2024/8/21

9000字程度まで書いた。内容としてはほぼ終盤である。この研究日誌の内容をもとに、再度整理しながら書いていく。ただ、「シニョレリ」「アテレ」「ファミリオネール」「眠れるボアズ」の違いとカテゴリー分けについて修正点も出てきた。

シニョレリアテレファミリオネール眠れるボアズ
解体(忘却)
新たな意味の獲得

こうすればよいのではないか。よりコンパクト、かつ二つのカテゴリーの4つの組み合わせを網羅する形で、四つの事例の分類ができた。なお、「解体(忘却)」が✕であるのは、抑圧が語の全体に及んでいることを意味している。また、「新たな意味の獲得」が✕である「シニョレリ」と「ファミリオネール」には、新語が創造されたか否かという結果の違いがある。

あとは注や参考文献を充実させ、セミネールの原語や原文を確認する。

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アンドレ・ジッドの小品に「鎖を離れたプロメテLe Prométhée mal enchaîné」(「ちゃんと鎖に繋がれていないプロメテ」というニュアンスか)というのがある。

銀行家に化けたゼウスがパリの通りを歩いていて、ハンカチを落とす。それを拾った男がゼウスにハンカチを渡すと、ゼウスはその人に、500フランの入った封筒になんでもいいから宛名を書いてくれと頼む。お人好しのその人は適当に宛名を書いてゼウスに渡すと、直後、ゼウスは男に大きな平手打ちを喰らわす。あたりが驚愕している隙に、ゼウスは馬車に乗って姿をくらましてしまう。

その後、飲食店で3人の男が相席で食事をする。プロメテ、ダモクレス、コクレスである。3人は会話を交わすが、そこで、コクレスがゼウスに平手打ちを喰らわされ、ダモクレスが500フランの入った封筒の宛先人であったことが判明する。この二人は、片方が損失を被り、もう片方が利益を被ったのである。「平手打ち」と「500フランの金」、このなんの関係もない二つの事象に、ある関係がもたらされたことになる。ゼウスは、何にも縛られない、動機付けられない、原因づけられない行為をすべく、暴挙に出たという。その「無償の行為acte gratuit」によって、二人の人間が関係付けられ、そこに偏りが生まれた。

その後、プロメテウスは自らの肝をついばむ「鷲」について演説し、コクレスは「鷲」に片目をくり抜かれ、ダモクレスは死んでしまうのだが、それは置いておいて、ラカンはセミネール5巻『無意識の形成物』上巻にてジッドのこの話を引いている。というのも、ここでゼウスは「金満家」と翻訳されているのだが、その原語である「Miglionnaire」(正しいフランス語は「millionnaire」。この造語はイタリア語で発音するべきだとラカンはいう)が、ハイネの機知における「famillionnaire」という新語創作と同じだからだという。つまり、ジッドは言葉遊びを用いて「Miglionnaire」という新たな概念的人物を創造した。それと同様に、ハイネもまた「Famillionnaire」という新語創作によって、millionnaireともfamilierとも異なる、新たなニュアンスの概念を創造したということをラカンは言おうとしているのだと思う。

ラカンの文章を抜き出してみよう。少し長いが、以下で全てである。

「この「ファミリオネール」よりも、さらにそれに近づいた創造物はたくさんあります。ジッドの「鎖を解かれたプロメテウス』の物語は、その全体が、本当に神であるというよりは機械であるようなもの、つまり銀行家ゼウスを中心に展開されているのですが、そのゼウスをジッドは「金満家 Miglionnaire」と呼んでいます。これはフランス語 ふうに発音しなければならないのでしょうか、それともイタリア語ふうに発音しなければならないのでしょうか。よく分かりませんが、私は、イタリア語ふうに発音しなければならないと思います。機知の創造において「金満家 Miglionnaire」が果たす本質的な役割を、フロイトのなかで説明してみましょう。」(S5上巻、p. 54-55)

また、

「「ファミリオネール famillionnaire」は、ある存在を表すものとして生まれてきますが、その存在は、我々にとって大富豪 millionnaire の持っているかなり控え目な現実性と重みよりも、はるかにしっかりした現実性と重みを持つことがあり得ます。私はまた、「ファミリオネール famillionnaire」が、その存在のうちに、歴史上のある時代に特徴的な人物を真に表現するのに十分なだけの生気を与える力を、どれくらい保持しているかについても申し上げました。そして、ジッドの「鎖を解かれたプロメテウス」とその「金満家Miglionnaire」についてお話しすることによって私 が最後に指摘したのは、そのような特徴的な人物を生み出したのはハイネだけではなかった、ということです。 このジッドの創造物に少しばかり注意を向けるのは、たいへん興味深いことでしょう。「金満家」とは銀行家のゼウスのことです。この人物が練り上げられている仕方以上に驚くべきものはありません。ジッドのこの作品が残した記憶のなかでは、この作品は、『パリュード』の前代未聞の輝きによって影が薄くなっているかもしれません。しかし、この作品は『パリュード』の一種の分身です。これら二つの作品において問題となっているのは、同じ人物です。 そこでは多くの特徴が合致しています。いずれにせよ、「金満家」は彼の同類たちに対して特異な行動を取ります。 というのも、無償の[=動機のない]行為acte gratuitという観念が出てくるのが見られるのは、まさにそこにおいてだからです。」(pp. 67-8)

「実際、銀行家ゼウスは誰とであれ、真の、本来的な交換を行うことができません。これは、彼がここで絶対的な力に同一視されているから、つまり、お金のうちに存在し、あらゆる可能な意味作用的交換の存在を問題にするような「純粋シニフィアン pur signifiant」という側面に同一視されているからです。彼が孤独から抜け出すために見つけだす方法は、次のような仕方で行動すること以外にはありません。彼は一通の封筒を一方の手に持って往来に出ます。その封筒には五〇〇フラン札が入っていて、これは当時それなりの価値を持っていました。もう一方の手には、こう表現できるとするなら、平手打ちを用意しています。彼はその封筒をわざと落とします。ある人が親切にも彼にそれを拾い上げてくれます。ゼウスはその人に、名前と住所を一つずつ封筒の上に書いてくれるよう申し出ます。そのお返しに、彼はその人に平手打ちを与えます。さすがゼウスであるだけのことはあって、それはもの凄い平手打ちであり、これはその人を呆然とさせ傷つけます。さて、ゼウスはうまくその場を離れて、封筒の中身を、彼が辛い目にあわせたばかりのその人によって書かれた名の人物のところへ送るのです。」(p. 68)

「こうして彼は、自分自身では何も選ばなかったという立場、そして、彼自身には何も負っていないような贈与によって、動機のない悪意を償ったという立場に立つわけです。彼の努力は、彼の行為によって交換の循環を再建するということであり、この循環は、いかなる仕方によっても、またいかなる抜け道においても、彼自身を迎え入れるということはあり得ません。ゼウスはそのなかに、いわば不法侵入によって加わろうとします。つまり、彼が何のかかわりもないような一種の負債を産み出すことによってそうするのです。小説の続きでは、二人の登場人物[平手打ちを食った人と封筒を受け取った人]が、彼らが互いに負っているいのを一致させるにはけっして至らないであろう、という事実が明らかになって行きます。そうして二人のうちの一方はほとんど片目となり、もう一方は死ぬことになるのです。/これが、小説のお話のすべてです。まったく有益かつ教訓的であり、我々がここで示そうとしている事柄に関して役に立ちますね。」(pp. 68-9)

ゼウスという登場人物は究極の贈与者、つまり神である。ゼウスだけが「無償の行為」を開始することができ、ゼウス以外の人々がその贈与物によって交換を行うことができる。そこでラカンはゼウスに「純粋シニフィアンpur signifiant」、つまり人類学におけるマナやハウなどの「浮遊するシニフィアン」の機能を見てとる。神からの贈与は、同時に負債でもある。何かを持つということは、他の誰かがそれを持たないということであり、他の誰かの損失が自分の利益になっているということを意味する。ダモクレスは死ぬ間際、自らの得た500フランという負債を手放せないこと、手放そうとしても常にその交換として何かを得てしまうことに絶望する。

「ダモクレスの最後は立派であった。彼が死の直前にいった言葉は、最も不信仰の者を泣かしめ、最も思索を積んだ者をして堂々たる言葉だと認めしめるであろう。就中、その最も優れた感情は、次の言葉に現れている。『私は、ともあれ、あのことによって、彼が何ものも失わなかったのなら、それ以上望むところはない。』
『彼って誰だ?』と一人が聞いた。
『私に…何かをくれた、——<あの人>。』とダモクレスは息を引き取りながらいった。
『人ぢゃない!——それは神様です。』と給仕がたくみに反駁した。
この和やかな言葉のうちに、ダモクレスは死んだ。」(『アンドレ・ジイド全集』第八巻、新潮社版、昭和25年、p. 268)

ゼウスはその贈与によって何も失わなかった。彼は無尽蔵の財力を持つ銀行家だからである。ゼウスは言う。「私だけが、つまり無限の財産を持つ者のみが、絶対に利益と関係なしに行動できるのだ。人間には出来やしない。ここから私の賭けに対する愛が由来する」(p. 261)。神がはじめにその絶対的贈与、賭け、無償の行為によって財の布置を設定する。そして不均衡な財の布置そのものが、人間に負債感を与え、交換体系の原動力となる。

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