2024/8/23

ダメ押しの欧語論文として、

・Mercedes Blanco_Le trait d’esprit de Freud à Lacan_Savoirs et clinique 2002/1 (no1), pages 75 à 96
・Pierre Naveau_Lacan, le Witz_La Cause freudienne 2011/3 (N° 79), pages 235 à 238

の二つを読んだ。

Blancoの論文は結構長く(二段組)、フロイトの『機知』の全体と、ラカンの『無意識の形成物』の議論を論じるような内容であった。フロイトの『機知』の議論に関する批判的検討のようなものがあった気がするが、ざっと読み飛ばしたのであまり覚えていない。今回の主題である隠喩の機制に関して言えば、シニョレリ、ファミリオネール、眠れるボアズ、アテレのすべての例が登場する。ラカンの断片的な語をうまく解釈しまとめているように思えるが、「換喩」に関して僕と解釈違いもあった。これはルメールの時にもそうだった。

端的に言えば、Blancoは音的に似ているものの関係を総じて「換喩」と言っているようにおもわれる。Blancoもルメールも、「シニョレリ」において登場した「ボッティチェッリ」を換喩(的残骸)だと言っている(ボルトラフィオも)が、僕の理解では換喩的残骸は「ボ」や「エリ」である。またBlancoは「familière」から「famillionnaire」への置き換えが「換喩的近接性」によって生じたというが(p. 87)、同音異義による置き換えは隠喩的なものである。

換喩に関する解釈に疑問があるほか、「抑圧」「禁圧」「忘却」についての区別はないし、分数定式の分析もされていない。

まあ、この辺りのことを全部書くと文字数オーバーしてしまうので、簡単な紹介と、注の中で少し触れる程度にするつもりである。Blancoの論文はヤコブソンの議論も踏まえているし(この辺りもルメールと同じ)、欲望のグラフについても詳細に見ているので、機知に関するより広範な研究をするときに再度読み返す論文になるだろう。

Naveauの論文は短いもので、今回の主題に関わるような議論はあまりなされていなかった(あっても断片的)。しかし、「機知」の議論をラカンの広い年代のテクストを引いて跳躍的に繋いでいくものになっていて、ローマ講演、1967年の提言、テレヴィジオン、セミネール5巻、24巻の議論など、断片的ながらバラエティに富んでいた。批判対象にするというよりは、今後広くラカンの機知論を扱うにあたって見取り図を描けるような仕事であった。

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ここ1週間ほど論文を書いており、8月の前半に金を使いすぎたので手元の現金がなくなり、じゃあこのまま銀行行かずに給料受け取るまで節約するか、と家でずっと過ごしている。この日誌をはじめてから引きこもりが加速したように思う(金もないので)、というか、1日のノルマは午前中に終わるので暇なのだが、それで結構暇を持て余している。本もゴロゴロしながら読むが、そんなに何時間もぶっ通しで読み耽るタイプでないし、右手が腱鞘炎になりそうなところを守りつつなのでギターのピッキングでも疲れる。ただ、これまでと違うのは、暇なのに寂しくならないということだ。でも、寂しくならないというのは人に興味がなくなるということであり、人に連絡しなくなるということでもあり、そうなると人からの連絡もこないので、こんな調子で将来大丈夫かなと漠然と感じたりはする。異常気象の夏であるが、夕方の空と雲が綺麗で、タバコを吸って買い出しに行くのが毎日気持ちいい。

とにかく右手の腱鞘炎予備軍はなんとかする必要がある。論文を送信したら、完全に作業ゼロのオフ日を設ける。かなり暇になると思うので、昼間から買い物に行って、何か時間のかかりそうな美味しいものでもつくる。

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