修論に向けたレヴィ=ストロース論。ジャン=ミシェル・パルミエ(岸田秀訳)(1977[原著1970])『ラカン 象徴的なものと想像的なもの』補遺「ラカンとレヴィ=ストロース」(pp. 202-225)を読んだ。細かな分析はないが、当時の学問的な状況の中で、かなり妥当な認識を持っていたなという印象。含蓄もある。原著は1970年に出版なので、ラカンが生きていた頃、それもアンコールのセミネール(1972年)よりもさらに前である。エクリ出版の4年後であり、リクールのフロイト論、「無意識は言語のように構造化されている」、隠喩と換喩などの主題がホットなトピックであった時代。フロイトの「無意識」を言語学や修辞学のメカニズムで本当に語ることができるのか、論争があった時代である。
ラカンやレヴィ=ストロース、そしてフーコーやアルチュセールらは「 人間を人間には見えないある世界に従属させるように思われるある種の脱中心化(décentrement)」(p. 205)を行った言われ、ミケル・デュフレンヌMikel Dufrenneやアンリ・ルフェーヴルから「反ヒューマニズム」の烙印を押されていた。しかし、著者パルミエによれば、
「生涯のある期間を、熱病と西洋文明と飢饉のために大量に殺されたインディアンの諸部族、彼の目には、彼の目だけには、人間の尊厳を、たとえ最後であろうと、人間に認める尊厳の全てを具現していたインディアンの諸部族の情熱的な研究に捧げた1人の民族学者と 1人の精神分析者の特徴を、反ヒューマニズムにあるとするのは、認めがたいことである。」(p. 206)
なるほどたしかに。レヴィ=ストロースほどネイティヴ・アメリカンに寄り添い、彼らの生を新鮮に描きだそうと努力した人物もいない。そんな人物を「反ヒューマニズム」と形容するのは、パルミエは許容できないわけである。パルミエにとってむしろ「ヒューマニズム」はフロイトやレヴィ=ストロース(、そしてラカン)のような人々にこそ相応しい。「人間はつねに己自身の死を生きてきたのではなかろうか」。ラカンとヒューマニズム、あるいは構造主義とヒューマニズムという主題はきわめて重要である。
レヴィ=ストロースは、人々がその中に生き、それに動かされているところの全体的な法則を、数学的な構造の発想を用いて分析することを試みた。ここには「意味するもの(シニフィアン)の問題がある」(p. 211)。ここでパルミエはデリダの『声と現象』を注にあげている。後で余裕があればどういう議論かざっと見てみよう。
レヴィ=ストロースとラカンはどちらも言語学的モデルを利用しているのであるが、精神分析と人類学の結合ということについてパルミエが参照を勧めているのが、『構造人類学』所収の「言語学および人類学における構造的分析」である。この論文でレヴィ=ストロースは、トゥルベツコイの音韻論が単語を独立した存在として扱うのではなく、語と語の間の関係を分析していることを評価し、ここに「体系(システム)」の概念が導入されていると指摘しているという。
また、ラカンのレヴィ=ストロースに対する言及としては、「<盗まれた手紙>についてのセミネール」にある「双分組織」に関する言及、「神経症者の個人的神」における「個人的神話を家族的布置と同一視」する見方(p. 214)、「鏡像段階」論文における「イマゴーの役割と結びついた象徴的効果の重要性」、そして「ローマ講演」におけるレヴィ=ストロースへの言及がある。レヴィ=ストロースの論文「双分組織は実在するか」(1956)はここでものちに読解しようと思う。
その後にパルミエは「文字の審級」において導入される、隠喩と換喩の分数定式の話をするのだが、レヴィ=ストロースとこの議論がどう結びつくのか分かりにくい。このようなラカンの定式化が正しいのかどうかという問題は当時、リクールによる批判などとともに論争されており、それは無意識は本当に言語のように構造化されているのか?という問いとも関わっている。ラプランシュやセルジュ・ルクレールらラカンの弟子たちがこれを発展させたこと、そしてポリツェルやリクールの解釈が誤っていることなどが触れられている(しかしパルミエは注の中で、リクールの無意識論は一部評価するところがある、ラカンも賛成するだろう部分があることを強調している)。
ここは興味深い。フロイトの理論において、無意識的な行為や現象は「あたかも別の人格に属しているものとして判断しなければならない」(p. 219)。これは意識と無意識との間にはっきりとした線引きをすることを意味する。そしてこれに対してポリツェルやリクールは「この別の人格を分析者と同一視」したらしい。パルミエはそれを批判している。「無意識に認めるべき地位について言える事は、ただ『エスはしゃべる』という事だけである」(p. 219)。ポリツェルとラカンの関係については日本語の論文に以下のものがある。参考に。
・井上卓也(2019)_「具体的なもの」の科学へ―ポリツェルの具体心理学と初期ラカン_I.R.S.ージャック・ラカン研究―_18_p. 128-152
・河野一紀(2021)_1930-40年代のラカンの思索における無意識概念について_追手門学院大学学生相談室年報 31 2-12, 2021
・河野一紀(2022)_初期ラカンにおける反還元主義 : 学位論文における心理-器質平行論批判を中心に_梅花女子大学心理こども学部紀要_12_p. 28-42
ラカンの影響を受けながら非ラカン的な精神分析を展開していった弟子世代も紹介されている。コンラト・シュターン(C・シュターン。誰?スペルがわからないし調べても出てこない)とアンドレ・グリーンらは、ラカンがフロイトの無意識のメカニズムに言語学的モデルを適用することに対して留保をつけている。パルミエ自身は、これを教義化するのでもなく、軽視するのでもない中立的立場をとる。「無意識過程を表すために言語学的構造を用いるのは、結局、1つの研究仮説であって、ドグマにしてはならないということだけである。このような考え方の豊かさは、理解し、解明するのに役立つと言うことにある」(p. 221)。
明日以降はレヴィ=ストロースの『構造人類学』に収録された「双分組織は実在するか」(1956)と「言語学および人類学における構造的分析」(1945)を読む。並行して、先行研究であるMehlman.(1972) Floating Signifier Levi-Straussを読む。
先行研究からはいるのか、研究対象の本文から入るのかというのは循環問題であって、どちらが良いとも言えないのではないかと思う。ラカンのエクリとセミネールのように、並行的に読んでいくのがいいのだろうと思うが、とはいえ、先行研究集めのようなプロパーなことをするにあたってはやはり議論を前もって知っておかないと批判点を洗い出したりすることもできないので、ほとんど知らないような領域についていきなり先行研究集めをするのは危ういとも思う。幸い、僕は先行研究に当たるのが遅れたため、研究者としては資格に欠けていたが、ラカンの文章自体は結構頑張って読んでいたという強みがある。人類学の議論も、あらかじめレヴィ=ストロースを過去数ヶ月にたくさん読んでいたので、先行研究にもついていける。
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