昨日最後に問題になった、「シニフィアンの下でのシニフィエの絶え間ない滑動(ずれ)」というのは、ソシュールが『一般言語学講義』の中で示していたアモルフの図をイメージしてラカンが述べているものでもある。この図に関する言及はセミネール3巻『精神病』でも登場し、そこではソシュールが「思考」(=シニフィエ)と読んだ層のアモルフは流動的で、区切りがないということが強調されていた。
つまり、言葉はそれが言いかけの段階ではさまざまな意味の流動状態にある。語りが進んでいくことによって、ある言葉のシニフィカシオン=用法(に関する予期)は変化する。言葉の意味の変化は、ディスクールの中で起こることもあるし、歴史的に起こることもある。
「アテレ」や「ファミリオネール」で起きていることをこの観点で捉える必要があるか。
置き換えと隠喩。ラカンは、置き換えと隠喩が同じものではないことを強調している。置き換えは隠喩を可能にする条件である。
「置き換えとは、そこで隠喩の作用が打ち立てられるような分節化、シニフィアン的手段です。これは、置き換えが隠喩であるということではありません。私はここで、あらゆる経路を明確な仕方で進んで行くことを皆さんに教えているわけですが、これはまさに、皆さんが言語をひたすら濫用する、ということがないようにするためです。隠喩は置き換えの水準で生じるということ、これは、置き換えがシニフィアンの分節化の可能性の一つであること、そして、隠喩は、置き換えが起こり得るところでシニフィエの創造という機能を果たしていることを意味しますが、これらは別々の事柄です。同様に、換喩と結合も別々の事柄です。」(『無意識の形成物』上巻、p. 49)
置き換えと隠喩は同じではない。換喩と結合も同じではない。
ファミリオネール、アテレ、シニョレリの三つの話を、同じメカニズムで捉えられるようにしたい。S/s、S’/s’の約分に直すと、
ファミリオネール:(famillionnaire/famille)・(famille/?)
アテレ:(atterré/terre)・(terre/terreur)
シニョレリ:(X/Signor)・(Signor/Herr)
となるはずである。ファミリオネールの「?」で示しているところは、何がくるのかよくわからない。アテレとシニョレリにおいては、それぞれ「恐怖terreur」と「主Herr」であり、いずれも「死」に関わる禁圧unterdrücktされるものである(これに対してfamilleとSignorは「抑圧verdrängt」されるものとされる)。したがってファミリオネールの「?」には禁圧されるものが来るはずである。そしてそれは「famillionnaire」という創造物に、あるニュアンスとして付加されるものである。atterréにはterreurのニュアンスが付加された。シニョレリにおける「X」は、フロイトが隠喩形成物を創造することができなかったことを表している。代理形成が不可能だったために、そこには「度忘れ」が来たのである。ここで、いやフロイトは代理的に「ボッティチェッリ」と「ボルトラフィオ」を思い出したじゃないかと思われるかもしれないが、これはラカンの記述を見る限り「換喩的な瓦礫」(S5上巻、p. 48)であって隠喩形成物ではない。
先ほど、「禁圧unterdrückt」と「抑圧verdrängt」という区別をした。こう見ると、上の分数掛け算のうち、左下及び右上(terreやSignor)は抑圧され、右下(terreurやHerr)は禁圧されたということになる。そう考えると、片山の論文はこの抑圧と禁圧ということの区別を考慮していないように思われる。片山はfamillionnaireを「S2」、familleを「S1」とおいて、抑圧されたS1に対してS2の「置き換え」が起きたと考えている(片山、p. 29)。そうなると片山の論からは次の式が導出される。
(S1〔famillionnaire〕/S2〔famille〕)・(S2〔famille〕/?)
ただ、片山は注の中で次のように定式化している。
「ラカンの数学的比喩に従えば、signeの内的構造である<signifiant/signifé>で示されるX/S2とS2/S1の二つの隠喩について、その積に喩えられる両者の関係の値が分数演算の約分によってX/S1になる。」(片山、p. 36)
これを式に直すと、
(X/S2)・(S2/S1)=(X/S1)
となる。これは先ほど片山がS1を「famillionnaire」と規定していたこととはズレるのではないか。これは片山が、抑圧されるものと禁圧されるものについてのラカンの区別を考慮していなかったために生じる混乱である。
この区別についてラカンは次にように言っている。
「同時にここには、一方では「禁圧されたものI’unterdrückt」、他方では「抑圧されたものle verdrängt」の間に立てることのできるニュアンスの違いが見られます。「禁圧されたものl’unterdrückt」が、ただの一度きり、死すべき身の上ではそこまで下りて行くことのできないような条件において成立しさえすればよいのに対して、「シニョール Signor」が回路のなかで維持され、しばらくの間戻ってくることができないという場合には、何か別のものが問題となっています。フロイトが認めていることは、我々も是非認めなくてはなりません。それは、「シニョール Signor」をそこに保っておく特別な力、つまり、厳密な意味での「抑圧 Verdrängung」が存在するということです。」(『無意識の形成物』上巻、p. 51)
あるいは——
「そうした骨組みには二つの水準があります——まずは結合の水準で、そこには換喩的対象そのものが生み出されてくるような特権的な点が含まれています。もう一つは置き換えの水準で、そこには、ディスクールの連鎖と純粋状態のシニフィアン連鎖という二つの連鎖が出会うところに、メッセージが生み出されてくるような特権的な点が含まれています。「シニョール Signor」がコードーメッセージの回路のなかで抑圧され、「verdrängt」されるその一方で、「主人Herr」はディスクールの水準で「unterdrückt」されて[=禁圧されて]います。実際、「主人Herr」を囚われの身としたのはそれに先立つディスクールであり、そして皆さんが失われたシニフィアンの痕跡をたどることができるようにしているのは、対象の換喩的な瓦礫です。」(p. 52)
ラカンによれば、抑圧されたものは「コード-メッセージの回路」の中をぐるぐる回っており(「ボールのようにして送り返されている」、p. 51)、これが「記憶」つまり忘却と想起のメカニズムに関わっているらしい。これに対して、禁圧されたものはまた別の場所へと落とされており、これは想起というかたちでは決して表に出てくることのない次元である。だから「死」に関連する。
抑圧と禁圧について、ラカンはセミネール3巻でも言及している。
「フロイトのシュレーバー症例から他の箇所を引用しましょう。幻想の現実への再出現を説明すべき投影というメカニズムを、フロイトが精神病に固有のメカニズムとして取り上げる時、彼はこれを無条件に投影と言ってしまうことはできないと、ちょっと立ちどまって注意を促しています。この点は、たとえばいわゆる投影性の嫉妬妄想において、投影というメカニズムがどのように働いているのかを考えてみれば、余りにも明らかなことです。 つまりこの場合は、自分自身に罪があると想像的に感じている不実を、配偶者のせいにするのです。ところが迫害妄想はそれとは全く別の事態です。それは、解釈的直観という形で現実界の中に現われるのです。それをフロイトは次のような用語を使って述べています。「内的に抑えつけられた感覚が」——<抑圧 Verdrängung>とは象徴化であり、<禁圧Unterdrückung>とはただ何かが下へ落ちていることを示しているに過ぎません——「外部に向かって新たに投影される」——このことは、抑圧されているものと、抑圧されているものの回帰ということです——「という言い方は正しくない。むしろ、我々は、担絶されたものが」——皆さんは、この拒絶という語に強調点が置かれているのを多分憶えておいでですね——「外部から回帰すると言わなければならない」。」(『精神病』上巻、p. 75)
精神病においては「抑圧されたものの回帰」ではなく「排除されたものの再出現」が起こっているのだということの説明である。ラカンはここでほんの触れる程度であるが、抑圧と禁圧の違いを示している。抑圧は「象徴化」であり、禁圧は「何かが下へ落ちていること」であるという。おそらく、「禁圧Unterdrückung」についてセミネール5巻まででラカンが触れるのはこの二か所のみである。
いまざっと調べてみたら、片山は2023年の論文「主体と欲動」の中で「禁圧」について、セミネール11巻を読解しながら論じている。そこでは禁圧されるものはS2だと言っており、つまりは約分によって消失する「famille」や「terre」ということになってしまう。さらにラカンも11巻では、
「このテクスト〔シニョレリのテクスト〕そのものに、消失の、『押し下げUnterdrückung』の、つまり下へと移行することに、隠喩ではなく、現実そのものが現れるのを目の当たりにすることができるのではないでしょうか。『Signor』『Herr』という言葉が下へと移行します。絶対的主人、いわば死——それについてはかつてみなさんにお話ししました——がここで消えさっています。」(『精神分析の四基本概念』、岩波文庫、上巻、pp. 62-3)
とも言っており、「Signor」と「Herr」の両方が禁圧されるとも取れるようなことを言っている。これは混乱を招く。
バイト先でも色々と紙に書いたり読んだりして考えて、少しずつ整理されてきた。明日書いてみる。
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