2024/8/5

ラカンはハンプティ・ダンプティに数回言及している。それがどのような問題系にあるのか、以下に示してみる。まずはローマ講演からの一節。

「しかしまた、ソクラテスの対話者と我々の対話者との間にも歴史的な差異があるのであり、その差異がどの程度のものかを感じ取っておくのは無駄ではあるまい。ソクラテスが、奴隷の語らいの中からさえ引き出してこられるような職人的理性に依拠したとき、彼は、本物の主たちをして、彼らの権力に正義を与えたり都市国家の主の言葉を真理としてくれたりする次元の必然性へと、近づかせようとしていたのであった。一方、我々が関係を持っているのは、自分を主であると思っている奴隷たちに対してである。彼らは、普遍的な使命を持った言語活動を営んでいるということの中に、自分の隷属の支えを見出している。その両義性という紐帯をもってである。そんな具合であるから、ユーモアによって次のように言ってみるのもいいだろう。我々の目的は、彼ら奴隷の中に、君主の自由を回復させてやることであるのだと。その自由を証拠立てているのは、かのハンプティ・ダンプティである。彼は、アリスに、結局は彼はシニフィアンの主であるということを思い出させる。たとえ彼が、存在がそこでその形をとったようなシニフィエの主ではないとしても。 」 (E 293、新宮訳p90−1)

ラカンによれば、精神分析家の目的というのは、患者=「自分を主であると思っている奴隷たち」に「君主の自由を回復させてやること」である。そしてその(君)主の代表例として、ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』のキャラクター、ハンプティ・ダンプティが挙げられている。ラカンは、ハンプティ・ダンプティを「シニフィアンの主maitre du signifiant」であると規定する。上の引用の前半部分がソクラテスの産婆術に関するものであることは、一昨日の記事(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/08/03/2024-8-3/)で紹介した「犯罪学における精神分析の機能にむける理論的序説」(1950, 『エクリ』所収)の一節にも関わりそうである。また、ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法のラカンによる読み替えという問題も考慮に入れる必要がある。とはいえ、ここではハンプティ・ダンプティに焦点を絞ろう。

「シニフィアンの主」であるとはどういうことか。新宮一成による訳注によれば、『鏡の国のアリス』にはアリスとハンプティ・ダンプティの次のような会話がある。

「おれがある言葉を使うと」とハンプティ・ダンプティはいくらかせせら笑うような調子で言いました、「おれが持たせたいと思う意味をぴったり表すのだ——それ以上でも、それ以下でもない。」「問題は、言葉に色々な違う意味を持たせることができるかどうか、ということです」とアリス。「問題は、どっちが主人か、ということなんだ——それだけだ」とハンプティ・ダンプティ。(『鏡の国のアリス』岡田忠軒訳、角川文庫、1959年、p. 90)

「シニフィアンの主」であるとは、言葉に自分が持たせたい意味を持たせることができる立場にあるということである。ラカンはローマ講演の数ヶ月前、1953年7月8日に「象徴界、想像界および現実界LE SYMBOLIQUE, L’IMAGINAIRE ET LE REEL」という基調講演を行っている。ここでもハンプティ・ダンプティが登場する。

「というのも、親族関係のシステムは、それが確立されている限りにおいて、その境界と範囲において極めて限定されたものになっているからである。しかし、もしあなたが、7番目のいとこを平行したいとこ、あるいはその逆、あるいは従兄弟違い、あるいは3、4世代ごとに繰り返されるある種の同族関係であなたと結ばれるため、そのいとこと結婚できないような文明に属していたとしたら、言葉と象徴が人間の現実に決定的な影響を及ぼしていることに気づくだろう。ルイス・キャロルのハンプティ・ダンプティが、その理由を尋ねられたときにこう答えたように。『なぜなら私が主人le maîtreだからだ。』/言葉motに意味を与えるのは人間l’hommeであることは最初から明らかである。そして、言葉がその後、コミュニケーション可能性という共通の一致の中に自らを見出したとしたら、つまり、同じ言葉が同じものを認識するのに役立っているとしたら、それはまさに関係性relationの機能として、最初の関係性の機能として、これらの人々がコミュニケーションする人々であることを可能にしたのである。言い換えれば、表現された心理学的認識を除いては、言葉がどのように物事から生まれ、それらに連続的かつ個々に適用されるかを推論しようとすることはまったく問題ではなく、一連の相補性によって一定の数の意味づけsignificationsを構成する言説の総体系、すなわち決定されたランガージュの宇宙の中にあることを理解することである。」(LE SYMBOLIQUE, L’IMAGINAIRE ET LE REEL)

ここでは、直前にモーリス・レーナルトの話がされていたこともあり、人類学における外婚性の議論を結びつけられている。外婚性の諸規則によって自分の結婚できる相手、できない相手が定められているとすれば、それは「言葉と象徴le mot et les symboles」がそれを定めているのである。コミュニケーションを行う二人の人間の間で、ある言葉が同じものを認識することに役立っているとすれば、それはその言葉が、二人の関係性を規定しているからである。ラカンは言葉の「意味」を、言葉が持つ社会的関係を規定する機能に見出している。「意味がわかる」とは、「関係性が定まる」ということなのだろうか?あまり実感の湧かない命題である。

ラカンはこの直後に、精神分析家ジュール・H・マッサーマンの1944年の論文「言語、行動、力動的精神医学(Language, Behavior and Dynamic Psychiatry)」の批判を行う。この批判はローマ講演においても行われている。マッサーマンはハジンズという動物学者の研究を引いている。ハジンズの実験では、人間の眼に光を当てて一緒にベルを鳴らすことによって、ベルの音だけでも瞳孔が収縮するように条件づけることができる。そして今度は、ベルの音と一緒に「収縮せよ!Contract!」と命令すると、この言葉をその被験者が自分で発音したり囁いたり、さらには思考したりしただけでも瞳孔が収縮すること、そして被験者はそのことに無自覚であることが観察された。瞳孔収縮に対する刺戟がベルの音から「収縮せよ!Contract!」という言葉(やその思考された観念)に置きかわったことで、単なる条件的なシグナル反応を超えた、象徴とそれに対する無意識的な身体反応の関連を人工的に作り出すことができたとマッサーマンは主張している。

しかしラカンに言わせれば、このような主張は動物における「信号(シグナル)」に対する反射と、人間における「象徴(シンボル)」に対する反応とを混同している。ラカンは次のように反駁する。同じ被験者に「Marriage Contract(結婚契約)」や「Contract Bridge(トランプゲーム)」、あるいは「収縮するな!Don’t contract!」といった言葉を聞かせたり、さらには「contract」という言葉の音節を「contrac」「contra」「contr」と縮めていったりしたときにどうなるか、と。

もし音節の短縮によって被験者の反応に変化が見られるとすれば、被験者の瞳孔はたんに特定の音に反応していたにすぎず、意味は関わっていないことになり、マッサーマンはその点を考慮していなかったことになる。あるいはもし音節を短縮しても変わらず反応が起こる場合、言い換えれば先程とは異なって音ではなく意味が反応に関与していた場合、収縮せよという命令の「意味」が、音節をどこまで短縮していった段階で消えるか(あるいはどこまでは保たれているか)という「意義素の限界limités du sémantème」の問題が提起されることになる(しかしおそらく、結果は前者であろう)。いずれの場合を考えても、マッサーマンとハジンズは適切に問題を取り扱ったとはいえないというのがラカンの批判である。

ところで、マッサーマンの元論文の中にもハンプティ・ダンプティが引かれている。

「従って、「財産」という言葉が持つ正反対の両極端の意味をそれぞれが利用するのは、単純な言葉の「誤用」ではなく、むしろ、以前に確立された態度や派生した経験的な三段論法syllogismsに根ざした総合的な行動パターンの首尾一貫した一部なのである。この意味で、男性にとって「財産」という言葉は「私が処分しなければならないもの」を意味し、女性にとっては「夫の財産であり、すべて私だけの利益のために使われなければならないもの」を表している、と主張することができるだろう。もう一度、ルイス・キャロルの言葉を引用しよう:『言葉を使うとき』…。ハンプティ・ダンプティは、かなり軽蔑した口調でこう言った。『それはおれが意味させようと選んだものを意味するんだit means just what I choose it to mean——それ以上でも以下でもない。』(原注)」(p. 3)
原注:「問題は、”アリスは言った、”言葉をそんなにいろいろな意味にできるかどうか”。「ハンプティ・ダンプティは言った、「問題は、どちらが主人になるか、それだけだ」。アリスはあまりに戸惑って何も言えなかった。」

マッサーマンはこの直前の部分で、病的な症状がある象徴によって喚起されるということ(例えば「エレベーター」が高所恐怖症の症状を喚起する)を、象徴の多義性から説明しようとしている。例えば「The indolent man ran through his large fortune quickly and thoroughly.(不摂生な男は大きな財産をすばやく徹底的に使い果たした。)」という表現は、「財産fortune」を「通ってthrough」「走ったran」という象徴的な表現の文である。そしてこの文の多義性によって、この男は「無尽蔵の「財産」だという希望的幻想を根拠に、わずかな遺産を愚かに使ってしまう」(p. 3)かもしれないし、あるいは逆にこの文章の主体がこの男の妻だとすれば、「その妻がこの文章によって、夫が自分のやり場のない悲しみと動揺のために、実際にはたいした金額でもないものを「浪費」しているという意味だとしたら、妻自身が反芻性メランコリア症ruminative melancholiacとして施設に収容されるかもしれない」(p. 3)。

このようなある種の強引な(病的な)解釈によって生じる症状に対して、合理的な説明によって解釈の矯正を行うことに意味はない。「高所恐怖症の患者に対して、『エレベーターは実際には危険ではないから』という理由でエレベーターに対する恐怖は不要だと指摘するのと同じくらい役に立たない」(p. 3)。マッサーマンによれば、このような病的な解釈は単なる言語の「誤用misuse」ではなく、「以前に確立された態度や派生した経験的な三段論法syllogismsに根ざした総合的な行動パターンの首尾一貫した一部」である。つまり患者の過去の経験に紐付いた推論的反応なのである。

過去の経験に紐付いた反応というのはオグデン&リチャーズ『意味の意味』での記号理解のモデルにもなっていたものであり、この点でラカンとは「象徴」というものに対する考え方を異にするわけだが(修論で論じている)、マッサーマンが言いたいこともわかる。そしてこの直後に、先ほど示したハンプティ・ダンプティの言葉が引用されている。「『言葉を使うとき』…。ハンプティ・ダンプティは、かなり軽蔑した口調でこう言った。『それはおれが意味させようと選んだものを意味するんだit means just what I choose it to mean——それ以上でも以下でもない。』」

つまりマッサーマンは、患者がある物事を象徴的に読解する、自らの過去の経験に引き付けて強引に解釈しようとすることを、ハンプティ・ダンプティのようなものだと考えているのである。そこでは、ある言葉が何を意味するのかということを、自らが支配している。

もう一度最初のラカンの引用に戻ってみる。

「ユーモアによって次のように言ってみるのもいいだろう。我々の目的は、彼ら奴隷の中に、君主の自由を回復させてやることであるのだと。その自由を証拠立てているのは、かのハンプティ・ダンプティである。彼は、アリスに、結局は彼はシニフィアンの主であるということを思い出させる。たとえ彼が、存在がそこでその形をとったようなシニフィエの主ではないとしても。」(E 293)

ある語が何を意味するのか、つまりある種の解釈の強引さをハンプティ・ダンプティを例にとって表しているのだとすれば、彼はむしろ「シニフィエ〔意味されたもの〕の主」なのではないか?「彼の存在がそこでその形をとったようなシニフィエの主 (maître) du signifié où son être a pris sa forme」(「prendre forme」には「形をなす、形がはっきりしてくる、具体化する」という意味がある)という表現はそれ自体わかりにくいが、なぜラカンは「シニフィエの主」ではなく「シニフィアンの主」だ、と語ったのだろうか。それは不明瞭だけれども、そのことが外婚性の諸規則を定めているのだとすれば、コミュニケーションにおいて二人の人間が一つの言葉の意味を共有できるのは、何かある第三者が、「シニフィアンの主」となって、その言葉の意味するところを命令的に定めているから、ということになるだろうか。つまり関係性を定めるという言葉の機能が、意味の発生を制御しており、他者とのコミュニケーションを可能としている。

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“2024/8/5”. への1件のコメント

  1. 2024/8/11 – shanazawa.com

    […] ちなみにセミネール4巻までのラカンの『機知』に対する言及を集めて読解するというような内容にしようと思うのだが、今朝4巻を見ていたらここにも「ハンプティ・ダンプティ」が登場していた(cf. 2024/8/5の記事:https://shanazawa4.wordpress.com/2024/08/05/2024-8-5/)。ラカンによれば、ハンスはハンプティ・ダンプティのようなものだという。詳細な検討はしないが、該当箇所だけ引用しておく。 […]

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