9/2”. への2件のフィードバック

  1. 2024/9/18 – shanazawa.com

    […] 「パロールの機能のある面から別の面へ」というのは、パロールの二つの側面、つまり関係を創設する媒介の側面と、真理を暴露する側面のことではないだろうか(cf. 2024/9/2の記事https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/02/2024-9-2/)。 […]

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  2. 2024/11/7 – shanazawa.com

    […] 修論の最終部にあたるラカンのパロール論を書き進めた。セミネール1巻の議論は大体書いた。この後にさらに発展形としてセミネール3巻の議論も書こうと思っているのだが、シェーマLの説明もしないといけなくなるし、なかなかにややこしい話になりそうなので、一旦後回し。時間があったらやる。明日以降はレーナルト章をブラッシュアップかな。なお、以下の内容は9/2(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/02/2024-9-2/)および9/18(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/09/18/2024-9-18/)で扱った。 […]

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