2024/8/15

午前中はタイピング、午後はギターを指弾きしていたので、右手の指を使い倒しており、違和感と疲労が溜まってきてなかなかそれが取れない。週に1日、あるいは2週間に1日でも、完全オフの日を作って休息したほうがいいのかもない。

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マリノフスキーの言語論について、どうしてもなかなか結びつかない二つの要素、つまり「言語交感phatic communion」としての側面と、「呪術(魔術)magic」としての側面がどうなるのかということが自然と再度脳裏に浮上してきた。そこで小野文_2002_「バンヴェニストからマリノフスキーへ」を再びざっと眺めてみると、バンヴェニストの記述では、もともとは社会的行為としての呪術であった言語使用が、その効力を失って現在残っているものだと言われている。「これは魔術的意図を持つ遂行文がその荘重さと原始的効力を失ったものなのである」(p. 151)。なるほど、もともとは呪術であり、それが効力を失いはしたものの、もともとの名残を残している言語の形態が「単なる愛想としての言語」だということになる。したがって「言語交感」がもつ、社会的紐帯を形成するという機能はそのまま「呪術」の機能としても考えられなければならない。

ただ、マリノフスキーは「原始言語における意味の問題」の中では、第Ⅴ節からいきなり呪術の話に移って、社会的紐帯の形成という議論はどこかに行ってしまったように思われる。呪術の機能は何かを現前させることだとか、ものに力を及ぼすだとか言われるが、そのことが社会的紐帯の形成となんの関係があるのかを知りたいのである。そこで『西太平洋の遠洋航海者』で論じられている「クラ(交感)」と「呪術」の議論から何かヒントを得られないかと思ったのだが、あまり期待していたような議論が見つからない。

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さて。片山文保_2012_「機知と他者——フロイト・ラカンの機知論について——」を読んだ。なかなか蓄積の厚みを感じる論文であった。片山氏は2021年に明星大学教授を退職され、『アンコール』や『テレヴィジオン』の翻訳に携わった方である。また、昨日扱った川崎惣一氏はラカンの機知論の一つの頂点であるセミネール5巻『無意識の形成物』の翻訳者の一人である(原和之先生も共訳者)。この論文を読み解けば、日本におけるラカン研究の「機知」論に関しては概観したことになるだろう。とはいえ。ほかの研究トピックに比べれば量は少なく、楽なものである。

まず片山は、機知の笑いを「放埒」というキーワードから規定する。結婚仲介人、「マヨネーズをかけた鮭」を食べているところを見つかった男、酒に溺れている教師は、いずれも滑稽な人物であるように見せかけながら、実は社会的抑圧をくぐり抜けた放埒さを実現した「エピキュリアン的」人物たちである。「根本においては、人生のはかなさ、道徳的禁欲の虚しさを証拠として出す詩人たちの『今を楽しめCarpe diem』と同じなのである」(フロイト著作集4、p. 321)。これは同意する。

次いで、結婚仲介人の機知と、「滑稽新聞(フリーゲンデ・ブレッター)」の「生まれないほうがよかった」の機知を引いて、片山はシニシズム的機知の効果を論じている。一応、「生まれないほうがよかった」の機知の全文を示しておこう。

「『所詮死ぬべき人間にとっては、生まれないことこそ最上であろう』『だが』と『滑稽新聞』の賢者は付け加える。『十万もの人間のうちほとんど一人としてこの幸運にあずかった者はいない』」(フロイト著作集4、p. 278)

片山は注で、この機知がのちに扱う「金の仔牛」の機知と同じメカニズムを持っていると述べている。つまりスーリエの隠喩に対してハイネが換喩で応えたように(詳細はあとで検討する)、第一文(「所詮死ぬべき人間にとっては、生まれないことこそ最上であろう」)がもつ厭世的な意味を第二文(「十万もの人間のうちほとんど一人としてこの幸運にあずかった者はいない」)が根こそぎにする。「そうして、それまで意味の層に覆われていた真理の次元が垣間現れる。これは換喩的な文脈の移動による意味剥奪の効果の例だろう」(片山、p. 35)。「所詮死ぬべき人間にとっては、生まれないことこそ最上であろう」は単に厭世的な意味を持った文章であり、格調高い古代の格言であって、これだけで笑いが起きることはない。これが笑いを喚起する機知となるのは、第二文「十万もの人間のうちほとんど一人としてこの幸運にあずかった者はいない」がそれに応答することによってである。フロイトは「それによって畏敬の念を持って人が耳を傾けるかの知恵〔厭世的な格言〕もやはり一箇の無意味と大差のないことに目を開かせてくれる」(フロイト著作集4、p. 278)とのべる。つまり、生まれない人間にとっては良いも悪いも、幸運も不幸もないのであり、生まれた場合と生まれなかった場合をそのような尺度で比較することに意味はない。しかも「十万もの人間のうちほとんど一人として」という無駄な確率計算、そして「ほとんど」という厳密さの指標の空虚さは、この格言の無意味さと馬鹿馬鹿しさをさらに引き上げている。片山は次のように理解している。

「古代の知恵とフロイトの呼ぶ第一文は、苦悩の絶えない人生に対する厭世的な意味を持って人を納得させる力がある。しかし、そこには生と非生との間で幸福・幸運の程度を比較するという論理的に無意味な構えがある。第二文はこれを人生における様々な幸運の一つとして扱うことによって、この非論理・矛盾をむき出しにしてみせる。」(片山、p. 23)

ラカンはセミネール2巻および3巻で、この「生まれないほうがよかった」の機知について言及している。

「それほど滑稽drôleではないあのフレーズ『生まれてこないほうが良かった Mieux vaudrait n’être pas né』を取り上げましょう。古代のこの偉大な劇作家において、こういう台詞が宗教的儀式の中で現れているのは驚くべきことです。現代ではこんなことをミサの時に言うとどうなるでしょうか。喜劇はこういうことを笑い飛ばす役目を持っています。『生まれてこないほうが良かった Mieux vaudrait ne pas être né.』——すると相手役が言います。『残念ながら、そんなことはせいぜい10万回に1回もないだろう』。/なぜこれは機知になっているのでしょう。/まず何よりも、それが言葉の上での遊びになっているからです。言葉の遊びは分析技法上の不可欠な要素です。『生まれてこないほうが良かった』。もちろんです。これが意味するのは、そこに、考えられない一つのまとまりがあるということです。それが実在へと移行する前には語るべきことは何もありません。実在に移行した時から、それは執拗に続くこともできますが、続かないと考えることもできます。パスカルが言うように、すべては天体という宇宙的な休止と沈黙の中に戻るというふうに。確かに、『生まれてこないほうが良かった』と言う時にはそれも真実かも知れません。滑稽ridiculeなのは、それを言っておいて、そういうことの確率の計算を始めてしまうことです。機知が機知であるのは、それが我々の実在にあまりに近いので、笑い飛ばして無効にしなくてはならないからです。そのような地帯に位置するのが、夢や日常生活の精神病理や機知などの現象です。」(S2下巻p100−102)

この言葉が厭世的で真剣な格言でなく、機知になるのは、ラカンによればそれが「言葉の上での遊びjoue sur les mots」になっているからである。そしてラカンは片山が解釈したように、第一文に続く第二文が「そういうことの確率の計算を始めてしまう」ことによって、滑稽さをもつようになったのだと語っている。

次にセミネール3巻の記述を見てみよう。ラカンはフロイトが「モーセと一神教」の中でバーナード・ショウに対して反論した言葉を引いている。バーナード・ショウは「人間は300歳になればそのときはじめてまともなことがやれる」というようなことを言ったようであり、フロイトはそれに対して、「私はこの意見には与しない。寿命がのびてもどうにもならないだろう。どうにかするためには他の多くの生活条件が根底から変革されなければなるまい」(フロイト著作集11、p. 311)とのべる。ラカンはこれに対して次のように言う。

「自身のメッセージが人の手の中で解体されるに任せる前に瞑想を追求し続ける老フロイトのこの言葉は、コロノスの森へのエディプスの最後の歩みに伴うコーラスの言葉と反響し合うように私には思われます。民衆の知恵に伴われて、エディプスは、人間に影を追い求めさせている欲望について瞑想し、このコロノスの森がどこにあるかを知ることすらできなくなるほどの錯乱を示しています。その時、コーラスが歌う『mé phunaï』という語を誰一人としてうまくフランス語訳することができなかった——まずまずのラテン語に翻訳した人は別にして——のには驚かされます。それは『生まれないn’étre pas né』方が良かったと言う意味の詩句に変えられてしまっています。しかしその意味は明らかです。ロゴスに関するすべてのことを乗り越える唯一の仕方、それに決着をつける唯一の仕方、それは『このようには生まれないn’étre pas né tel』ことである、という意味です。生命を長引かせるあらゆる希望をその手から押し退ける時の老フロイトの身振りに伴っている意味は、これと同じものです。/『Witz(機知)』、言い換えると皮肉、に関する彼の著作のどこかで、彼自身が或る答えを我々に与えているのは事実です。『生まれてこない方が良かっただろう。しかし、不幸にもそういうことは、やっと20万回に1回しかない』。この答えを皆さんに差し上げます。」

、こちらの引用では、滑稽新聞の機知が『コロノスのオイディプス』の議論に結び付けられている。なぜラカンが「20万回に1回しかない」と言っているのかは不明である。そして、コロノスのオイディプスの中で歌われる「この世に生を享けないmé phunaï」は、フランス語では「このようには生まれないn’étre pas né tel」と訳されるべきだと説く。ラカンはなぜ「このようにtel」を付けたのか。フロイトがバーナード・ショウに反論して、寿命が300年になったとしても無駄であるといったのは、おそらく、ある種の運命のようなものを考えているからである。それはラカンにおいては「構造」による規定であり、そのように規定されていることから生じる運命としての「反復」である。したがって、長く生きたところで、成し得ないことは成し得ないのである。それゆえフロイトは、なにか「まともなこと」ができるためには「他の多くの生活条件が根底から変革されなければなるまい」と述べる。つまり「このようにtel」生まれるのではなく、別ように生まれることが必要である。それだけが「ロゴスに関するすべてのことを乗り越える唯一の仕方、それに決着をつける唯一の仕方」である。ラカンはここで、生まれることの不幸を、運命の反復に囚われる不幸として解釈しているように思われる。では、このような主題のもとにこの機知を捉えるとき、第二文「不幸にもそういうことは、やっと20万回に1回しかない」はどんな意味を持っているだろうか。それは、これもおそらくだが、あまりに悲劇的(運命の悲劇)な第一文に対する、「笑い飛ばし」という対抗策になるからではあるまいか。そこには、機知が不幸から生まれ、その不幸をどうにか丸め込むという、機知の本質的な機能が表れている。ラカンは「ローマ講演」で結婚仲介人について次のように語っていた。

「モラヴィアのユダヤ人社会を駆けめぐる結婚仲介人のいくつかの小咄を見るといい。それらの仲介人たちは、エロス神のおとしめられた姿であり、エロス神としてやはり欠乏と苦しみとから生まれた者であるのだが、無作法者の貪欲に、まず控えめにお仕えしておいて、突如としてハッとさせるような無意味の答えを返して彼を愚弄してやるのである。フロイトはこう言っている。『さっさと真実の最後の部分をぶちまけ、偽装の重荷をやっとのことで投げ出すことで、この男は何と幸せであったことだろう!』」(E 270, 新宮訳、p. 55)

片山はこれらの機知を「人間性全般に対してその外にポジションを取ろうとする根本的なシニシズムの表現である」(片山、p. 23)と述べる。そして、それは世界内部の「自我」には不可能であり、自我とは別の場所にある「主体」にのみ可能なポジションである。「死の本能」とは、この世界に生まれ落ちたことの外傷に対して、それ以前の状態に戻ろうとする傾向のことである。片山は死の本能が自我に対して表れる仕方を「短絡Kurzschluß」という用語で表現する。「短絡Kurzschluß」はフロイトにおいては、単なる音の類似によって全く別の文脈が短絡的に結び付けられてしまうことである。この短絡は世界内部の論理性には従っていない、が、論理性を装って侵入してくることはあり得る(例えば「十万もの人間のうちほとんど一人としてこの幸運にあずかった者はいない」は、全くのナンセンスではなく、上辺だけでも論理性を装っている)。このような非論理の侵入が、自我にとっては死の本能の現れであり、世界の外、生の外部からの視点を表現したものとなる。その視点から見えるのは、全ては無意味であるということか。

次の節で片山は、「笑う者」と「笑われる者」の間の闘争について論じている。「笑う者」は「真理」ないし「外部」のポジションを陣取っている者であり、その超越的なポジションから笑う対象を内部的「自我」としてまなざしている。したがって自我と主体は「笑われる者」と「笑う者」という関係を持っている。また、それが二人の人間の間で闘争的に行われる時に起こっているのは、互いに「真理」のポジションを陣取ろうとする競争である。

「笑われた者が、一瞬、真理の現れにたじろいだあと、今度は笑う者に反撃を試みようとする際には、まず、この笑う者が陣取っているポジションを探り、次いで、このポジションに潜む滑稽なるものを探そうとするだろう。つまり、その笑う者も一つの硬直した自我にしか過ぎないことを、その者が真の他者ではなく、ただ他者を僭称しているだけの自我にしか過ぎないことを暴こうとするだろう。」(片山、p. 25)

両者とも、<他者>の場からやってくる真理のインスピレーションと笑いをめぐって競争している。そしてうまくしてやられた方は、「他者を僭称しているだけの自我」の認定を受けてしまう。神託合戦のようなことをしている。

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