細かい直しをしたら、1万字を超えた。残り2000字もない。できればもう少し先行研究の検討を充実させたいのだが、ここからどう文字を押し込んでいくかの戦いが始まる。
A. ルメール(原著第三版1977[初版1970])(長岡訳)『ジャック・ラカン入門』と佐々木孝次(1984)『ラカンの世界』を読んだ。ミレールによって校訂を受けたSeuil版「セミネール」の第5巻『無意識の形成物Les formations de l’inconscient』の刊行は1998年であるため、この2冊はSeuil版の刊行より前に書かれたラカンに関する解説書・研究書である。
機知の技法に関する議論、なかでも「シニョレリ」「ファミリオネール」「眠れるボアズ」については、佐々木はルメールのこの本の内容をほぼそのまま紹介している。ただし、佐々木はさらにパトリック・ドラローシュPatrick Delarocheの1981年の著作から「アテレ」の議論をも引いている。
セミネール発売以前にもかかわらずやけにルメールの記述が正確なのに驚いたが、よくよく参考文献を見ると、「bulletin de Psychologie」という雑誌でルメールが「無意識の形成物」セミネールの議論を確認できていたことがわかった。はじめて知ったのだが、この「bulletin de Psychologie」は、ラカンのセミネールの内容をポンタリスがかなりリアルタイムに(いつのセミネールからかは分からないが)(おそらく要約して)報告していたものらしい。セミネール発売前のラカンの弟子たちや研究者たちは、これを参考にセミネールの議論を組み立てていたのだろう。
ルメールは、フロイトにおける「圧縮」概念に二つの異なった形式があると主張している(p. 290)。一つは「潜在的な思想の省略法」であり、もう一つは「共通の特徴を持つ複数の潜在的な要素」を一つの顕在的要素に集約的に表現されることである。
第一の形式においてはフロイトとラカンの差異が強調される。フロイトにおいては顕在的要素はその要素を多重決定する複数の潜在的要素たちと紐づいている(それら潜在要素たちの間には必ずしも結びつきはない)。しかし、ルメールの見るところによれば、ラカンは、フロイトの夢理論を言語学的な言語法則に対応させることに失敗している。なぜなら、「言語学上の選別は、最初のシニフィアンに置き換えられうるような、類似の関連で結ばれた別の複数のシニフィアンのなかからひとつを選び取ることである」(p. 291)。つまり言語学そのものにしたがうなら、潜在的諸要素は、フロイトとは異なって「類似の関連」を持たなくてはならないという。しかしラカンは、フロイトに言語学を適用しながら、なおかつ「類似にはほとんど関心を寄せていない」(p. 291)。
第二の形式において、ラカンの理論は正当化可能であるとルメールはいい(p. 293)、ファミリオネールの機知を紹介している。その解釈は大体僕と同じ。
「シニョレリ」の解説において、ルメールは踏み込んだ解釈を行う。
「連想の大部分は、たとえラカンが代理の名前の換喩くずれについて語ったとしても、隠喩的な性質をもっている。 ボ(B)とトラフィオ(Trafio)は、抑圧された完全な記号表現の音素ないし部分でしかない、という意味では<換喩くずれ>である。/それゆえ、ある意味では、たとえば、ボッティチェリが一方でボスニアの換喩であり、他方でシニョレリの換喩である、とも言えよう。なぜならボッティチェリが両者の一部分だけを再現しているからである。しかし別の見方からすると、(ボッティチェリの)ボと(ボスニアの)ボとを結びつけている絆(図式をそのつど参照のこと)は隠喩的であり、トラフィオとトラフォイを結びつけている絆も同様である。」(p. 303)
「ボ」が、もとになった「ボスニア」の換喩的残骸であることには同意するが、「トラフィオ」が「トラフォイ」の換喩的残骸であることには同意しない(しかし、ルメールは直後に「トラフィオ」と「トラフォイ」を結びつけている絆は隠喩であると言っている)。また、「ボ」も「トラフィオ」も、抑圧されたシニフィアンの要素ではない。「トラフィオ」については措くとしても、「ボ」は抑圧されていない。抑圧されたのは「シニョレリ」であり、「ボ」は「禁圧」された「Herr」によってもたらされた解体の結果である。また、「ボッティチェリ」が「ボスニア」及び「シニョレリ」の換喩であるというのにも同意しない。語の形が似ているものの置き換えは隠喩である、というのが僕の理解である。
ただし、ルメールはそれでは換喩と隠喩について曖昧な理解しかしていないのかというと、どうやらそうでもないらしい。本書ではヤコブソンの言語学の解説も繰り返しなされており、換喩と隠喩と失語症に関する論文と思われる議論も出てくる(p. 44-51)。そこでは、換喩的関係は「連想されるそれぞれの語の意味上の結びつきにもとづいた」進行(連想の進み)であり、隠喩的関係は「それぞれの語の類似にもとづいた」過程であると言われている。これには僕も同意するのである。したがって、ルメール自身の内部で、換喩と隠喩の用法にずれがあるということなのだろうか。ここは、今回の論文で決着をつけられる部分ではない。ただ、「抑圧」と「禁圧」、「忘却」の区別については述べられていない。
ルメールにない要素として、佐々木はドラローシュの「アテレ」に関する議論を紹介している。そこでは「abattuから「atterré」へと隠喩的な置き換えがあったと述べられており、これは確かにラカンの発言とも一致するのであるが、これだけだと、「atterré」が単なる新作造語ではなく、昔からあったものの意味変化であるということが見逃されてしまう。したがって僕自身は論文の中で、意味の異なる二つの「atterré」を想定し、旧「atterré」を新「atterré」に置き換えるという隠喩があったのだと解釈した。
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