5000字くらいまで書いた。順調。色々調べていて、アニカ・ルメールと佐々木孝次がファミリオネールのメカニズムについて書いているとわかったので、一応それも最終的には入れる。
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今日はへとへとに疲れた。午前中は執筆して、昼頃から水道橋から本郷の方を歩いたり走ったりし、夕方からは中野でバイト。ただ、身体が疲れるとそわそわしなくなるから良い。人文系の人間の問題は、頭ばかり疲れて身体のエネルギーが停滞しているからではないか。いわば、金縛りの逆で、精神的には動けなくなるのに身体は動きたがっているから、そわそわして欲求不満になるのである。
頭と身体をどちらもそれなりに使う、あるいはどちらも休ませる。そのバランスを考えてみよう。せっかくヨーガを教わっているのだから。ただ、瞑想はどうなんだろう。
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図書館でジッドの「鎖を離れたプロメテ」の収録された全集と、鶴岡賀雄『十字架のヨハネ研究』を借りた。「プロメテ」はセミネール5巻でラカンが言及しており、「十字架のヨハネ」は大体セミネール3巻くらいの時期からラカンが繰り返し言及する神秘家である。ラカンは哲学教師のバリュジから十字架のヨハネについて学んでおり、またコイレのヤコブ・ベーメ研究にも影響を受けている。ほかにはアンゲリウス・シレジウスの名も上がる。精神分析と神秘主義というテーマでは、ラカンのセミネールに出席していたミシェル・ド・セルトーがいる。ラカンと神秘主義に関する研究は少ないが存在しており、同じ東大のおそらく今博士課程の林蓮太朗氏による研究史のコンパクトなまとめも読むことができる(https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/2005618/files/rel039015.pdf)。それから、ラカンの影響元としてはアンリ・ドラクロワやウィリアム・ジェイムズの心理学的な神秘主義研究も挙げられるだろう。
神秘主義は哲学を学び始めた当初、素人ながら惹かれていた領域でもある。マイスター・エックハルトを借りた記憶がある。当時はアリストテレス研究者の千葉惠先生の篤い信仰心に感化されて、何か宗教的なものに憧れがあった。信じることと知ることは何が違うのだろう、とか考えていた。日本の言語思想の中でも言霊の思想に惹かれる。でも、いざ少し調べてみると、あまりのぶっ飛び具合に辟易して、なんというか、一つの神話世界を学んでいるような気持ちになる。要するに、コスパが悪い!というセンサーが働き出す。コスパ的には、一つの具体的な世界観ではなく、世界がいかなるものであるかについての、あるいは人間が世界観を持つとはどういうことなのかについての、普遍的な理論を手っ取り早く知りたいという傾向がある。
神秘主義者の意識状態はどうなっているのか。彼らは決して盲目ではない。同じものを感じ、同じことを認識したり、計算したりするはずである。しかし同時に、彼らにとってはあのような言説が確信を持って打ち出されている。ラカンはシュレーバーについて語ると同時に、神秘家や詩人と精神病者は全く異なるとも言う。
日本の思想を学ぶときには、神秘主義的な態度との向き合いが必要だと思う。言霊思想家は、要するに日本の神秘主義者である。仏教家もそうである。
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