今日はヨーガの日。2時間ほど丁寧に体操をして、50分ほど瞑想。いつも眠気との戦いだが、ヨガの日に限ってはやく目が覚める。だいたい最初の5〜10分ほどは先生の指示に従って呼吸に意識を集中させることができる。だが、だんだんと脳内で連想のような半分夢のような状態に入り、身体がコクっと傾くと、自分が寝かけていたことに気づいて体勢を立て直す、の繰り返し。
もちろん、普段からトレーニングしたり(丹田を鍛えるトレーニングがある)、瞑想したりしているわけではないので、そういう基礎の部分ができておらず、根本的に修行不足という前提はある。月に一度頑張ってみたところで上手くいくわけはない。とはいえ、意識の持っていきかたなど色々試してみてはいる。
最初は座法も辛かったし1時間近く座り続けるのはなかなかしんどかったが、今では坐ること自体の苦痛は、1時間前後ではほとんど感じない。むしろ集中力の途切れと眠気をどうするかである。
呼吸にイメージを伴わせながら行うのだが、少しでも気を抜くと一気に夢の世界に連れて行かれる。呼吸をしている身体の動きに集中しても、息を吐くときの脱力したわずかな時間で連想が始まる。連想ではダメなのだ。瞑想は、シュールレアリズム的な自由連想とは全く違う。そこは西洋哲学や芸術実践のようなものとは違う。
1時間近く坐ってうとうとしながら踏ん張っていると、途中や最後の方の数分間、ふっと目が覚めてすっきりした意識のなか集中できるときも訪れる。そういうときは、無関係な連想はなくて、呼吸の感覚と、身体の中での意識の焦点の移動を操作する感覚がある。
ただし、そんなのは序の口の序の口で、もっと深く潜ると身体感覚がなくなって、眠気もふっとんで、長時間続けられるらしい。先生によれば、瞑想をやっていると色々な展開があるという。ただじっと耐えるだけの行法ではない。しかしそれは自由連想的な想念の運動ではない。ヨーガ・スートラを読むと、ヨーガの深さにはいくつもの段階があるが、僕の段階は入り口にも立っていないくらいである。というか、おそらく厳密には瞑想とも言えない段階だろう。
サマーディ(三昧)に入るまでに長い道のりがあり、三昧の中にも深さの段階がある。
「神秘主義」は修行、実践、行法の中ではじめてつかむことのできるものだと思う。インドの思想、瞑想、仏教、キリスト教神秘主義、みな行法は違えど、修行的生活の中である種の神秘体験を得たところからでた思想である。もちろん、理論としてそれなりに到達できるところ、説明可能なところはある。道元だったら、分節世界の背後に無分節世界があるのだろう、とか。井筒のスーフィズムだったら根源的な意味の湧出点があるのだろう、とか。しかし、それを実際に授業を通じて感得することは、学問的に理解することとは全く違うことなのだほうし、なぜか人間というのは行法によってそういう次元に触れることができるらしい。それは精神病の妄想とは区別されるようなものである。
学問の中には、理屈でやってきた人たちの著作を読む領域と、神秘家たちを研究する領域がある。宗学とアカデミックな仏教研究は、どのように折り合いをつけてきたのか。仏教研究はなにをしているのか。詩の研究は何をしているのか。
それは精神分析の研究も似ている。精神分析が行法と見做せるとは思わないが、分析もまた実践である。新興宗教の修行くらいの洗練はされてきたものでもある。
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