2024/8/14

「どんな意味か=何を言わんとしているか、に先立って、そもそも意味があるかないか=言わんとしているかどうか、についての逡巡があったのでなくてはならない。」(原和之『ラカン 哲学空間のエクソダス』、2002年)

原先生が考えるのは、普通の言葉の理解において我々は「これはAを意味しているのだろうか、それともBだろうか」と逡巡するのに対して、「機知」の現前に対してはそもそも「これは意味があるのだろうか、それとも無意味なのだろうか」という逡巡があるということである。そして相手の言葉の意味がその他者の欲望であるとすれば、機知においては他者の欲望の存在それ自体、あるいは他者が欲望するか否かが問題になっている。

最後に原は、機知においてなぜ笑いが生じるのかをラカンに即して考えている。フロイトにおいては、機知作成を免除されたことによって節約されたエネルギーが「笑い」として排出されるとされる。原の説明は必ずしも明快ではない。

「『ファミリオネーア』はドイツ語のコードの中には登録されていないシニフィアンであり、それ自体ではいかなるシニフィカシオンももたない。この『意味のなさ』の承認は、意味がコードを前提としているかぎりで、コードの共有の——裏返しでの——確認である。そこで生ずる、大他者に対するポジションの変化、いったんはじき出された主体の帰還ないしは失地回復に対応する主体の反応として、ラカンは『笑い』を説明しようとするのである。」(p. 110)

なぜ「意味のなさ」の承認がコード共有の確認なのか。そして「大他者に対するポジションの変化」とはなんなのか。

さらに、「可能な用法の集合」という観点から見た「シニフィアン連鎖」の理論では、次のように説明できると原は述べる。

「これをひとつひとつたどってゆくこと〔語であるシニフィアンとその語が含まれる語群としてのシニフィカシオンという別の水準をたどる?こと〕は時として煩わしい作業である。ところが「ファミリオネーア」では、この制約からの解放が例外的に起きている。そこでは水準の混乱——語群であるはずのものが語になっているということ——が生じているというだけではない。人はそれを聞き届けるとき、ヒアツィントが「何を言ったか(つまり意味のあることは何も)」と同時に「何を言わんとしていたか (そして結局は言い損ねたか)」をも理解する。この大他者というチャンネルの外で、いわば大他者を出し抜いて、有限な人間が従うべき定めを越えたところで成立してしまったコミュニケーションに、笑いが翻訳しているような快感は由来しているのだ。」(pp. 111-112)

原はシニフィカシオンを「用法」の観点で理解しているので、ある語(シニフィアン)の意味は、それがより大きな慣用句なり文なりの中でどのように用いられるかであると考える。したがって、シニフィアンとシニフィカシオンの間には、要素水準とその要素の集合水準という、水準の差が存在する。そして、原によればこの水準の差を「ひとつひとつたどってゆくこと」は「時として煩わしい」。このことが何を指しているのかは不明である。

しかし論理だけを読み取るなら、この「煩わしい」水準の差異を一挙に捉えることができる(したがってその煩わしさを回避できる)のが機知である。つまりシニフィアンの水準とシニフィカシオンの水準とが「同時に」理解されるというのである。そう考えれば、両水準を「ひとつひとつたどっていく」作業とは、示されたシニフィアンが一体何を意味するのか、それがどのような用法で今用いられているのかを推測する作業、つまり相手が言っていることの意味を推量する作業であると思われる。機知においてはその作業が節約されている。

では、なぜ機知においては相手の語る言葉の意味を推量する作業が節約されうるのか。フロイトの議論を思い出そう。フロイトは「謎々」と「機知」を区別していた。そして機知は笑いを引き起こすのに対して謎々は笑いを引き起こさない。なぜなら笑いに向けられるはずのエネルギーが謎謎を「解く」行為に向けられたからである。したがって機知は、謎々のように解読を必要とするものであってはならない。このように考えれば、原が言わんとすることが多少は理解可能になる。コードを介したコミュニケーションではその言葉がどのような意味を持つか(どのような用法か)を推量する作業が必要であるが、機知というのはその作業の免除を与える行為である。とはいえ、なぜ原がそれを「ヒアツィントが「何を言ったか(つまり意味のあることは何も)」と同時に「何を言わんとしていたか (そして結局は言い損ねたか)」をも理解する」と表現しているのかはよくわからない。原にとってそのことは「有限な人間が従うべき定めを越えたところで成立してしまったコミュニケーション」であるらしいが、その内実も不明である。

とにかく、二項対立で考えられてることだけはわかる。普通のコミュニケーションと機知のコミュニケーションは、意味理解の作業とその作業の免除であり、またコードの「内」と「外」である。

さて。一旦この本に関しては以上。こうやって見てきただけでも、色々とツッコミどころがある。原先生の解釈はかなり踏み込んだというか、大胆である。しかし曖昧な部分もある。ただ、先行研究批判において「曖昧だ」とか「わかりにくい」というのは批判になるのだろうか。「お前が読めてないだけだろ」と言われたらおしまいになるのではないか。理想的には、しっかり先行研究を理解した上で、しかし実際にラカンはこういうことも言っているからこう解釈した方がいい、とか、セミネール4巻までの機知に関する発言の中にこういうものがあり、そこから考えるとこう解釈すべきだ、とか論じられるのが良い。

次に川崎惣一_2007_「無意識のシニフィアン的構造_機知のラカン的解釈」を見ることにする。

この論文は短かった。批判点もいくつかありそうである。

川崎は、パロールが意味を持つためには、第三者としての「大文字の他者」に対してパロールが「開かれていなければならない」と述べる。そしてこの大文字の他者は「その対話には居合わせることのない第三者」であり、「パロールが意味を持つことができるための領野」である(p. 119)。これは原和之が大他者をコード(つまりシニフィアンの可能な用法の集合=宝庫)と見做していたことの別の言い方といえる。そして、主体はその語り(ディスクール)がこの大他者の領野において展開されることにおいて、つまり「誰かによって聞かれる」ことにおいて、構成されるという(p. 120)。主体は聴き手によって構成される(もっといえば聴き手こそが相手の「主体」を構成する)というのは、原の理解に一致しているようである。原はそこに、自分の欲望と他者の欲望との二重構造を読み取ってもいる。ただ、大他者が「その対話には居合わせることのない」というのは要検討である。居合わせないのであれば自分のディスクールが聴き取られることもない。また、聴取によって主体が構成されるとすれば、主体とは他者のことなのだろうか。というのも、聴き手が相手の話を聴き取って、その相手の主体を構成するからである。主体=他者という等式を成り立てせて良いのだろうか。また、主体として構成された他者と、「大他者」の関係はどうなっているのか。同じなのか。

そうしてフロイトの『機知』およびラカンの解釈に入っていくのであるが、川崎はここでラカンの解釈の強引さを指摘する。例えば「マヨネーズをかけた鮭」の機知で生じている「転移Vershiebung」の技法について、フロイトはあくまでも「転移の機知は言語的表現とはほとんど無関係だということである。それは単語にではなく、思考過程に依拠している」と述べ、転移が単語レベルでなく思考レベルで起こっていると明言しているにも関わらず、ラカンはこの機知において起こっていることをシニフィアンの次元で、つまり単語のレベルで理解しようとしている。

川崎はラカンによる機知の理論が、あくまでもシニフィアンの次元で展開されていることを強調する。これは、機知において「シニフィカシオンがシニフィアンを規定する」と大胆な解釈を行う原和之とは異なるように思われる。

「ラカンは、「マヨネーズをかけた」の関については、フロイトの与えた説明を詳細に検討することなく、この機知がアクセントを変えることによって成り立っており、これは、機知の表明がシニフィアンを介することによって生じるのだ、と主張して、自らの理論的組みのなかで捉え返している。」(p. 123)

ここも要検討である。ラカンの解釈は本当に強引なのか。実際にラカンのテクストにあたって考えてみる。

川崎は「シニョレリ」の話を解説した後で、原と同じように「atteré」の話をしている。

「ラカンはこのほかに、「アテレ atterre」という題が、「恐怖terreur」と結びつけて理解されるようになる、という事実を例としてあげている。もともとこの「アテレ」は、「地面terreに置く=投げ倒す」と言う意味であったのだが、その「アテレ」に含まれている「テール terre」によって「恐怖terreur」が導きいれられ、「アテレ」に「恐怖」という暗黙の(抑圧された)ニュアンスが付け加わることになる。これはまさに隠喩のメカニズムによるものであり、「アテレ atterre/テール terre」が「テール terre/恐怖 terreur」に置き換えられ、両者が掛け合わされることで、「アテレ」が「恐怖」という新しい意味を持つようになったのだ、と説明するのである。」(p. 126)

昨日はこの「atteré」の議論を確認し、原の解釈とは違ってラカンはシニフィアンの領域での操作を考えているのではないかと論じたが、川崎の解釈にも違和を覚える。例えば「『アテレ』に『恐怖』という暗黙の(抑圧された)ニュアンスが付け加わることになる」という部分。ラカンは次のように言っている。

「「アテレ atterre」という語の慣用が、現在知られているようなニュアンス〔つまり「恐怖terreur」のニュアンス〕において確立してからというもの、元の型は、辞書あるいは学問的な言説に訴えるのでない限り、もはや皆さんが自由にできるものではなくなってしまっていて、「地面 terre」、「地面terra」としては、抑圧されているのです。」(『無意識の形成物』上巻p. 41)

ラカンは抑圧されるのは「地面terre」だと言っている。しかし川崎は抑圧されたのは「恐怖terreur」であると言っている。そして、シニョレリのメカニズムと同様に、「アテレ atterre/テール terre」(「シニフィアン/シニフィエ」)が「テール terre/恐怖 terreur」に置き換えられ、、そこから「terre」が訳文されて消え去り、「アテレ atterre/恐怖 terreur」という組みになる、と論じている。

この説明は一部なるほどと思わせるものもあるが、疑問も大いに感じる。まず、この隠喩においては何が置き換えられているのだろうか。「、「アテレ atterre/テール terre」が「テール terre/恐怖 terreur」に置き換えられ、両者が掛け合わされる」とはどういうことなのか。ラカン自身は、「『アテレatteré』という語は、『アバテュabattu』という語の代わりに置き換えられるわけです。これは一つの隠喩です」と述べている(S5上巻p. 38)。置き換えられているのは「abattu」から「atteré」へ、である。

最後に川崎は、機知の「主観的条件」について論じている。これはフロイトが『機知』の「機知の動因、社会的過程としての機知」という章の冒頭で述べているものである。フロイトはこの直後に、ヒアツィントがハイネ自身であると考察しているので、「主観的条件」というときの「主観」とは、川崎が解釈するように「機知を生み出した当の本人の自伝的要素」(川崎、p. 127)でまず正しい。そしてこれに対して、機知はまた、それを聴き届ける第三者としての「他者」を必要とする。川崎はこの、機知を聴き届け受け止める「他者」こそが「大文字の他者」であると述べるが、これは川崎自身が最初に述べていた「その対話には居合わせることのない」第三者としての他者という規定と反する。

なお、フロイトは当該箇所以前に、「機知についてのそういう主観的条件が存在することになる〔…〕私が機知として認めるもののみが機知であることになる」(フロイト著作集4、p. 317)と述べている。ここでは結婚仲介人の機知について説明されていた。一見すると笑い飛ばすべき滑稽な人物である結婚仲介人は、実は気付かれずに真実を暴露することに成功している。つまり、結婚仲介人の逸話は、ある種の人々にとっては単なる「滑稽」であるが、別の種の人々にとっては「機知」なのである。そして、この逸話が滑稽であるか機知であるかは、それを判断する者の「主観的条件」に依存している。それはまずもって、川崎が理解するように機知の作り手の主観であろう。作り手にとっては確実に機知である。

しかし、フロイトはこうも言っている。「機知の場合の第三者においても、機知はその快感喚起という目的を不可能にすることもあるような主観的条件に当面する。シェイクスピアが注意しているように、『冗談の成否は聞く者の耳にあるので、それを言う人の舌にあるのではない。…』」(フロイト著作集4、p. 348)。つまり、フロイトが「主観的条件」というときの「主観」は、機知の作り手であると同時にその聴き手をも含んでいる。自分の作った機知を相手に伝えることで相手を笑わせることができた場合、自分とその相手との間には心的条件の合致がある。ユダヤ人の機知は、ユダヤ人コミュニティに特有の心的条件において笑うことが可能であり、そのコミュニティの人間が楽しむことができる。

つまり、ラカンが意味生成を「隠喩」から考えようとし、隠喩を考えるにあたって「機知」を論じるというのは、つまり「意味がわかる」というのはそのコミュニケーションの自分と相手が同じランガージュを共有していることの確信だということを考えていたからではないか。「意味がわかる」とは「機知が通じる」ということであり、「同一の主観的条件を持つ」ということであり、「共通の利害を持つ(=同じ傾向性を持つ)」ということである。

最後に川崎は「pas de sens」としての隠喩と「peu de sens」としての換喩について少し論じているが、あまりにも言葉足らずで解説にはなっていない。

次回は片山文保_2012_機知と他者_フロイト・ラカンの機知論について。

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