2024/8/16

昨日の続き。片山文保_2012_「機知と他者——フロイト・ラカンの機知論について——」の第Ⅴ節「familionär」から。

ラカンはfamilière(馴染みある、仲間である)とmillionaire(金持ちの)という二つの要素が組み合わさって「famillionaire」ができた時に、第三項として「famille(家族)」が無意識下に抑圧されたと解釈しているらしいが、これを説明するために片山はフロイトの「単一化Unifizierung」(*「同一化」ではない)という機知の技法を引いている。フロイトは「単一化」を「表象相互間の関係、相互的な、ないし共通の第三のものへの関係による定義」(フロイト著作集4、p. 286)と説明している。例を見よう。

リヒテンベルクの機知。「一月という月は、人が友人たちにお祝いを言うWunsche darbringen〔希望を述べる〕月である。そしてそれ以外の月は、その希望の満たされない月である」(p. 285)。

要するに、一年のうちで1月はその年の抱負(期待すること)を述べ、あとの月はその抱負が叶わないこと(満たされない願望を抱く)を示している。フロイトはK・フィッシャーの記述を用いてこうも解説している。「人間の生涯は二つに分けられる。前半で後半のくることを待望し、後半では前半を取り返したいと願う」(p. 285)。ここで「単一化」を受ける二つの対立的要素とは、「1月」と「それ以外の月」であり、フロイトによれば、それらが第三項としての「祝賀Gluckwunsche」に関係付けられている。

フロイトはこれ以前の箇所でも「単一化」に触れていた。例えばシュライエルマッハーのものとされる機知に次のようなものがある。「嫉妬心とは、情念がつくり出したものを情熱を持って追求する激情である”Eifersucht ist eine Leidenschaft, dir mit Eifer sucht, was Leiden schafft.”」(p. 258)。ドイツ語がわかる方はぜひ発音してみてほしい。「嫉妬心Eifersucht」や「激情Leidenschaft」というドイツ語が、その単語を分解した言葉によって定義される、という機知である(ちょっとわかりにくくなるかもしれないが、いわば「嫉妬とは、激が情したものを嫉によって妬する激情である」というような文章になっている)。ここでフロイトは、「嫉妬心Eifersuchtがそれ自身の名前によって、いわば自己自身によって定義されることにより、ふつうは見られない連関が作り出され、一種の単一化が行われているわけである」(p. 259)と述べている。

また別のページでは、「正規のordentlich」と「特別な(非正規の)außerordentlich」という二項対立的な要素を用いたこんな機知が紹介されている。

「正教授と員外教授との区別は、正教授は何も特別なことをせず、員外教授は何も正規なことをしないと言う点にある。”Der Unterschied zwischen ordentlichen und außerordentlichen Professoren besteht darin, daß die ordentlichen nichts außerordentliches und die außerordentlichen nichts ordentliches leisten.”」(p. 262)

ここでは、「ordentlich」と「außerordentlich」が二項対立になって、互いを互いの否定によって規定するという関係が成立している(上の機知を言い換えれば、「正規とは非正規なことをしないことであり、非正規とは正規なことをしないことである」となる)。これはさきに見た「表象相互間の関係、相互的な、ないし共通の第三のものへの関係による定義」という「単一化」の定義に即している。あまり確信はないが、ここでの第三項は「Orden(結社、勲位)」だろうか。つまり正規・非正規を定める規約を持つ共同体の境界が、表には現れない形で問題になっているのかもしれない。

しかし、これが先ほどの「Eifersucht」の機知を何の関係にあるのだろうか。フロイトは「ordentlich」の機知においては、「Eifersucht」の機知の技法である「一つの概念をその言葉で定義する方法」(p. 263)も用いられていると述べる。「Eifersucht」と全く同じとは言えないだろうが、「außerordentlich」という一つの概念が「ordentlich」と「außer」という二つの要素に分けられ、「ordentlich(正規)のaußer(外=否定)」と定義されているということだろうか。同様に、「Eifersucht(嫉妬心)」もまた「情熱Eiferを持って追求するsucht」というように単語を要素に分けた上で定義に用いていた。しかし、なぜそのことが「単一化」の性質である「第三のもの」との関係づけになっているのだろうか。

フロイトは単一化の例としてまたこんなものを紹介しているが、これはなぜ単一化なのかよくわからない。

「『ヴィーンの漫歩者』ダニエル・シュピッツァーは、泡沫会社乱立時代に時めいたある社会的タイプをきわめて簡潔に、しかもきわめて機知に富んだ言い回しで伝記的に特徴づける文句を見出した。それは、『鉄のような額(鉄面皮)Eiserne Stirne——鉄の(無情な)倉庫eiserne Kasse——鉄の王冠eiserne Krone』(この最後のものは、貴族階級がその貸与と結びついていた結社である)。まことに見事な単一化である。すべてがあたかも鉄でできているようだ!eisernという形容詞のさまざまな、しかしそれほどいちじるしい対照をなさない意味が、この『多様な用い方』を可能にしているわけである。」(p. 263)

どうだろう。これはつまり、ある企業家が「厚顔無恥(鉄面皮)」で「けち(鉄の金庫)」で「貴族と結びついている(結社「鉄の王冠」に所属している)」ということを表現しているのだろうか。それを「鉄Eisern」という一つのキーワードを反復して用いて表現している(できている)のが上手い。ここでは、必ずしも二要素というわけではないが、なにが「第三のもの」として隠されているのだろうか。まあ普通に考えて、最初に言われていた「泡沫会社乱立時代に時めいたある社会的タイプ」を意味しているのだろうか。

そう、「単一化」の技法においてはおそらく「謎解き」がある。フロイトは単一化に定義を与えた記述の注の中で、フェヒナーやシュライエルマッハーらが作った「謎々」をいくつか例示して、そこに「高度の単一化」があると述べている。「機知」と「謎々」の違いは「機知が見えるように示すものを謎々はかくす」(p. 285)である。挙げられている例のタネがいまいちわからないのだが、一つだけ説明できそうなものがある。

「最初の綴りは貪り食い〔fressenは、動物が『食べる』〕、第二の綴りは食べる〔essen、人間が『食べる』〕、第三の綴りは貪り食われ、全体は食べられる」(p. 287)。この謎謎の答えは「Sauer-kraut(塩漬けキャベツ)」である。「Sauer-kraut」という単語を分解すると、「Sau(雌豚)」「er(人称代名詞『かれ』)」「kraut〔草、野菜〕」となる。確かに最初の綴り(Sau)は「動物の貪食」に関連し、二つ目の綴り(er)は人間に関係し、第三の綴りは動物に食われるものとしての「草」であり、全体(Sauer-kraut)は人間に食われるものとしての「塩漬けキャベツ」である。ここではそれぞれの要素「fressen」「essen」から「Sauer-kraut」を導くように謎かけがなされている、ということだろうか。しかしその「第三のもの」は何であるか。答えである「Sauer-kraut」が第三のものなのか。

まだラカンの議論を詳しく確認したわけではないが、「familière」と「millionaire」から合成語「famillionaire」が作られた時、「第三のもの」として隠されていたのは「famille」である。つまりいくつかの要素があって、そこから表面に出てくるもの(famillionaire)と裏に隠れるもの(famille)がある。

そう考えると、「Eifersucht」が「Eifer」と「sucht」に分割された時には、それらを合成して前面に出る「Eifersucht」と、その背後に隠される何かが存在するということだと考えられる。いや、あるいは前面に出ているのは「Eifersucht ist eine Leidenschaft, dir mit Eifer sucht, was Leiden schafft.」という機知の文句なのか。うーん、どっちの解釈が良いのか…

リヒテンベルクの機知においては、「1月」と「それ以外の月」という複数の要素があり、そこから「一月という月は、人が友人たちにお祝いを言うWunsche darbringen〔希望を述べる〕月である。そしてそれ以外の月は、その希望の満たされない月である」という機知の文句があり、「第三のもの」は「祝賀Gluckwunsche」であった。「ordentlich」の機知も同様である。

「単一化」についてフロイトはいろんな箇所で言及していて、言及のたびにこの技法の含みがどんどん増しているように思われる。その全てを示すことは割愛するが、「単一化」の技法は、複数の要素を並べることによって、その諸要素が関係する一つのもの(=「第三のもの」)を、表に出すことなく示す(あてこする)ということを可能にするものである。したがってフロイトによれば、単一化の技法によって、批判的意図を、露出させることなく貫徹することができる。これは結婚仲介人が行なっていることの等しい。つまり単一化による当てこすりというのは、それを伝える相手には分からないような諸要素の関連を見抜き、それら諸要素を統一的に把握する決定的な要素に、その批判的意図を込めるということである。その機知が「わかる」人にとっては、諸要素の羅列の中には表れない、だがそれら諸要素を支配する批判的焦点がわかる。

「単一化」について詳細に検討することは中断して、片山の議論に戻ろう。片山は、ラカンが圧縮であると見做す「ファミリオネール」の機知について、「単一化」の視点から読み解こうとする。が、ラカンの記述を見る限り、ラカン自身はこれを「圧縮」としか言っていないのであって、「単一化Unifizierung」という言葉は使っていない。さらにフロイトもまた「単一化」は「圧縮」と「類似している」と言っているのであって、同じものではないはずである。ここには片山の解釈が入っていると見た方が良いだろう。ただ、片山がここで「単一化」を用いたかったのは理解できる。たしかに、単一化において隠されている「第三のもの」を、「ファミリエール」と「ミリオネール」そしてその合成語である「ファミリオネール」の背後に抑圧され忘却されゆく「ファミーユfamille」と考えることは、的外れではないようにおもわれる。

さらにラカンは、「ファミリオネール」が新造語として誕生し、新たな意味を帯び、日常語として通用していくようになると考えている。そしてその中で「famille」という本来の意味は忘却されていく。「アテレattere」についても同様に、これが「恐怖terreur」のニュアンスを帯びてそれが日常化するにつれて、元の意味である「地面terre」は忘却されゆく。「アテレattere」は「アバテュabattu」に置き換えれることで、「恐怖terreur」のニュアンスが前景化し、「地面terre」のニュアンスは抑圧される(ここにおける諸要素と「第三のもの」は何であるか?)。つまり、その語の作者が本当に込めているもの、抑圧下に示している要素は、歴史から忘却されるということであろうか。ラカンは、古典テクストの読解でも同じであると語る。

片山はこの後で、「対象a」や「S1-S2」といった時期的にはより後の概念を用いて、アナクロニックに読解を行っているが、ここでは当該議論を確認したいとなんともいえないので割愛。ただ、「家族famille」が「ファミリエール」および「ミリオネール」に対して「換喩的な隣接関係にある」(p. 27)と言っているのは要検討。また、ここで片山が「単一化」および「共通の第三項」という概念に沿ってラカンの議論を解釈していることに関しては、注の中で「この観点では我々の解釈はそれなりに筋は通っていると思う。しかし、フロイトのこの概念を離れてラカンの議論を改めて眺めると、ことは遥に難解で込み入っている」(p. 36)と述べている。

「金の仔牛」に関する、つまり換喩に関する議論が片山の論文の最後にあるのだが、一旦ここで、論文にするということを念頭において整理してみよう。まず、やっていて思ったのは、もし「哲学の門」に投稿する場合、1万〜1万2千字に収めることを考えると、セミネール5巻までの「機知」の話題を全部詰め込むことは到底不可能である。したがって特に「圧縮」の機知に焦点を絞って、これまでの解釈を見通しつつ、ラカンのテクストを読み込んだ上での修正点であったり、新しい解釈であったりを示すという方向がいいだろう。それくらいが字数的にはちょうど良いんじゃないか。

書くことのできそうなキーワードを列挙してみる。「ファミリオネール」の機知。「アテレ」の機知、フロイトの「単一化」と結婚仲介人、「シニョレリ」の事例。などだろうか。そこに、僕がこれまでに調べてきた、セミネール4巻までのラカンの議論を組み込めたらやってみたい。例えば、「文字の審級」における隠喩の議論はこれまで見てきたどの研究にも存在しない。セミネール3巻にも隠喩は出てくる。

また、欧語論文も先行研究として取り入れると理想的である。探してみたらいくつか関連しそうなものが見つかった。

・Mercedes Blanco_Le trait d’esprit de Freud à Lacan_Savoirs et clinique 2002/1 (no1), pages 75 à 96
・Pierre Naveau_Lacan, le Witz_La Cause freudienne 2011/3 (N° 79), pages 235 à 238
・Frédéric Forest_1. De la représentation au signifiant : le rapiéçage lacanien_Freud, Lacan : anatomie d’un passage (2015), pages 23 à 64
・Mauricio José d’Escragnolle Cardoso, Vinicius Anciães Darriba « A Referência a Marx no Ensino de Lacan », Psicologia: Teoria e Pesquisa, 2016/1.

全部は無理だが、ひとつか二つくらいは参照したい。

いまセミネール3巻の換喩と隠喩についての部分を読んでいて、原和之の記述に関係しそうなものがあった。ラカンが機知のメカニズムをあくまでも「シニフィアン」の水準で説明しようとしていたのに対し、原は、機知においては特別に「シニフィカシオンがシニフィアンを規定する」と解釈していた(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/08/13/2024-8-13/)。なぜ原がこのように語ったかと考えると、そこにはラカンの次の説明があったからかもしれない。これはラカンの隠喩の定義としてよく引用される一節である。

「隠喩は、あるひとつのシニフィカシオンが支配的なものとして与えられているということ、そしてそれがシニフィアンの用法をねじ曲げ命ずるということを前提としています。従って予め決められたいわば辞書的な結合はすべて結び目を解かれています。辞書にあるいかなる用例を見てみても、麦束が欲深かったり、
まして恨み深いなどということは示唆されません。しかし、はっきりとしていることは、「彼の麦束は欲深くなく、恨み深くもなかった」というようなことが言える時に初めて、つまりそのシニフィカシオンが辞書的なつながりからシニフィアンをもぎ放す時に初めて、このようなラングの用法が、意味を孕むことができるのです。シニフィアンをもぎ放す時に初めて、このようなラングの用法が、意味〔シニフィカシオン〕を孕むことができるのです。」(セミネール3巻『精神病』下巻、p. 105)

原はこの一節から、「シニフィカシオン」が支配的に働いてシニフィアンを規定した、と解釈したのではないだろうか。では、そのことと、シニフィアンの水準のメカニズムを考えることとの間には、どのように折り合いをつけることができるか。ラカンは少し後にこうも言っている。

「私たちは、隠喩の不変の本質をシニフィエの転移ということの中に掴みます。その例を先回『彼の麦束は欲深くもなく、恨み深くもなかった』でお示ししました。/これこそ隠喩の格好の例です。シニフィカシオンがすべてを支配しているということも確かにできましょう。つまり、主語、すなわち『彼の麦束』に、あたかもそれが己の意思でもあるかのように寛容に散っていくものとしての価値を与えているのは、シニフィカシオンだというわけです。しかし、シニフィアンとシニフィエは常に、弁証法と形容し得る関係にあります。」(p. 112)

隠喩において怒っているとされる「シニフィエの転移le transfert du signifié」とはなんだろうか。

「重要なことは、相似性はシニフィエによって支えられている——私たちはいつもこういう過ちを犯しています——のではなくて、シニフィエの転移はランガージュの構造そのものによってのみ初めて可能であるということです。全てのランガージュはメタランガージュを含んでいます。全てのランガージュはすでにランガージュに固有の領域のメタランガージュです。全てのランガージュは、原理上は、訳すことができるものなのですから、ランガージュはメタフレーズ(逐語訳)、メタラング、つまりランガージュについて語るランガージュを含んでいます。人間の生にとってかくも本質的なシニフィエの転移は、シニフィアンの構造によってのみ初めて可能となるのです。」(p. 119)

これまで圧縮の機知においてみてきたことを、「麦束」の詩に適用してみることが必要かもしれない。

シニフィエの転移とはその言葉通りに取れば、ある言葉の意味が別の言葉に転移することだろう。それは、「アテレattere」に「恐怖terreur」のニュアンスが宿ったことに関係がありそうである。ラカンは「文字の審級」において、次のようにも言っている。

シニフィアンの下でのシニフィエの絶え間ない滑動(ずれ)という観念がそれゆえ認められる。それは、フェルディナン・ド・ソシュールが、創世記の写本の細密画に見られる上部と下部の水の湾曲した形に似ているイメージを用いて説明しているものである。二重の流れにおいては、その標識(目印)つまり対応する区画を境界づけるとされている垂直の点線が描く雨の細線が、minceであるように見える。」(E 502-3)

シニフィアンの下でのシニフィエの絶え間ない滑動(ずれ)」というのは、「シニフィエの転移」と同じ内容ではないだろうか。別の箇所では、これがフロイトの夢理論における「置き換え」に適用されている。

「Entstellung(置き換え、歪曲)は置き換えtranspositionと訳され、フロイトが夢の機能の一般的前提条件として提示したものであるが、これは私が上でソシュールを引いて示したものである。つまり、シニフィアンの下でのシニフィエの滑動であり、無意識の中で(無意識的であることに注意)常に活動しているものである。」(E 511)

フロイトの夢理論における「Entstellung」は、日本語では通常「歪曲」と訳されており、夢思想がそのままの形ではなく、別の形に歪曲されて顕在夢として現れてくることを指している。

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